つくば市 松浦幹司さん
市民講座「楽々大学」を主催するNPO法人スマイル・ステーション代表のつくば市、松浦幹司さん(87)は、旧満州(中国東北部)で生まれ、9歳だった終戦翌年、家族4人で引き揚げてきた。「このような体験はこれからの人たちに二度としてほしくない」と語る。
1937(昭和12)年、旧満州国(中国東北部)の首都、新京(現在は長春)で生まれた。盧溝橋事件が起きた年で、この後、日本軍は上海に攻め込み、翌38年、南京大虐殺といわれる南京事件が起こる。
松浦さんの両親とも山口県出身。新聞記者だった父親が、新聞社が満州に支社をつくるというのをきっかけに家族で満州に渡った。父親は一旗揚げようと、その後新聞社を辞め、満州でさまざまな事業を手掛けた。
40歳を過ぎた父に召集令状
1944年、戦況が悪化し満州国を実質的に統治していた関東軍が戦力を南方に移していたため、後を埋めるのに、40歳を過ぎた父親にも召集令状がきた。出征先はハイラルというソ連国境に近い町。父親は陸軍病院の事務方として勤務した。
松浦さんが小学2年だった1945年7月、父親がいるハイラルで夏休みを過ごそうと、母と1歳の妹と3人で、父のいるハイラルに出掛けた。ハイラルに近いマンチョウリという町が鉄道の終着駅にソ連の赤い列車が入るからと、見に行くのが楽しみだった。
父親が住む軍の官舎で夏休みの2カ月間を過ごすつもりだったから、衣類はカーキ色の半ズボンと上着のシャツ、帽子ぐらい。冬服は持っておらず、荷物もあまりなかった。
ハイラルの日本人学校は夏休みが無かったため、松浦さんはハイラルで小学校に通ったが、教室での勉強はあまりなく、軍隊の練兵場などの草取りに駆り出された。
ソ連が攻めてきた
ソ連が侵攻した8月9日は、午前2時ごろに父親が軍事演習だと言って呼び出され、軍用のトランクを持って出掛けて行った。
明け方、街中の方でドーン、ドーンという爆発音がして黒い煙が上がり始めた。父親は軍事演習だと言って出掛けたので、残された家族で「演習にしては派手だね」と話したのを覚えている。
そのうちラジオで、ソ連が攻めてきたことが分かった。慌てたが、どうしていいか分からない。そのうちに軍から「ハイラルの駅に集まれ。荷物は1人1個」という指示がきて、着の身着のまま駅に向かった。
駅で何時間か待ち、列車が入ってきた。民間人は後回し、軍人とその家族が優先され、母と妹と3人で列車に乗った。軍人も乗り、父親が家族がいる車両に来てしばらく一緒に過ごした。
軍は、ハルピンに向かって南下する途中のコウアンレイ(興安嶺)という山脈に陣を張って防戦するつもりだったので、チチハルで降りた。父親はここで分かれると言い、形見として軍の双眼鏡を渡してくれた。
家族はハルピンまで南下し、列車を下りた。ハルピン駅の近くには西本願寺があって、軍人の家族200~300人が寺の大広間に集められた。
日本が負けた
8月15日は寺で迎えた。大事な放送があるというので皆庭に出て、玉音放送が始まった、何を言っているのが雑音ではっきり聞き取れなかったが、大人たちが泣き出して、ぼそぼそと、日本が負けたというようなことが伝わってきた。小学2年だったので当時、負けたということがどういうことなのか、よく分からなかった。
何日か後、西本願寺はソ連兵の管理下になり、家族を引率してきた日本兵は武装解除となった。あすは日本に帰すという噂はいっぱい立って、皆それを期待していたが、そのような動きにはならなかった。
ある日、汽車に乗れと言われ、これで日本に帰れるのかなと思っていたら、ハルピン郊外の日本人開拓団が住んでいた居留地に移された。ソ連侵攻で開拓団は逃げ、空(から)になった居留地の一つだった。
コーリャンのおにぎりが1日1個
そこで冬を越すことになったが、食料はコーリャンのおにぎりが1人1日1個配られるだけだった。ソ連軍は開拓団の学校に駐屯し、野外で食事をした。食べ物はジャガイモのふかしたものと黒パンなど粗末なものだったが、日本人の子供たちは食事が終わるのを周りで待って、パンくずとか食べ残した残飯をあさった記憶がある。
栄養失調と赤痢、腸チフスなどの疫病で、毎日のように子供や老人が亡くなった。200~300人いた軍人家族の3割は亡くなったと思う。仲間が亡くなると庭に穴を掘って埋め、そのたびに皆で手を合わせた記憶がある。
母親は結婚前、看護師をしていて、多少医療の知識があり、浣腸の道具などを持っていた。赤痢になると命はないとわかっており、当時、便に血が混じったら教えなさいと言われた。血が混じっても、石鹸を溶いた石鹸液を浣腸で入れて、洗い出すしかなかった。
母親は、居留地での苦労がたたったのか、帰国してからひどい喘息を患い、当時の話を聞くことも出来ず52歳で亡くなった。
長春に戻っていい
中国では当時、毛沢東率いる中国共産党軍と蒋介石率いる国民党軍のせめぎ合いがあった。毛沢東の後ろにはソ連、蒋介石の後ろには米国がついていて、どちらも勝ったり負けたりしていた。1945年末か46年始めの冬、居留地をたまたま蒋介石が治めたときだと思う。日本人は長春(満州国崩壊により新京から改称)まで南下していいということになり、ハルピンから貨物車で向かった。長春には自宅があったが、戻ってみると、留守をしている間に中国人に取られて、入ることもできなかった。
終戦後も長春には何十万人という日本人が残っていたので、知り合いの日本人の家に転がり込み、点々とした。日本人が住むマンションは、階段の登り口に柵をつくってソ連兵や中国人が入れないようにしてあった。夜、ソ連兵の悪い連中が襲ってくると、皆で一斗缶を叩いた。ソ連兵が来たぞという合図となり、一斗缶を叩く音が広がって、しばらくするとソ連の憲兵が来て悪い兵隊を追い散らしくれた。
長春では収入が無かったので、転がり込んだマンションの台所でそら豆を揚げて、中国人に売って歩くのが子供の役割だった。揚げた後の油で石鹸をつくってまた中国人に売って歩いた。日本人同士、そういう知恵を出して助け合った。
中国共産党軍と国民党軍の行ったり来たりのやりとりは新京でも何度かあった。ドンパチにはあまりならず、相手の兵力を見て、危ないと思ったら一晩のうちに逃げてしまう。銃声もそんなにせず、ポン、ポン、ポンとした間に入れ替わった。共産党軍が勝った次の日の朝は、新京の目抜き通りのビルに毛沢東とスターリンの大きな写真が貼られ、逆に国民党軍が勝つと、蒋介石と米トルーマン大統領の写真が目抜き通りビルに飾られた。そういう入れ替えが1回か2回あったのを体験した。
父親と再開
長春に着いて2、3カ月後、父親と再会した。父は何人かの負傷兵を連れて面倒を見ながら南下していた。元気な日本兵はソ連軍に連れていかれたが、父は負傷者の面倒を見る部署だったから、シベリア抑留を免れた。長春の施設に負傷兵を収容し、父はそこで役目を終え、日本に帰国するまでの約半年間、一緒に過ごした。
1946年10月、引き揚げが決まり、長春から渤海に面するコロ島(葫芦島)まで、屋根のない無蓋車に乗って向かった。駅に停車するごとに中国人が物取りに来て「持ってるものを出せ」と脅されたが、皆で助け合いながらしのいだ。
コロ島では米軍の輸送船の船底に荷物と一緒に乗った。リバティ号という名前だった。船から九州の山々が見えた時、大人たちがデッキに出て泣いていた光景が目に焼き付いている。
佐世保に着くと、疫病にかかってないかを見るため2週間留め置かれた。どうやって連絡を取ったか分からないが、山口から祖父が迎えに来ていて、父の実家に向かった。
「満州から親子4人、1人も欠けることなく帰ってこられたのは珍しいと思う。どうして全員無事だったのか分からない。たまたまだったと思う」と松浦さん。
今、79年前を振り返って「辺見庸の『1937』という小説があって、日本人はずるずる(戦争に)行ってしまって、今なお、ずるずる生きているのではないかと警告を発している。今、いろんな情勢を考えると、まさしくその現象が起きつつあると思う」と語る。