阿見町 奥島雅子さん
阿見町でミニデイサービスの事業所「レプラコーン若栗」を管理する奥島雅子さん(93)。1931(昭和6)年、東京都江東区生まれ。戦時中のことを鮮明に覚えている。米屋を営む家で、雅子さんは8人きょうだいの末っ子だった。3歳の時に父が亡くなり、11歳の時に母も亡くしたが、25歳上の兄が家業を継ぎ、親代わりとなって雅子さんを育てた。
亀戸にあった実家は米屋だったため米蔵もあり、ネズミに困るほどたくさんの米があったが、1940年に配給制が始まると蔵は空になり、配給もわずかだったことから雅子さんたちきょうだいも食べ物に困るようになった。「配給でもらえるのはほんの少し。これでどうやって家族全員食べるのかと。お芋を入れたりしてなんとか食べてはいたが、栄養失調だったと思う」と話す。
満鉄の兄に連れられ満州へ
長男の兄は本来徴兵される年齢ではなかったが、兵隊として中国南方へ配属された。2番目の兄は満州事変をきっかけに徴兵されて満州(中国東北部)に渡っていたが、その後除隊。次男で後を継ぐ必要がないからと南満州鉄道に就職していた。2人とも実家の米屋の配達で車の運転ができたため、前線に行くことなく無事だった。1944年の秋、雅子さんが14歳のころ、満州へ行っていた兄が日本に一時帰国して、食べるに食べられない状況を見かね、雅子さんと姉を満州に連れて行くことにした。急なことだったが雅子さんは急いで荷物をまとめ、リュックを背負って東京駅から下関まで1日かけて汽車に乗り、下関の港から船で釜山に渡った。
汽車の中で一人に一つ蒸しパンが渡されたが、雅子さんは食べずに取っておいた。釜山から列車で満州の撫順(ぶじゅん)駅に到着すると、満鉄の人が車で迎えに来てくれ、社宅まで送ってくれた。「社宅には紺と白のじゅうたんがありびっくりした。取っておいた蒸しパンを姉が蒸して温めなおしたら、バターを塗って、紅茶にお砂糖を入れて出してくれた。感動どころか、驚いてひっくり返った。なんでバターやお砂糖があるのかと」
撫順での暮らしは豊かだった。社宅はコンクリート造り3階建て。冬はマイナス10度以下になるが、ボイラーがあって室内は暖かく暮らしやすかった。「豚肉の切り身やみかんなどなんでもあった。栄養が取れるようになり、満州で体ができた」。学校にも通った。日本人専用車に乗って30分から40分ほどかけて通学した。教科書も日本で勉強していた内容と同じだったが、中国語の授業があることが違っていた。
雅子さんと姉は撫順で落ち着いた暮らしをしていたが、1945年3月、東京大空襲があり、亀戸にあった米屋の実家は燃えてしまった。姉たちは金庫にあったお金を懐に入れて逃げ、あたり一面が火の海になる中、川に入ってやりすごしたと聞いた。家族全員、無事だった。「焼け出されて(足立区にあった)隠居所に越したよ、という手紙をもらって(実家が燃えたことを)知った。着る物もなく困るだろうと浴衣や靴下、炒った大豆のカンカンを行李(こうり)2つ分入れて日本に送ったけれど、1つだけしか届かなかった」。
押し入れに隠れて寝た
1945年8月、ソ連が満州に攻め入ってきた。国民党軍と八路軍(中国共産党軍)の撃ち合いも始まり、爆撃音が聞こえていた。「どこまでが正規軍(国民党軍)でどこまでが八路軍かも分からない。ソ連軍を恐れて、夜は押し入れに隠れて寝るようになり、夜は近所中の男の人が警備をした。撃ち合いになると流れ弾に当たらないように壁にくっついた。とにかく自分を頼るしかない。家族と離れないようにしていた」と話す。学校は閉鎖になり、不安の中、家で兄の勉強ノートなどを読んで過ごす日々が続いた。
1年間残留し、1946年10月27日、東京に帰ることになり、撫順市から港がある葫芦島(ころとう)市まで屋根のない汽車で向かった。途中で盗賊に襲われるグループもあったが、雅子さんたちは無事だった。葫芦島からは日本語を話せるアメリカ兵が誘導し、「ごはん食べた?」と日本語で聞かれ、雅子さんは驚いた。
「みんな緊張していたが、ボートが陸を離れると大人も笑顔になった」と話す。船の中で亡くなる人がおり、水葬となった。乗り込んだ人の中でお経を上げる人がおり、船長が板を斜めにして海に遺体を流した。「お経を上げてくれる優しい人がいてよかったと思った」。
東京に戻り、亀戸の駅前に立つと、「180度見渡す限りなんにもない。引き揚げ船の中で、東京のここが焼けていると地図を見せて教えてもらっていたが、何もかも変わっていた」。しかし「自分はけがもない、手足もそろっている。こんなにありがたいことってない」と境遇に感謝する。
工夫が身に付いた
結婚し、都内で空調工事などを手掛ける会社「奥島工業」を夫と2人で切り盛りした。女性が現場に入ることが少なかった昭和30年代に、病弱だった夫を助け、雅子さん自ら2トントラックのハンドルを握り、搬送や経理の仕事をした。仕事で中国に何度も行き、満州時代に覚えた中国語を勉強し直した。60代で女性起業家の異業種交流会の代表を務めた。退職後、阿見町が気に入り移り住んだ。
「無い無いばかりだった時、兄も姉もなんでも自分で作っていた。無い物は自分で作るという習慣ができている。足りないものばかりだったから、今は誰かが来たらいつでも何かを食べさせる。経験したことが知恵として残っていて、不自由だから自分で直したり、ものづくりしたりが染みついている」と話す。(田中めぐみ)