水曜日, 9月 11, 2024
ホームつくば開拓団が逃げた後の居留地でソ連兵の残飯をあさった【語り継ぐ 戦後79年】5

開拓団が逃げた後の居留地でソ連兵の残飯をあさった【語り継ぐ 戦後79年】5

つくば市 松浦幹司さん

市民講座「楽々大学」を主催するNPO法人スマイル・ステーション代表のつくば市、松浦幹司さん(87)は、旧満州(中国東北部)で生まれ、9歳だった終戦翌年、家族4人で引き揚げてきた。「このような体験はこれからの人たちに二度としてほしくない」と語る。

1937(昭和12)年、旧満州国(中国東北部)の首都、新京(現在は長春)で生まれた。盧溝橋事件が起きた年で、この後、日本軍は上海に攻め込み、翌38年、南京大虐殺といわれる南京事件が起こる。

松浦さんの両親とも山口県出身。新聞記者だった父親が、新聞社が満州に支社をつくるというのをきっかけに家族で満州に渡った。父親は一旗揚げようと、その後新聞社を辞め、満州でさまざまな事業を手掛けた。

40歳を過ぎた父に召集令状

1944年、戦況が悪化し満州国を実質的に統治していた関東軍が戦力を南方に移していたため、後を埋めるのに、40歳を過ぎた父親にも召集令状がきた。出征先はハイラルというソ連国境に近い町。父親は陸軍病院の事務方として勤務した。

松浦さんが小学2年だった1945年7月、父親がいるハイラルで夏休みを過ごそうと、母と1歳の妹と3人で、父のいるハイラルに出掛けた。ハイラルに近いマンチョウリという町が鉄道の終着駅にソ連の赤い列車が入るからと、見に行くのが楽しみだった。

父親が住む軍の官舎で夏休みの2カ月間を過ごすつもりだったから、衣類はカーキ色の半ズボンと上着のシャツ、帽子ぐらい。冬服は持っておらず、荷物もあまりなかった。

ハイラルの日本人学校は夏休みが無かったため、松浦さんはハイラルで小学校に通ったが、教室での勉強はあまりなく、軍隊の練兵場などの草取りに駆り出された。

ソ連が攻めてきた

ソ連が侵攻した8月9日は、午前2時ごろに父親が軍事演習だと言って呼び出され、軍用のトランクを持って出掛けて行った。

明け方、街中の方でドーン、ドーンという爆発音がして黒い煙が上がり始めた。父親は軍事演習だと言って出掛けたので、残された家族で「演習にしては派手だね」と話したのを覚えている。

そのうちラジオで、ソ連が攻めてきたことが分かった。慌てたが、どうしていいか分からない。そのうちに軍から「ハイラルの駅に集まれ。荷物は1人1個」という指示がきて、着の身着のまま駅に向かった。

駅で何時間か待ち、列車が入ってきた。民間人は後回し、軍人とその家族が優先され、母と妹と3人で列車に乗った。軍人も乗り、父親が家族がいる車両に来てしばらく一緒に過ごした。

軍は、ハルピンに向かって南下する途中のコウアンレイ(興安嶺)という山脈に陣を張って防戦するつもりだったので、チチハルで降りた。父親はここで分かれると言い、形見として軍の双眼鏡を渡してくれた。

家族はハルピンまで南下し、列車を下りた。ハルピン駅の近くには西本願寺があって、軍人の家族200~300人が寺の大広間に集められた。

日本が負けた

8月15日は寺で迎えた。大事な放送があるというので皆庭に出て、玉音放送が始まった、何を言っているのが雑音ではっきり聞き取れなかったが、大人たちが泣き出して、ぼそぼそと、日本が負けたというようなことが伝わってきた。小学2年だったので当時、負けたということがどういうことなのか、よく分からなかった。

何日か後、西本願寺はソ連兵の管理下になり、家族を引率してきた日本兵は武装解除となった。あすは日本に帰すという噂はいっぱい立って、皆それを期待していたが、そのような動きにはならなかった。

ある日、汽車に乗れと言われ、これで日本に帰れるのかなと思っていたら、ハルピン郊外の日本人開拓団が住んでいた居留地に移された。ソ連侵攻で開拓団は逃げ、空(から)になった居留地の一つだった。

コーリャンのおにぎりが1日1個

そこで冬を越すことになったが、食料はコーリャンのおにぎりが1人1日1個配られるだけだった。ソ連軍は開拓団の学校に駐屯し、野外で食事をした。食べ物はジャガイモのふかしたものと黒パンなど粗末なものだったが、日本人の子供たちは食事が終わるのを周りで待って、パンくずとか食べ残した残飯をあさった記憶がある。

栄養失調と赤痢、腸チフスなどの疫病で、毎日のように子供や老人が亡くなった。200~300人いた軍人家族の3割は亡くなったと思う。仲間が亡くなると庭に穴を掘って埋め、そのたびに皆で手を合わせた記憶がある。

母親は結婚前、看護師をしていて、多少医療の知識があり、浣腸の道具などを持っていた。赤痢になると命はないとわかっており、当時、便に血が混じったら教えなさいと言われた。血が混じっても、石鹸を溶いた石鹸液を浣腸で入れて、洗い出すしかなかった。

母親は、居留地での苦労がたたったのか、帰国してからひどい喘息を患い、当時の話を聞くことも出来ず52歳で亡くなった。

長春に戻っていい

中国では当時、毛沢東率いる中国共産党軍と蒋介石率いる国民党軍のせめぎ合いがあった。毛沢東の後ろにはソ連、蒋介石の後ろには米国がついていて、どちらも勝ったり負けたりしていた。1945年末か46年始めの冬、居留地をたまたま蒋介石が治めたときだと思う。日本人は長春(満州国崩壊により新京から改称)まで南下していいということになり、ハルピンから貨物車で向かった。長春には自宅があったが、戻ってみると、留守をしている間に中国人に取られて、入ることもできなかった。

終戦後も長春には何十万人という日本人が残っていたので、知り合いの日本人の家に転がり込み、点々とした。日本人が住むマンションは、階段の登り口に柵をつくってソ連兵や中国人が入れないようにしてあった。夜、ソ連兵の悪い連中が襲ってくると、皆で一斗缶を叩いた。ソ連兵が来たぞという合図となり、一斗缶を叩く音が広がって、しばらくするとソ連の憲兵が来て悪い兵隊を追い散らしくれた。

長春では収入が無かったので、転がり込んだマンションの台所でそら豆を揚げて、中国人に売って歩くのが子供の役割だった。揚げた後の油で石鹸をつくってまた中国人に売って歩いた。日本人同士、そういう知恵を出して助け合った。

中国共産党軍と国民党軍の行ったり来たりのやりとりは新京でも何度かあった。ドンパチにはあまりならず、相手の兵力を見て、危ないと思ったら一晩のうちに逃げてしまう。銃声もそんなにせず、ポン、ポン、ポンとした間に入れ替わった。共産党軍が勝った次の日の朝は、新京の目抜き通りのビルに毛沢東とスターリンの大きな写真が貼られ、逆に国民党軍が勝つと、蒋介石と米トルーマン大統領の写真が目抜き通りビルに飾られた。そういう入れ替えが1回か2回あったのを体験した。

父親と再開

長春に着いて2、3カ月後、父親と再会した。父は何人かの負傷兵を連れて面倒を見ながら南下していた。元気な日本兵はソ連軍に連れていかれたが、父は負傷者の面倒を見る部署だったから、シベリア抑留を免れた。長春の施設に負傷兵を収容し、父はそこで役目を終え、日本に帰国するまでの約半年間、一緒に過ごした。

1946年10月、引き揚げが決まり、長春から渤海に面するコロ島(葫芦島)まで、屋根のない無蓋車に乗って向かった。駅に停車するごとに中国人が物取りに来て「持ってるものを出せ」と脅されたが、皆で助け合いながらしのいだ。

コロ島では米軍の輸送船の船底に荷物と一緒に乗った。リバティ号という名前だった。船から九州の山々が見えた時、大人たちがデッキに出て泣いていた光景が目に焼き付いている。

佐世保に着くと、疫病にかかってないかを見るため2週間留め置かれた。どうやって連絡を取ったか分からないが、山口から祖父が迎えに来ていて、父の実家に向かった。

「満州から親子4人、1人も欠けることなく帰ってこられたのは珍しいと思う。どうして全員無事だったのか分からない。たまたまだったと思う」と松浦さん。

今、79年前を振り返って「辺見庸の『1937』という小説があって、日本人はずるずる(戦争に)行ってしまって、今なお、ずるずる生きているのではないかと警告を発している。今、いろんな情勢を考えると、まさしくその現象が起きつつあると思う」と語る。

➡NEWSつくばが取材活動を継続するためには皆様のご支援が必要です。NEWSつくばの賛助会員になって活動を支援してください。詳しくはこちら

コメントをメールに通知
次のコメントを通知:
guest
最近NEWSつくばのコメント欄が荒れていると指摘を受けます。NEWSつくばはプライバシーポリシーで基準を明示した上で、誹謗中傷によって個人の名誉を侵害したり、営業を妨害したり、差別を助長する投稿を削除して参りました。
今回、削除機能をより強化するため、誹謗中傷等を繰り返した投稿者に対しては、NEWSつくばにコメントを投稿できないようにします。さらにコメント欄が荒れるのを防ぐため、1つの記事に投稿できる回数を1人3回までに制限します。ご協力をお願いします。

NEWSつくばは誹謗中傷等を防ぐためコメント投稿を1記事当たり3回までに制限して参りましたが、2月1日から新たに「認定コメンテーター」制度を創設し、登録者を募集します。認定コメンテーターには氏名と顔写真を表示してコメントしていただき、投稿の回数制限は設けません。希望者は氏名、住所を記載し、顔写真を添付の上、info@newstsukuba.jp宛て登録をお願いします。

0 Comments
フィードバック
すべてのコメントを見る
スポンサー
一誠商事
tlc
sekisho




spot_img
spot_img

最近のコメント

最新記事

花いっぱいのまちづくり《けんがくひろば》10

【コラム・二木重光】4月上旬、研究学園駅前は色とりどりのチューリップが揺れ、駅行く人たちを迎えてくれます。正面にはどんと構える筑波山。家路に着く私にとってもホッとできる瞬間。ここは私のホームタウンです。2005年8月、日本自動車研究所の高速テストコース跡地に造られた研究学園駅は、広大な空地の中にポツンとたたずんでいました。 それから7年が経った2012年。駅周辺のビル建設が一段落し、街路樹の下は茅(かや)で覆われていました。この年、つくば駅周辺で駐車場を運営管理する「つくば都市交通センター(TUTC)」主催のまちづくりセミナーがきっかけとなり、研究学園を「花が咲く美しいまち」「誇らしいふるさとと思えるまち」「地域住民・新旧住民がつながる地域コミュニティ」にしようと、私たち「研究学園グリーンネックレス・グリーンの会」が誕生し、花いっぱい活動がスタートしました。 活動を始めて12年。この間、多くの子供たちが巣立っていきました。今でも、花いっぱい活動を通じて、小学生からおばあちゃんまでの世代が協力し合う姿が見られます。最近、大学生も参加するようになり、人の輪がさらに広がり、大きくつながります。 一緒に秋の花植えをやりましょう 素人集団の私たち。園芸ソムリエの先生から学ぶ機会を与えてもらい、ひとり立ちするまでTUTCの支援をいただきました。それ以降も、ホテルベストランドからの休憩場所提供やお茶の差し入れ、タネのタキイからの球根や花苗の提供、地元の企業や店舗からの散水用水の提供などをいただき、多くの皆さんに支えられて研究学園花いっぱい活動を続けています。 駅前のベンチでひと休みする人に癒やしを与えてくれたベゴニア。春に植えたベゴニアやマリーゴールドはもう終盤。いよいよ秋の衣替えが始まります。10月下旬から11月上旬にかけて、毎土曜日の午前中、秋から来春に花を咲かせるパンジーやビオラなどに植え替えます。 そんな花いっぱいのまちづくりにご協力いただける方を募集します。お花に興味がある方、地域コミュニティやボランティア活動に興味がある方、私たちと一緒に秋の花植えをやりましょう。(研究学園グリーンネックレス・グリーンの会 広報担当) <追い合わせ先>・メール:kenkyugakuen.green@gmail.com・インスタグラム:kenkyugakuengreen(研究学園グリーンネックレス)

パリパラリンピック 高橋利恵子選手 関彰商事で帰国報告会

健闘、ゴールボール女子キャプテン ゴールボール女子のキャプテンとしてパリパラリンピックに出場した高橋利恵子選手(26)が帰国し、10日、自身が籍を置く関彰商事(本社筑西市・つくば市、関正樹社長)つくばオフィス(つくば市二の宮)で帰国報告会が開かれた。 ゴールボールは、視覚に障害のある選手が3人1組で、鈴が入ったボールを転がすように投げ合い、得点を競う競技。高橋選手のポジションはセンターで、ディフェンスの要だ。 女子チームは予選リーグで、韓国、カナダ、フランスを撃破して3連勝し、予選を1位通過と好成績で勝ち進んだが、準々決勝でブラジルに0-2で敗れ、6位となった。東京パラリンピックでは銅メダルだったことから今回、金メダルが期待されたが、メダル獲得はならなかった。 帰国報告会で高橋選手は「金メダルを目指して頑張ったが、準々決勝で敗れ、6位という結果になった。受け入れがたい結果でとても悔しく、今もその気持ちが続いている。しかし大会は、東京と違い観客の声援が響きとても楽しかった。ゴールボールを多くの人に知ってもらえたのはうれしい。これからも頑張っていきたいので応援をお願いします」とあいさつした。 報告会には約100人の社員が集まった。関社長は「高橋選手の頑張っている姿は、社員に勇気や元気を与えてくれた。心から感謝したい。社員の中に世界で戦えるアスリートがいることは誇り。これからも次の大会や、次回のパラリンピックがあるロサンゼルスを目指してほしい」と語った。 高橋選手は広島県広島市生まれ。先天性の病気で幼い頃から視覚障害がある。小学校は普通学校に通ったが、中学校から地元の特別支援学校で学び、高校は筑波大附属視覚特別支援学校に進学。高校2年生の時にゴールボールと出合った。 大学は筑波大に進学。2017年日本代表強化選手に選ばれ、18年世界選手権で初の日本代表入りした。21年には東京パラリンピックに初出場し銅メダルを獲得。23年から日本代表のキャプテンを務める。関彰商事には22年4月に入社し、総合企画部に所属する。 高橋選手は「パリでの生活は、陸上100メートルに出場した、同じ関彰商事社員である東田選手に選手村の様子など詳しく聞いたのでとても助かった。情報を聞いて準備していたので快適に過ごすことができた。選手村の悪評があったので改善されたのではないか」とパリでの生活を振り返った。(榎田智司)

コメ不足・値上がりに危機感 子ども食堂や食料支援団体 つくば

23年産米の寄付を緊急募集 全国的なコメ不足と値上がりの中、フードバンクや子ども食堂など経済的に困窮する家庭を支援する団体が支援継続に不安を抱えている。 スーパーでは、コメの購入制限を呼び掛ける札が品薄の商品棚に並ぶなど、全国的なコメ不足が叫ばれた8月下旬、ひとり親世帯や子どもがいる非課税世帯などへの食糧支援活動「フードパントリー」や、子ども食堂向けのフードバンクを行う子育て支援団体「つくば子ども支援ネット」(山内ゆかり代表)が、コメの「緊急募集」を呼び掛けた。同団体事務局長の鬼木尚子さんは、コメ不足により支援活動が滞ることへの強い危機感がある、と話す。 SOS増えている つくば子ども支援ネットでは2020年の発足以来、年に数回、寄付された食料を無料配布するフードパントリーを開いてきた。直近では7月28日、支援を求める100世帯にコメ5キロと野菜2キロを含む食料と、子ども向けの文具・雑貨のセットを配布した。 例年なら新米の出てくるこの時期に、前年度米の寄付が農家から集まるが、今年は思うように集まらなかった。「7月の支援で在庫の玄米をほぼ出し切ってしまい、残りが十数キロにまで減ってしまった」と鬼木さんは苦境を話す。「コメ不足の今年は農家の手元にも在庫が不足しているよう」だという。 一方で、日々の暮らしに困る人からの、支援を求める「SOS」は、例年に比べて増えている。鬼木さんらはその都度、コメを5キロ渡すなど、最低限の食料支援を続けていると話す。 「支援を続ける中で在庫が減り続けている。先日『おコメが無くて困っている』とある子ども食堂から問い合わせがあった。本来であれば60キロくらい差し上げるはずが在庫不足で断らざるを得なかった」と言い、「団体のメーン活動であるフードバンクとしての機能が果たせなかった。このままではフードパントリーも続けられなくなるかもしれない」と、活動継続に危機感を抱く。 子ども食堂「備蓄が少なくなった」 つくば市内で子ども食堂「つくば『こどもの家』食堂」を運営するNPO法人マナーズ代表の宅間佳代子さんは「まだなんとか(米の在庫が)あるが、このままでは足りなくなる」と不安を話す。 宅間さんらは、各週水曜日に市内で子ども食堂を開き、一度に30キロ超のコメを使用する。「子どもたちがお腹をいっぱいにして帰って欲しいという」という思いから「一般的なお弁当に比べてご飯をたっぷり入れている」として1食に対して幼児で110グラム、それより年上の子どもには220グラムのコメを提供している。「支援して一番喜ばれるのがおコメ。子ども食堂では、少量だが持ち帰り用のコメも配っている」と言い、「いつも寄付をくれる方からの寄付がなくなるなどして備蓄が少なくなった」。利用者の家族からは、「おコメがない」「新米が出てきても値上がりするのでは」という不安の声が届いているという。 外国人から寄付も 「見た目だけではその人がどんな生活をしているかわからない。人目を気にして支援を求められない人、(生活保護などの)制度を受けるまでいかないからこそ苦しんでいる人もいる」と、つくば子ども支援ネットの鬼木さんは言う。 これまで同会に支援を求めてきた人のほぼ全員が、小学生や赤ちゃんの子を持つシングルマザーだった。「物価の高騰から光熱費を払えないという声もある。おコメだけでなく、他のものも本当にないのだと思うが、やはりおコメが手に入らないことに不安を感じる人は多い」と話す。 同会が「お米急募」の呼び掛けをSNSなどを通じて出した8月21日以降、主に個人から合計170キロほどの米が集まった。中には留学生など外国人からの寄付のあったと言い、「みんな困っているはずなのに、皆さんの温かい気持ちがすごくありがたい」と鬼木さんは話す。 「支援が必要な人を支えるのが私たちの仕事。おコメをお届けするというのを続けたい。ぜひ、少しでも多くの支援をお願いできれば」と呼び掛ける。(柴田大輔) ◆コメの寄付に関する「つくば子ども支援ネット」への問い合わせはこちら。支援に関する問い合わせはこちら。

つくば・土浦地区トップ2高の学級増を《竹林亭日乗》20

【コラム・片岡英明】前回(8月13日掲載)は、今年の土浦市立8中学から土浦一高への入学者が18人に激減したと書いた。つくば市の高校受験も、牛久栄進高の学級増や市内のサイエンス高の普通科併設などで改善はしたものの、受験者の増加に追い付かず、状況はさらに深刻といえる。 まず、竹園高校を例に解決策を考えたい。つくば市内中学生の県立高校への入学者を、上位4校について見ると、以下のようになる。      22年  23年  24年竹園高校 222   200   185牛久栄進 127   129   150土浦一高  92   88   70(募集学級 6    6    4)土浦二高  89   113   124 土浦一高の募集減のため、市外からの竹園高への入学者が増え、今年の市内入学者は3年前に比べ37人減った。今年から1学級増えた牛久栄進高へは前年より21人増えた。募集学級が減った土浦一高へは3年前より22人減り、土浦二高へは35人増えた。結果、つくば市からトップ2高(土浦一高と竹園高)への入学者は59人減った。 竹園高への市外入学増と土浦一高の定員削減の両挟みに遭い、進学の悩みが土浦一高・竹園高受験者だけでなく、中学生全体に広がっていると言える。この推移を過去5年について見ると以下のようになる。      20年 21年 22年 23年 24年竹園高校 185  188  222  200  185牛久栄進 129  127  127  129  150土浦一高 109  119  92  88  70(募集学級  8   7   ...