月曜日, 3月 23, 2026
ホームつくば光と影の間を見つめる 沖縄出身の与那覇大智さん、つくばで個展

光と影の間を見つめる 沖縄出身の与那覇大智さん、つくばで個展

沖縄県出身で、つくば在住の画家・与那覇大智さん(56)の個展が21日からつくば市二の宮公園前のギャラリーネオ/センシュウで始まった。新作を含む25点が展示されている。本土復帰前の沖縄に生まれ、本土と沖縄の間で揺らいだ自身に向き合い作品を作り続けた。描き出すのは淡い階調で表す光と影。「両者は不可分。二分されるものではない」と語る。

表現できない美しさ

歴史ある建物から見えた、中庭の金網に差す木漏れ日。38歳を迎える2005年、作家としての今後に悩んで渡った米国で見た光景に心を奪われたー。

1993年に筑波大学大学院を修了した与那覇さんは、つくばを拠点に作家活動の幅を広げていた。しかし、単調化する日々に先の見えない不安に襲われる。環境を変えようと、文化庁の制度を利用し1年間、米国の古都フィラデルフィア市に渡った。同市のペンシルバニア大学で、研究対象としていた戦後の抽象表現主義について学ぶことになった。だが渡米早々に訪ねた美術館で見た作品に違和感を感じた。期待していたものを感じられず、研究対象に興味を失っていく。そんな時に目にしたのが、下宿先の中庭にある金網を照らす木漏れ日だった。「いつかこの光を描きたい」という思いが込み上げた。

しかし次の瞬間、与那覇さんは自分の心に釘を刺す。「自分が『金網』を描くと、発するメッセージが米軍基地と結びつく」。沖縄出身であることが、純粋な美しさを表現することを難しくした。その後、この日出合った光と金網を作品として発表するのに10年を要した。試行錯誤する中で与那覇さんは自身のルーツと向き合い、納得できる作品を作るための技術を磨いた。

本土復帰と「金網」の思い出

与那覇さんが沖縄県コザ市(現沖縄市)に生まれたのは、沖縄が米軍統治下にあった1967年7月3日、本土復帰の5年前だった。同市では1970年12月に、米軍支配に対する沖縄住民の不満が爆発する「コザ騒動」が起きている。

暴力と結びつくイメージの一方で、「金網」に寄せる子ども時代の思い出がある。当時、自宅近くに金網が囲む米軍のゴルフ場があった。与那覇さんは、金網の破れ目からゴルフ場に忍び込み、友人と野球をするのが日常だった。米軍関係者に見つかると追いかけられることもあったが、一緒に遊んでくれる人もいた。「大人になると『金網』が持つ意味は変わっていったが、個人の記憶の中では懐かしい郷愁とも繋がっている」と当時を思い出す。

本土復帰後は、急速に変わる故郷に子どもながらに翻弄された。1975年に開催された沖縄国際海洋博覧会(沖縄万博)に向けた開発が進んでいったのだ。「道路や建物が立派になり、下水道が引かれ、ボットン便所がなくなった」。暮らしの変化はそれだけではなかった。教育や日々の暮らしを通じて日本に「同化」していく復帰前後に生まれた世代と、復帰に複雑な思いを抱く親や祖父母世代との違いも生じていった。

新作の円形、楕円形の作品が並ぶ

「寄る辺なさ」を受け入れる

「展示でよく言われたのは『この青は沖縄の空、海ですか?』ということ。全く釈然としなかった」と与那覇さんは話す。モノクロに近い色合いの作品を展示すると、「君は沖縄なのに地味だね」と言われた。自身が背負う「沖縄」がどこまでもついてきた。

沖縄出身でありながら「日本に同化した人間」であることに複雑な思いを抱いてきた。「こっち(本土)にいると沖縄の人。沖縄に行くと、半分」だと感じてきた。自分に向き合う中で思い至ったのが、「『日本』と『沖縄』の二つはマーブル状で溶け合わずに自分の中に存在している。その感覚はより強くなり、アーティストとしての個性だと認識するようになった」ということだ。

米国で心を奪われた「金網」は、自分なりの方法で描き出し作品に昇華させた。陶芸や日本画にも用いられる技術を参考にし、アクリル画の下塗りに使う液体で格子状の金網をパネル全体に描き、網目を盛り上げた。

「盛り上げれば、何度その上に色を重ねても金網は残る。金網を気にせずにどんどん色を重ねられる。金網というものに対して、自分のパッションを込めなくていい。金網との距離を取れたことが自分には大きかった」と話す。それは、沖縄と日本の両方にアイデンティティを持つ与那覇さんなりの、沖縄との向き合い方でもあった。

「僕は沖縄と日本の間にいる。『寄る辺なさ』ともいえるこの状態をありのままで受け入れることで、問題を考え続けたい。沖縄の問題はなにも解決していないのだから」と話す。

6月23日、沖縄は戦後79年目の慰霊の日を迎えるが「沖縄では基地問題など直面する構造的な差別の傷がまるきり消えることがない。沖縄戦で受けたトラウマから今も不調を訴える人がいる。日本政府の冷酷な対応に、沖縄で起きていることの切実さは消えない」。

つくば市内の田んぼの風景がモチーフの作品も展示されている

自分を見つめる

同じく画家だった与那覇さんの父は、影の中にある色を探して表現していたという。「父の絵は僕がやろうとしていることと重なる。僕は光と影の間にあるものに引かれている。光を完全な希望とは捉えていない。光の中にある影を、影の中に見る光を描き出したい。光と影を丁寧に見つめることが自分を見つめる作業でもある。結果としてそれが世界とリンクすることがあるかもしれないと思っている」。

今回の展示は、つくばで開く20年ぶりの個展となる。これまでの大型作品とは異なる、直径20センチほどの楕円と円形の木製パネルに微細な点で多彩な光のグラデーションを描きこんだ作品が中心となる。初めてのチャレンジについて「四角ではできないことが、小さい画面で表現できると感じた」と話す。

与那覇さんは「沖縄からつくばに来て最初に感じたのは、亜熱帯の沖縄とは違う、中間色が多い色彩の豊かさ。つくばで四季の変化の大きさにも気がついた。沖縄ではわからなかった色にもたくさん出会った」と言うと、「とにかく色を見てほしい。自分なりにしっくりくる色がどこかにあると思う。細い筆で色を置くという、これまでやれなかったことをやってきた。その時々の光や気持ちによっても見え方が変わる。ゆったりと時間をかけて見てもらえたら」と呼び掛ける。(柴田大輔)

◆与那覇大智個展「手のひらと宇宙」は、6月21日㈮から 7月7日㈰、つくば市千現1-23-4 101、ギャラリーネオ/センシュウで開催。開館時間は正午から午後7時まで。月曜から木曜は休館。6月22日㈯午後5時からアーティストトークを開催。展示、トークイベント共に入場無料。問い合わせはメール(sen.jotarotomoda@gmail.com)で。

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阿見町、2027年の市制移行ならず《文京町便り》50

【コラム・原田博夫】2027年11月に市制移行を予定していた阿見町は、3月11日、市への移行を見送ると発表した。昨年10月の第22回国勢調査(簡易)の結果、総人口が4万9689人(速報値)となり、市制移行要件の5万人を下回ったためである。 阿見町は、2023年11月の常住人口(直近=この場合は20年=の国勢調査人口を基準に、毎月の住民基本台帳の増減により集計)が5万人を超えたことで、25年10月の第22回国勢調査で5万人達成は可能と見て、市制施行への準備を進めてきた。25年10月1日現在の常住人口も5万637人だった。 しかし、2026年2月27日、第22回国勢調査の結果(速報値)が通知され、要件を下回ったことが判明した。阿見町としては、市制移行を前提に、26年度当初予算に関連費約1590万円を計上していたが、これを減額修正することになった。国勢調査の結果によるとはいえ、関係者の落胆ぶりがうかがえる。 国勢調査の歴史と特徴 そもそも国勢調査(センサス)は、公的統計の中でも基幹統計と位置付けられ、統計法第61条で、回答拒否や虚偽報告に対しては罰金50万円以下の罰則が規定されている。 歴史的には、1902(明治35)年に制定された「国勢調査ニ関スル法律」にさかのぼるも、当初予定された調査(1905=明治38=年)は日露戦争で、さらに第1次世界大戦(1914~18年)などで実施が延期され、第1回調査は1920(大正9)年まで実施がずれ込んだ。 現状では、①住民を対象に調査が実際に行われ、住民基本台帳など他資料を集計した業務統計は含めない②ある地域に住む人全員を対象にする③調査票を用いて対象の住民が自ら回答する④調査時点(10月1日)を定め、規則的に(西暦が0年では大規模調査、5年では簡易調査)に実施される―などの特徴がある。 社会構造が変化⇒調査手法を刷新? 国勢調査の回収率は、国民性のためか、かつては非常に高かった。しかし、近年は低下していて、特に大都市部では顕著である。 期間内に調査票の回収が困難な場合は、近隣住民からの情報を基に自治体が住民票のデータで補う「聞き取り調査」を行うが、この調査の世帯割合は、2000年調査では全国4.4%(うち東京都5.9%)、05年4.4%、15年13.1%、20年16.3%に急増している。その背景には、大都市部を中心にした高層・大型マンションのオートロックシステムや不在世帯の増加、地方圏では空き家の増加など、社会構造の変化が関連している。 かつては有効だった全数調査も、DX化や社会関係の希薄化が顕著な現代では、その限界が顕在化している。新たな調査手法が求められているのかもしれない。(専修大学名誉教授)

「霞ケ浦導水事業」を歩く《日本一の湖のほとりにある街の話》36

【コラム・若田部哲】1月末、霞ケ浦導水事業の見学会に参加しました。霞ケ浦を利根川-那珂川と結び、広域で水を融通する構想として昭和50(1975)年代に始まったこの事業の背景には、水需要の増大や水質への懸念、渇水時への備えといった、当時の社会的課題がありました。その後、長い年月の中で、事業を取り巻く状況や環境への向き合い方は変化を重ねていきました。 今回見学したのは、そのうちの一部、小美玉市の玉里立坑と、そこから地中に伸びる石岡トンネル。午前10時の集合時間には、親子連れや年配の方など、多くの参加者が集まっていました。 ヘルメットを着用し、全員で集合写真を撮影したのち、いざ、直径18メートル、深さ約45メートルの玉里立坑の縁へ。地上からのぞき込むと、円筒状の巨大な空間が足もとに垂直に落ち込んでいます。 5メートルごとに数字が記されたその光景は、想像を超えるスケール! ワイヤーメッシュの籠状の工事用エレベーターに乗り込み、ドアが締まると、歯車がきしむ音を響かせながらゆっくりと地下へと降下し、自然と緊張感が高まります。 底部に降り立つと、両側に大きく口を開ける「石岡トンネル」は、よく見ると直径が異なっており、片方は4.5メートル、もう片方は3.5メートルとのこと。計画や技術の変遷が、断面の違いに現れているのを感じます。 湖と人、技術と暮らしをつなぐ トンネルは、巨大な円筒形の「シールドマシン」によって掘り進められると同時に、工場製作のコンクリートの壁である「セグメント」を組み立てていく工法だそうです。全長31.5キロという数字に、その積み重ねの大きさを感じ、めまいを覚えます。 圧倒的なスケールの余韻を抱いたまま地上に戻り、見学会が終わろうとしたその時、これまでの工事を記録した映像が上映されました。 掘削、セグメントの組み立て、測量、機械の点検─さまざまな工種の作業員の方々が、真剣な表情で現場に向き合うその姿。巨大な土木構造物も、突き詰めれば一人ひとりの手仕事の積み重ねという、その確かな事実に改めて心を打たれました。 霞ケ浦導水事業をどのように受け止めるかは、人それぞれでしょう。ただ少なくとも、現場には確かに、人の手と時間が積み上げてきた現実があります。湖と人、技術と暮らしをつなぐ、長い対話の一端に触れることにより、この事業を「遠大な構想」ではなく、「目の前の風景」として思い描けるようになった取材でした。(土浦市職員)

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