【コラム・オダギ秀】ボクは農業関係の撮影が多く、そのため農協さんとの付き合いが多かった。今はもうはるか昔の話だが、その頃は、農協がらみの研修旅行がよくあった。研修というのは名ばかりで、実質は慰安旅行、宴会がらみの遊興旅行だった。ボクも関係者ということで、よくそれに同行した。
どこに行った時だったか、宴会の席で、形ばかりの研修をした。よその農協さんが、こちらは茨城なので他県のことなど聞いてはいないのだが、あまり関係のない作物の作柄など適当に報告する。「研修」ということを名目にするための、形作りのものだった。
その時、茨城のとある小さな農協のひとりの男の人が、遠慮がちに色々質問をはじめ、ていねいにメモをとっていた。「ん? 関係ないのに、何しとる?」。ボクはかえって疑問が湧き、あとで彼に尋ねた。するとその人Aさんは、初対面のボクの言い掛かりのような問いかけに、ていねいに応えてくれた。
「農作物というのは、1年かけて育てるものです。どんな遠くのささいなことでも、長い年月の間には、自然はどんな影響を及ぼすかわからない。だから、他の地方の自分とは関係ないような作物のことでも、知っておいたほうがいいこともあるんですよ」と。
ボクは、その時から、そのAさんが大好きになり、何十年も過ぎた今も付き合い、心の支えにしている。仕事をするってことは、こんなことだと思わされた。今は鉾田市となっているが、当時は村と言っていたその村は、昭和が平成に替わったころ、日本一のメロン産地となった。そんなその村のメロンを支えて育てた人こそ、このAさんだったと思う。
いい加減な仕事はしない
茨城県は、メロン生産高日本一なのだが、1976(昭和51)年ごろはまだプリンスメロンが主流で、ネット模様のメロンは、庶民が口にすることは滅多にないものだった。そこに、売って安心、買って安心という「安(アン)心です(デス)」をネーミングにしたネット模様のアンデスメロンが生まれ、市場を席巻していった。
メロン生産農家は午後遅く、収穫したメロンを選果場に持ち込む。Aさんはそれを一つずつ手と眼で選果した。今のようにコンピューターやレーザーのない時代だったから、大変な情熱と労力が要った。選果するとメロンをトラックに積み、午前3時ごろ、東京の市場に間に合うように運んだという。
その厳しい選果をしてきたので、その村のメロンは評価が高まり、その村のメロンとしてブランドになった。Aさんは、寝ているのだろうか、と農家の人から聞いたことがある。「ありゃ寝てないよ」と農家の人は言ったが、それが本当と思えた。その努力があったから、その村のメロンは信頼され、高い評価を受けるようになった。
実直なAさんは地位を望むこともなく、農協の部長止まりだったらしい。だが、あきらかに、この地のメロン産地はAさんがいなければ、名産地とはなれなかった。いい加減な仕事はしない。ボクはAさんから、大切なことを学んだ。(写真家、日本写真家協会会員、土浦写真家協会会長)