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ホームつくば溶鉱炉を流したように焼夷弾が落ちてくる、本当に恐ろしかった【語り継ぐ 戦後79年】3

溶鉱炉を流したように焼夷弾が落ちてくる、本当に恐ろしかった【語り継ぐ 戦後79年】3

つくば市 山田ゆきよさん

つくば市に住む元音楽教師、山田ゆきよさん(88)は三重県出身。小学4年生になった1945年4月から8月、米軍の爆撃を受け、怖い思いをした。「どんな理由があっても戦争はやってはいけない」という。

1936(昭和11)年、三重県鈴鹿市神戸(かんべ)町で生まれた。父親は旧制中学の教師をしていた。町にはシュークリームを売るお菓子屋、パン屋、肉屋と何でもあったが、1941年12月、太平洋戦争が始まると、店頭からものが消えた。駄菓子屋にあったのは、原料が日本でとれる酢こんぶだけ。あとは全部、店頭から無くなった。早々にコメの配給制が始まり、食べ物一切が配給となった。

煤を持ってきて学校を迷彩柄に

1944年末ごろから日本各地のまちがB29の爆撃を受けるようになった。45年4月、4年生の新学期が始まると、二つの仕事が待っていた。一つは、2人1組になって校庭のどこかに防空壕を掘る仕事。しかし防空壕はまったく役に立たなかった。もう一つ、家から煤(すす)を持ってきなさいと言われた。あの頃は木を燃やして料理をしていたのでどの家にも煤があった。それをバケツに入れて持ってきて水をかけて真っ黒にした。通っていた国民学校は三重県内でも有数のクリーム色のおしゃれな学校だった。敵機から見えないようにと、煤で学校の壁を迷彩柄になるよう、まだら模様に塗った。「よく考えてみたら黄色と黒の迷彩柄なのでその方が目立っておかしな話だと思った」と話す。

その頃から、米軍の爆撃で家を失い疎開してくる人の姿を見るようになった。縁故疎開と学童疎開があって、家を失った人はまず親戚を頼って縁故疎開に来た。工業地帯で海軍の燃料工場などがあった四日市で空襲があり、ゆきよさんの家にも縁故疎開が来た。夜遅く、家族8人が四日市からぞろぞろやってきて「うちはあんたんとこの親戚や」と言ってきた。普段付き合いは全くなかったが、家に入れ、しばらく一緒に暮らした。

知らない子供がある日突然、クラスにいることがあった。親戚を頼って縁故疎開してきた子で、都会の子だから、着ているものや髪型も違って、とてもおしゃれな感じがした。見たこともないようなきれいなリボンを頭に載せていた子もいた。

田舎に縁故がない子供たちは集団疎開をした。名古屋から来た子たちは、神戸町の寺に集団疎開し、寺にピアノがないので、音楽の時間だけいつも2列に並んでゆきよさんたちの学校に来た。学校では「あの子たちは家が無くなってしまって来ているんだよ」と聞いた。

頭の上に降り注いでくるようだった

6月から7月になると、三重県は頻繁に米爆撃機B29の爆撃を受けた。北から、桑名、四日市、津、松阪、伊勢の五つの町がB29のじゅうたん爆撃を受け、焼夷弾で焼かれた。

ゆきよさんがいた神戸町は、津と四日市の間にある。夜、焼夷弾が落ちてくると、津と四日市はそれぞれ20キロぐらい離れていたが、焼夷弾が頭の上に降り注いでくるようたった。「見上げると、最初は上の方でピカっと小さな赤い火が見える。それがだんだんと、釣り鐘のような形で溶鉱炉をそのまま流したように落ちてくる。四日市の時も津の時も、頭の上から落ちてきたような感じ。本当に恐ろしかった。それはすごい景色だった」と振り返る。

爆弾が18発落ちて男の子が死んだ

1945年6月、神戸町から少し離れた村の住職だった祖父が亡くなった。当時父は、生徒を連れて軍需工場で武器をつくる手伝いをしていたため神戸町を離れることができず、寺を空(から)にするわけにいかないと、母親が姉と下の子を連れて父親の実家の寺に移った。60軒ほどの小さい農村にある寺だった。

8月初め、夏休みなので、たまたま母のいる寺に行っていた時、爆弾が近くに18発ほど落ちた。隣の津に軍需工場があり弾がそれたと見られた。田園地帯なので、まさかこんなところに爆弾が落ちるとは夢にも思わなかった。終戦間際、米軍のB29は低いところを通った。音がすごくて、近づくとザーと音がして、ガラガラガラ、ドッスーンとひどい音がした。防空頭巾などかぶっている暇はなくて、その辺にあった座布団を頭からかぶって、下の弟と妹を、母と姉が手をひいて逃げた。

ちょうど3軒家が並んでいたところの3軒目に爆弾が落ちた。男の子たち3人が外で遊んでいて逃げたが、そのうち小学3年の1人が破片に当たって死んだ。B29が行ってしまってから、見て回ったら、あちこちの田んぼにすり鉢状に穴が空いていた。小さい川に細い石の一本橋があって、その上に爆弾が落ち、一本橋は衝撃で100メートルくらい跳ね上がって、民家の屋根を突き破り、床を突き破って、地面にめり込んでいた。

ヤルタ会談合意と原爆開発がビラに

終戦間際になると、空からよく米軍のビラがまかれた。1945年8月初めごろ、米軍が落としたビラを、寺の隣の男の子が拾い、こんなのが落ちてたよと持ってきてくれた。表に米兵とソ連兵が握手してる写真があって、裏面には「アメリカが強力な爆弾(原子爆弾)をつくった。早く降参しないと大変なことになるぞ」と書いてあった。「そういうビラは隣組の組長がすぐに回収して皆の目に触れないようにしていた。私と男の子しか見てないと思う」。

言論統制も敷かれていた。近くに独り住まいの元気のいいおばあさんがいて、近所の人と雑談している中、ふっと言ったことを、だれかが言い付けて警察に引っ張られた。「こんなにぎょうさん死ぬのに、それでもお米が足らんやがな」と言っただけだった。その頃は日本が戦争で負けているのを何となく知っていたが、おばあさんはそう言っただけで警察に連れて行かれ一晩留置された。警察では「誰が言ったのか」ということを厳しくとがめられたという。「誰も言わへんがな。わしがそう思ったから言ったんやがな」と通して、翌日帰ってきた。うっかりものも言えない、そんな時代だった。

8月15日、夏休みだったが、全員集まりなさいと言われ、学校に集められた。教室に入ると、先生は「日本は戦争に負けました」と言い、黒板に、支那(中国)、朝鮮と書いて、一番下に日本と書き「日本は一番下になりました」と言った。ちょっと悲しい気持ちになったが、正直ほっとしたのを覚えている。

戦後79年経ち、若い人たちに「戦争がどういうものか、できるだけ過去の戦争について知ってほしい」という。「戦争を始める時『わが同胞を助けるため』とよく言うが、こういう理由だからとか、戦争は理屈じゃない。今の日本を見ていると、だんだん私たちが若い頃体験したような空気になってきている」と話す。(鈴木宏子)

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