土曜日, 4月 5, 2025
ホームつくば母の流した涙を次の世代に味わわせてはならない【語り継ぐ 戦後79年】6

母の流した涙を次の世代に味わわせてはならない【語り継ぐ 戦後79年】6

つくば市 稲葉教子(きょうこ)さん

つくば市の稲葉教子さん(73)さんは子どもの頃、いろいろな時々に母親から戦争の話を聞いて育った。「今73歳になって、母の流した涙を次の人たちに伝えておきたい、息子や孫に絶対に味わわせてはならない」と今年5月から、所属する市民団体の会報に両親の戦争体験をつづり始めた。

教子さんの母親は、1925(大正14)年埼玉県深谷市生まれ。戦争で2人の夫を亡くし、家を守るため3度結婚した。最初の嫁ぎ先は岡部村(現在は深谷市)の農家。山林を開墾した農家で、暮らしは楽ではなく、夏の間は蚕を飼って生活を支えた。青年団の活動で最初の夫と知り合い、当時は珍しい恋愛結婚だった。次の年、教子さんの兄になる長男が生まれ、夫と息子、夫の両親に囲まれ、母にとっては貧しくても一番幸せな時だったのではないかと思う。

抱いて寝たら骨が暖かかった

2、3年経って最初の夫が出征し、ある日突然、戦死したという知らせが届いた。夫の両親は茫然として涙も出なかった。その後、戦友が訪ねてきて、遺骨と遺品をもってきてくれた。遺品は血染めの便せんで、最期の様子も話してくれた。

母は血染めの便せんを、たんすの一番奥の下着の下にしまっていた。年末の大掃除の時、子どもだった教子さんが茶色くなった紙を見つけた。何か母の秘密のものなのではないかと、恐る恐る「母ちゃん、これなあに」と聞くと、母親が「それはね、母ちゃんが前のだんな様と結婚していた時、その人が戦争に行って、母ちゃんがその人に書いて送った手紙なんだ」と教えてくれた。

最初の夫は、母の手紙を胸のポケットに入れて出陣、「進め」という合図で進軍し、ちょうど胸に弾が当たって便せんが血で染まったのだと戦友は母に話してくれた。教子さんが小学2、3年生の1960年頃のことで、戦争なんてずっと遠い昔のことだった思っていたが、身近に戦争を感じたという。最初の夫がどこで亡くなったのかは分からない。

遺骨が返ってきた日、母は遺骨を抱いて寝た。「そしたら遺骨が暖かった。骨が『家に帰ってきてうれしいよって言ってるんだなと思った』」と母親は教子さんに語った。

夫が亡くなったので、息子を連れて実家に戻りたいと母が義理の両親に言うと、両親から「今実家に戻られたら家が絶えてしまう、何とかして家を継いでほしい」と言われた。義理の母親がかわいがっていた甥っ子を婿に迎えるので、どうにかして家に残ってほしい」と説得された。

2度目の結婚をしたが、太平洋戦争末期で2番目の夫も間もなく招集され、何カ月もしないうちに戦死の報が届いた。南方洋上で船に乗っている時に爆撃を受けて沈んだらしく、遺骨も遺品も無かった。

同じころ母の実家からは、2人の兄が亡くなり、目の不自由なおばあちゃんがいるので何としても戻ってほしいと言われた。しかし義理の両親が今度は、母を養女にしてお婿さんをとるから何とか残ってくれないかと畳に額をこすらんばかりにして頼み、母親は3度目の結婚を承諾した。

軍隊のお下がりを嫁にした

3人目の夫が教子さんの父親で、子供の頃、肺結核を患っていた。なかなか治らず、ある日医者に連れて行かれたら、これで殺せと毒薬を渡されたという。家族はいくらなんでも毒薬を飲ませることができず、寺のお坊さんに相談したところ「俺が面倒を見るから俺に渡せ」と言われ、寺にもらわれた。肺結核を患っていたから兵隊の検査でも甲種合格にはならなかった。

3番目の夫は結婚初夜、母に対し「俺は軍隊のお下がりを嫁にした」と言ったと、母から聞いた。教子さんはその話を聞いた時、子供ながら「母は好んで寡婦になったわけではない。これから妻になって一緒に生きていく人にそういうことを言うなんて、なんてひどい父なんだろうと思った」という。

一方で、父について「あの頃、肺結核で兵隊にもなれない、そういう奴はお荷物だから早く死んだ方がいいと言われ、父は軍隊と兵隊が大嫌いだったんだと思う。父には父なりの、そういう経験が影響していたんだと思う」と教子さん。

教子さんの父親は生前「戦争ってのはな、絶対やっちゃいけねえんだ」とよく口にしていた。父を看取り、82歳で亡くなった母は「戦争はしてはならない」と父のようには言わなかったが、淡々と話す母の人生の物語から、戦争をするとこうなるんだよと言っているような気がした。

教子さんは「母や父の人生をみると、戦争はどこか遠くで起きるようなことではなく、愛する人たちが不幸になっていくこと、だれが犠牲者になるか分からず、皆が不幸になることだと思う」と話し、「第2次大戦では、戦争が始まってからでは反対できなかったことを国民は知っているはずなのに、このころ忘れてしまっていると思う」という。(鈴木宏子)

終わり

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