金曜日, 1月 16, 2026
ホームつくば自立生活通し街が変わる 柴田大輔記者、障害者たちの挑戦つづる つくば

自立生活通し街が変わる 柴田大輔記者、障害者たちの挑戦つづる つくば

つくば市の障害者自立生活センター「ほにゃら」(同市天久保、川島映利奈代表)の歩みをつづった「まちで生きる まちが変わるーつくば自立生活センターほにゃらの挑戦」(夕書房発行、B5判、271ページ)が9日出版された。著者は、土浦市出身の写真家でNEWSつくばライターでもある柴田大輔記者(43)。

障害を持つ人々が施設や家庭を離れ、自分たちの住む地域で、自分の意志に基づいて介助サービスを活用しながら生活を営む「自立生活」がテーマで、四半世紀にわたり、共に支え合うインクルーシブ(包摂的)な地域社会づくりに挑戦してきた歴史が記されている。

柴田記者は現在、写真家およびジャーナリストとして活動しながら、介助者として、ほにゃらでも活動している。

2月4日つくば市天久保の「本と喫茶サッフォー」で開かれた出版記念イベントの様子。(左から)ほにゃら事務局長の斉藤新吾さん、著者の柴田さん、サッフォー店主の山田亜紀子さん(生井祐介さん提供)

障害者の自立生活運動は1960年代のアメリカで始まったとされる社会運動だ。重度な障害を持つ当事者たちが自分たちの手でセンターを運営し、障害を持つ人たちの「自立」をサポートすることが中核的な理念だ。当時日本で盛んだった日本脳性まひ者協会「青い芝の会」の運動の流れを部分的に引き継ぎ、80年代から日本でも広がりを見せた。脳性まひやALS(筋萎縮性側索硬化症)など重度身体障害を持つ人々を中心に、各地で自立生活センターが設立されていき、現在は全国に100程度の自立生活センターがある。

つくば市のほにゃらは2001年に設立された。現在代表を務める川島映利奈さんや、ほにゃら創設者の一人で、現在も事務局長として活動をけん引する斎藤新吾さんも24時間の介助を必要とする。

著者の柴田記者は「つくばの人たちに読んでほしい。『筑波研究学園都市』という計画された都市の歴史に、障害のある人たちがまちをつくってきたという歴史があることを知ってもらいたい」と話す。

コロナ禍、仕事が激減し介助者に

柴田記者は20代のころに「写真と旅に夢中に」なり、写真ジャーナリストとして中南米の人びとの暮らしを撮影してきた。「半年間バイトの掛け持ちをして資金を貯めては、中南米、特にコロンビアに渡航するという暮らしをずっと続けてきた」という。

そんな柴田記者が障害者の自立生活運動に出会ったのは2016年のこと。2年間ほどコロンビアで過ごし帰国した柴田記者は、都内の月3万円のシェアハウスに入居し、すさんだ生活をしていた。そこで東京都大田区で知的障害者の生活を支援するNPO風雷社中の代表、中村和利さんに出会い、障害者の外出や日常生活を支援するガイドヘルプの活動を行うようになった。

18年、柴田記者は結婚を機に茨城に戻り、ほにゃらと出会った。同年10月に筑波大学で催されたほにゃらの「運動会」に写真撮影のボランティアに行くことになった。そこで見たのが障害のあるなしに関わらず、皆が楽しむことができる運動会の姿だった。しかしこの時は「障害者の自立生活運動について深く理解していたわけではなかった」と振り返る。

20年、新型コロナ禍の影響で写真やライターの仕事が激減した柴田記者は、ほにゃらの介助者として活動を始める。「自立生活や介助、その運動の奥深さにそこで初めて出会った」という。

21年秋、柴田記者は、ほにゃらの障害者と関わる地域の人々を撮影した写真展を、つくば市民ギャラリーで開いた。写真展をきっかけに、つくば市松代の出版社「夕書房」の高松夕佳さんと出会い出版が決まった。

茨城の障害者運動の歴史が凝縮

刊行に向けて3年前の2021年から取材、執筆を始めた。当初は「専門的なところまで、深く分かっていたわけではなかった」。コロナ禍で取材がうまく進まない時期もあったというが「ほにゃらの皆さんにいろいろな人をつなげていただき、話を聞いていく中で、ほにゃらができていくストーリーが少しずつ分かっていった」。

特に1980年代以降の茨城における障害者運動の歴史が凝縮されている。63年に千代田村(現・かすみがうら市)上志筑につくられた障害者の共同生活コロニー「マハラバ村」は、重度の障害者たちが神奈川県で交通バリアフリーを求めバスの前で座り込みをした「川崎バスジャック闘争」(1977年)などで知られる脳性まひ者集団「青い芝」の会の、糾弾・告発型の運動の源流となった。

柴田記者は「マハラバ村から下りることになった重度障害者の一部は、つくば市周辺で盛んに活動を続けた。そのときに湧き上がった熱量みたいなものが残り火のように引き継がれ、今につながっている」と説明する。著書には重度の障害者の想いや残り火がどのように引き継がれ、ほにゃらにつながるのかが記されている。

さらに柴田記者は、今後も茨城、特に地元である土浦やつくばを拠点に介助や障害者の自立生活について考えていきたいと語り「介助という磁場があり、障害者が地域で暮らしていくことは『消えない運動』であり、『やめられない運動』でもある。自立生活を知りたければ、介助に入らなければならないと言われた。本当にその通りだと思う。人が肌と肌で触れ合う、この体温を知ってしまった以上は、今後も地元茨城の自立生活運動を一つの軸にしながら活動していきたい」と話す。(山口和紀)

◆本の出版記念写真展『ほにゃらvol.3 まちで生きる、まちが変わる』が21日から3月10日まで、東京都練馬区のカフェ&ギャラリーで開かれる。入場無料。詳しくはこちら

➡NEWSつくばが取材活動を継続するためには皆様のご支援が必要です。NEWSつくばの賛助会員になって活動を支援してください。詳しくはこちら

1コメント

1 Comment
フィードバック
すべてのコメントを見る
スポンサー
一誠商事
tlc
sekisho




spot_img

最近のコメント

最新記事

道路工事中に給水管を破損 1軒が断水 つくば市

つくば市は16日、市が発注した同市小野崎の道路改良舗装工事で、同日午前10時50分ごろ、市内の工事受注業者が既存の側溝(U字溝)を撤去する作業をしていたところ、埋設されていた上水道の給水管を誤って破損させ、1軒に断水被害が発生したと発表した。断水は同日夕方5時ごろに復旧した。 市道路管理課によると、工事業者が老朽化した古いタイプのU字溝を新しいタイプのU字溝に入れ替える作業をするため道路を掘削していたところ、道路下に埋設されていた近くの店舗1軒の給水管の一部を破損させた。工事業者はあらかじめ図面で、道路下に給水管が埋まっていることを把握していたという。 工事業者は断水被害を受けた店舗に謝罪し状況を説明。被害店舗はこの日、店を休みにした。 再発防止策として市は、受注業者に是正措置を求めたほか、現在、市の工事を受注している全工事業者に注意喚起を徹底し、再発防止に努めるとしている。

ロウバイが満開 筑波山梅林 早春の訪れ告げる

つくば市沼田、筑波山中腹の梅林でロウバイが満開となり見頃を迎えている。1月中旬は暦の上では小寒から大寒に向かう冬のさなかだが、標高約250メートルにある筑波山梅林では、ろう細工のような、ロウバイの光沢のある黄色い花が甘い香りとともに早春の訪れを告げている。 ロウバイは梅林の筑波山おもてなし館付近の斜面に数十本が植えられている。つくば市観光コンベンション協会によると、正月過ぎから見頃となっている。開花状況は平年並み、見頃は2月初旬ごろまでという。 3連休初日の10日は筑波山神社の参拝客や登山客などで梅林の駐車場は満杯。ロウバイが咲く梅林では、家族連れや写真愛好家などが、青空と黄色のコントラストをカメラやスマートフォンなどで写真に納める姿が見られた。 石岡市から来た藤井浩一さん(63)は「毎年ロウバイを見るために梅林に来ている。これだけたくさんのロウバイが咲くところは貴重だ。今日は珍しいヤマホウジロの写真も撮れたのでうれしい。ロウバイの写真ももっと撮っていきたい」と話していた。 ロウバイは中国原産で、梅に似ているが、梅がバラ科なのに対し、ロウバイはロウバイ科に属する。 筑波山梅林は約4.5ヘクタールの広さがあり、中腹の斜面に約1000本の白梅や紅梅が植えられている。10日時点で、早咲きの紅梅はまだ開花していない。第53回目になる今年の筑波山梅まつりは2月7日から3月15日まで開催される。(榎田智司)

つくば文化会館アルス《ご近所スケッチ》21

【コラム・川浪せつ子】つくば駅近くの図書館と美術館から成る「つくば文化会館アルス」(つくば市吾妻)は、ステキな建物です。この分野では老舗の石本設計事務所(1927年創立)が設計しました。つくば市周辺には、同社のような日本を代表する事務所がいろいろな建物を設計しています。 近くにあるつくばセンタービルは、建築界のノーベル賞と言われる「プリツカー賞」を受賞した磯崎新さんが設計した作品。つくば市には後世に残したい素晴らしい建造物が多いですが、そのような歴史に残るような建物を「描く」のって、至難の業なのです。 私は若いころから、建築の完成予想図を作成する仕事をしてきましたが、今回はそれがアダになりました。上の絵は何度も描き直して、なんと4枚目です。悩みに悩んで、お正月明けにスケッチしました。どうも、面白くない絵になってしまうのですよね…。 ステキな建物とそこに憩う市民 創作活動は何でもそうだと思いますが、自分の表現したいもの、表現したいこと、表現したいテーマは何か―それが重要だと思うのです。創作活動とは、誰かに認めてもらいたいということでなく、自分の「思い」が込められたものを創ることではないでしょうか。そして、たどり着いたテーマは「ステキな建物とそこに憩う市民」です。 緑の季節には葉っぱが多くて建物が見えません。冬は落葉して見えますが、もうひとつインパクトが出ません。そんなジレンマの中、そこに憩う方々をたくさん配置したところ、どうにか納得するものに。「まだまだ」の自分ですが、悩みながら、さまよいながら、つくば市周辺の良さを表現できたらと思っています。(イラストレーター)

まさかの「第5回富士山景クラシック展」《続・平熱日記》188

【コラム・斉藤裕之】昨年秋、「第5回富士山景クラシック」展をやるぞ!と、突然メールが入った。この画展、上野谷中の居酒屋でフランスから帰国したばかりの私が、同級生を前に「みんなで富士山を描こう!」なんてノリで言っちゃったのがきっかけ。まさかギャラリーで展示までして、それも足掛け30年で5回目にもなろうとは…。 なんで富士山なんて言っちゃったのか。例えば、最近では愛犬パクと山口から帰って来る時の新東名。突然、目の前にでっかい富士山が現れる。あまりの雄大さに呆気にとられてしまう。憧れの女性が突然目の前に現れたのと同じで、ただアタフタとその場を繕うしかない。 葛飾北斎の富嶽三十六景。誰もが知る富士山を描いた名作だが、あれは富士山を憧れの女性に例えるなら、遠巻きにしていろんな所からのぞき見している。つまりおっかけ。大体、富士山はどこから見てもあの形。まさに二つとない不二の登録商標で、誰が見ても富士山だとわかる。 北斎は、その富士山を大きな波の向こうに、桶(おけ)の輪の向こうに、いろんなところから遠巻きに描いた。その証拠に、正面から堂々と描いた富士は赤面している。 ここ茨城からも富士山は見える。朝、車に乗って仕事に行く途中、スカイツリーの向こうにきれいな富士山。しかし、それははるか遠く、手の届かない映像のような富士山。でも案外、私にとって富士山は昔から、そしてこれからも、そんな憧れの人でよいのかもしれない。 オジイサンの鼻息は荒い しかし、前回展で一応の区切りを付けたはずの富士山景クラシック展。今回のDMはがきに「第二章」とあったのが気になる。もしかして6度目も…。そういえば、何回目かの時に「次はフィレンツェでドゥモを描こう!」とか「台湾でグループ展だ!」と盛り上がっていたっけ。 フジサンは今も姿を変えずそこにあるが、若者たちはオジサンになり、今やオジイサンと言われても仕方ない年齢になってしまった。しかし、本人たちの鼻息は荒い。以前、ある彫刻家の先輩方がグループ展に「R70」という粋なタイトルを付けていらしたことを思い出した。 北斎は三十六景を描くために、車もない時代に一体どれほどの距離を歩きまわったのか(72~74歳、千葉、東京、神奈川、山梨、静岡、愛知)。一昨年、長野県小布施に、北斎の絵を訪ねた。80歳を過ぎて、山々を超えて信州まで絵を描きに行く、その情熱と馬力に私自身にもムチを入れざるを得ない気分だった。オチをつける気はなかったが、午の年が始まる。 30年前の夏、富士山を描こうと沼津に連れて行った長女。高温多湿の海辺の街からは富士山を見ることはかなわず、漁港で食べた超ビッグなエビフライと同級生の実家である幼稚園のプールで沐浴(もくよく)をしたことはよく覚えている。多分、展示が始まるころには、その長女が3人目を産んでいるはずである。もしかして、丙午の女の子? 今の時代、そのぐらいでちょうどいい。(画家) 第5回富士山景クラシック展:1月19日(月)~31日(土)、GALERIE SOL(東京都中央区新富1-3-11)