火曜日, 10月 6, 2026
ホーム土浦手がかりは古い新聞記事とわずかな記憶 70年前の父の足跡、ベトナムで追った(上)

手がかりは古い新聞記事とわずかな記憶 70年前の父の足跡、ベトナムで追った(上)

第2次大戦終結後、任地のベトナムで独立戦争に参加した亡父。土浦市の添野江実子さん(64)はその足跡を8年間探し続け、ようやく見つけた。過去の新聞記事と、記憶の断片をつなぎ、仲間に支えられ、たぐり寄せた奇跡とは―。

「本年2月に父の所縁(ゆかり)の地に行って参りました。足跡調査を始めて辿(たど)り着くまでに、8年を要しました」。

8月下旬、スマートフォンでフェイスブック(FB)を眺めていた私は、添野さんの投稿にくぎ付けになった。

軍服姿の綱河忠三郎さん(添野さん提供)

添野さんはベトナムを訪れて、残留兵だった亡父・綱河忠三郎さんの足取りを追う活動を続けている。その様子を描いた40分のドキュメンタリー映画「私の父もそこにいた」の上映会の紹介記事を、私が2019年7月に書いたのがきっかけで知り合った。

ベトナム残留兵は、日本の敗戦後も現地にとどまり、宗主国・フランスに対するベトミン(ベトナム独立同盟)による独立戦争に関わった日本軍兵士らだ。その1人、忠三郎さんは戦後9年たった1954年、祖国の土を踏んだ。復員後は土浦市の引き揚げ者住宅で暮らし、豆腐店の従業員や旋盤工をしながら添野さんを育て、ベトナムでの9年間を娘にほとんど語らぬまま、2002年に世を去った。

添野さんは15年以降、数少ない残留兵や、各地に住むその遺族を訪ねた。ベトナムも訪れ、現地で結婚した残留兵の親族にも会っている。だが、忠三郎さん本人の足取りはつかめない。「生前、詳しく聞いておけば良かったのに…」。4年前、添野さんは後悔を口にしていた。

戦後70年を過ぎ、戦争の語り部は次々に物故している。それはベトナムでも同じだ。そんな状況で無名兵士の足跡をたどるのは難しい。なのに、どうやってたどり着けたのか。9月中旬に再度、お会いして、添野さんに振り返ってもらった。

話は3年前、世界がコロナ禍に直面していた20年秋にさかのぼる。人の往来が制限され、ベトナムへの渡航はおろか、国内での映画の上映会もままならない。少しでも手がかりを得ようと、図書館で古い新聞記事を調べていた。

「あった!」。ある日、静まりかえった図書館で、興奮の余り添野さんは思わず驚きの声を上げた。忠三郎さんの帰国後の様子を伝えた1954年12月5日の記事。兄がいる守谷町(当時)に戻った忠三郎さんが、取材に「バロンという村にいた」と証言していた。

若い頃、忠三郎さんが戦後もベトナムにいた話は、うっすら聞いた。でも、その頃は2人の子を育てるのに精一杯。慌ただしい日々の暮らしに追われるうち、やがて記憶は脳裏の奥深くにしまわれた。

「金(きん)で買ってもらった自転車で集合地点へ向かった」「夜は虎に襲われるから木の上で寝ていた」。脳裏に残るエピソードはこれぐらい。「バロン」という具体的な地名を得て、進展への期待に胸が弾んだ。

だが、すぐに煮詰まる。地図上に肝心の「バロン村」が見あたらない。

「父を助けてくれた村を探しています」。SNSで発信すると、ベトナムの日系企業に勤める男性が教えてくれた。

「『バロン』ではなく、『バンロン』ではないか」。男性がつてをたどって役所に確認すると、確かに、古い地図に「Van Long」(バンロン)という村が存在していた。統合して現在は別の名前に変わっていた。コロナ禍の収束を2年余り待ち続け、今年2月下旬、再びベトナムへ旅だった。(鹿野幹男)

続く

➡NEWSつくばが取材活動を継続するためには皆様のご支援が必要です。NEWSつくばの賛助会員になって活動を支援してください。詳しくはこちら

スポンサー
一誠商事
tlc
sekisho





spot_img

最近のコメント

最新記事

国立歴史民俗博物館を訪ねて《ふるほんや見聞記》21

【コラム・岡田富朗】国立歴史民俗博物館(略称:歴博)は千葉県佐倉市の佐倉城址の一角に1983(昭和58)年に開館しました。開館以来、日本の歴史と文化について総合的に研究・展示してきた博物館です。約13万平方メートルという広大な敷地に壮大な規模の施設を構え、先史・古代から現代までの歴史と、日本列島の民俗文化をテーマに、実物資料をはじめ、精密な複製や復元模型などを用いて、日本の歴史と文化を分かりやすく展示しています。 「アイヌ民族と博覧会  ―150年の経験-」 歴博では10月6日から11月29日まで、企画展示「アイヌ民族と博覧会 ―150年の経験ー」が開催されます。博覧会は知識や文化を広める一方で、人や文化を比較し、序列化する場という側面も持っていた歴史があります。本展では、1872年の湯島聖堂博覧会から2025年の大阪・関西万博まで、約150年にわたるアイヌ民族と博覧会との関わりを、工芸品、写真、絵はがき、書簡、衣装、映像など約200点の資料を通して読み解いています。 松浦武四郎著作「近世蝦夷人物誌」 第1章の展示品の中には、アイヌ民族の人々の協力を得て蝦夷地を調査し、「蝦夷通」として知られた松浦武四郎の著作「近世蝦夷人物誌 二篇巻之中」(1858年、松浦武四郎記念館蔵/展示期間:10月6日~11月1日)があります。北海道の名付け親としても知られる松浦武四郎。その著作をはじめ、重要文化財19点が展示されます。 「近世蝦夷人物誌」は、1857(安政4)年から翌年にかけて松浦武四郎が執筆したものです。武四郎は1857(安政4)年にアイヌの彫工モニヲマを訪ねた際、彫り物を一つ依頼し、その技術の高さに驚いたことも記しています。そのほか、小箱や盆など、近世末に流通していた木彫りなどのアイヌ工芸品も見ることができます。 また第2章の展示品の中には、明治記念拓殖博覧会にて銅賞牌を受賞し、彫刻の技術が巧みで名工と呼ばれた貝澤ウトレントク(1862~1914)が製作したと分かっている3枚の盆のうちの1枚も展示品に含まれています。 最後に本展の見どころについて、展示代表に伺いました。 「見どころは、出品や出場を通じて博覧会に関わった、一人ひとりのアイヌの『声』に注目している点です。博覧会への参加は、当事者にとってどのような経験だったのでしょうか。その多様な受け止め方を、できるだけ丁寧に紹介することを大切にしました。一人ひとりの『声』に耳を傾けながら、アイヌ民族と博覧会との関わりを考えていただければと思います」 「また、展示のテーマをさらに掘り下げる歴博映像フォーラム20(10月24日〈土〉、事前申込制)と第472回歴博講演会(11月14日〈土〉)を開催します。詳しくは歴博のウェブサイトなどをご覧いただき、本展とあわせて、ぜひご参加ください」(ブックセンター・キャンパス店主)

霞ケ浦、水城に敗れ優勝ならず 秋季関東高校県大会

第79回秋季関東地区高校野球茨城県大会は4日、ひたちなか市民球場で決勝戦が行われ、霞ケ浦は水城に2―3で敗れ、11年ぶり5度目の優勝はならなかった。高橋祐二監督に代わってこの日も指揮をとった霞ケ浦の大高直人部長は「(水城のエースの)大川君の落差のある変化球に対応出来なかった」と敗因を語った。 水 城 010100100 3霞ケ浦 020000000 2 霞ケ浦は2回に失策で1点を先制されるが、その裏2死満塁のチャンスに鹿又煌翔が、先発の大川のストレートをレフトへタイムリーツーベースを放ち、2ー1と逆転する。「みんなが繋いでくれたので何としても打ちたかった。ヒットになって良かった」と鹿又。しかし水城は4回、内野ゴロの間に同点に追いつき、試合を振り出しに戻す。 霞ケ浦打線は4回以降、毎回走者を出すが、チャンスであと1本が出ずホームが遠のく。霞ケ浦先発投手の内山雷斗は、調子は悪いながらも徐々にスライダーの感覚が良くなり、6回まで粘り強く投げ、水城打線を抑えた。 しかし7回、甘く入ったスライダーを水城打線に仕留められ、水城の村田琳央、野口心大から連打を浴びる。1死一、三塁とされ、続く大森寧起にも低めのスライダーを上手くライト前に運ばれ、勝ち越しを許した。 7回途中、霞ケ浦の2番手投手として後藤稜空がマウンドに上がるが、水城の幡耕誠に四球を与え1死満塁のピンチを招く。しかし続く富田陽大をショートへの併殺打に仕留め、味方の反撃を待った。 その後、霞ケ浦打線は8回、9回と3者凡退に抑えられ、水城のエース大川を攻略することが出来ず、夏、秋と県大会連覇は果たせなかった。 先発した内山は「準々決勝、準決勝と三浦が頑張ってくれた。決勝は自分が任されたが、いい結果が出ず悔しい。関東大会では弱気にならずに攻めていき、霞ケ浦の野球をして、1勝、1勝積み重ねていきたい」と話した。主将の湯浅隼人は「投手を中心とした守りから攻撃に繋げていくチームだったが、今日は守りからミスを重ねて失点をしてしまい、打線も点を返すことが出来なかった。自分たちが今までやってきた野球が出来ず、負けてしまったのは悔しい。守りから勝つ霞ケ浦の野球をもう一度見直し、関東大会では自分たちが目標としている春の選抜甲子園出場を果たすために頑張る」と意気込みを語った。 霞ケ浦の大高部長は「守備のエラーが出たのは予想外だった。内山も不安なところはあったが、苦しい中でも何とか打ち取った。しかし守備のエラーで浮き足立ってしまった。鹿又のヒットで逆転し、気持ちが切り替わっていけたら良かったが、出来なかった」と話した。 水城は、今夏準優勝校の常総学院、優勝校の霞ケ浦を倒し、秋季県大会で16年ぶり2度目の頂点に立った。水城は茨城の王者として強豪校ぞろいの関東大会に挑む。霞ケ浦も2日の準決勝ですでに関東大会出場を決めている。(高橋浩一)

バイシクル・ダイアリーズ ⑹《ことばのおはなし》97

【コラム・山口絹記】ツール・ド・つくば2026、本番当日。朝5時前に起床。普通に寝不足である。炭水化物をとるため、山盛りのパスタとパンを無理やり食べ、前日に車に積んでおいた自転車とともに会場へ向かった。 会場に着くと、すでに参加者たちが周辺を走り込んでいる。使い込まれたロードバイクに本格的なサイクルウェア。チームで参加している人も多い。 私はこれまでスポーツの大会というものにほとんど参加したことがない。最後に出たのは、小学生のころの水泳の区民大会くらいだ。どうにも自分だけ場違いな気がする。 スタート地点には見たこともない数のロードバイクが並んでいた。その中に自分がいることが不思議で、一体どうしてこうなったのだろうと思う。 自分はいつもこうだ。自分で決めたことなのに、どうして自分が今ここでこうしているのかと、ふと我に返ってしまう。 55分21秒 201 スタート。 自転車屋の店長さんから「周りのペースに乗せられないように」と言われていたので、自分の脚にかかる負荷だけを意識する。 とはいえ、ずいぶん追い抜かれるな。 30代の集団では早々に最後尾。やがて後ろからスタートした40代の人たちにもすさまじい勢いで追い抜かれていく。 どうなってんだよ。おかしいだろ。 横をぶち抜いていく立派なふくらはぎを見て、まぁさもありなんと諦めた。 それでも練習で一度座り込んだ不動峠を今回は止まらず通過。スカイラインに入ると、今度は店長さんの「下りは休憩じゃないですからね」という言葉を思い出す。 ギアを上げ、一気に踏む。 下りで加速し、その勢いのまま次の登りへ。これは意外とうまくいった。今まで抜かれ続けていたのに、今度はこちらが何人も追い抜いていく。最高速度54.7キロ/時。人を追い抜くというのは、結構気持ちがいい。 風返し峠を越え、残り1キロで経過時間は50分。 コレは1時間を切れる。 急に気合が入り、初めてダンシングをしてみたら脚がつりそうになったので、すぐやめた。右膝も痛い。 最後まで見えないゴールへ向かって、残った力でペダルを踏む。 55分21秒201。 目標だった1時間を、4分以上縮めていた。 もっと遠くへ行ってみたい 帰りは参加者数十人で、登ってきた道をゆっくり下る。段差があれば前の人が手でサインを出す。それを見て、私も後ろの人にサインを送る。 なんだか、これがすごく楽しい。 ツール・ド・つくばを完走することは、私にとって大切な約束でもあった。その話は、いつかきちんと書こうと思う。 今はただ、もっと遠くへ行ってみたい。 そんなことを考えていたところ、父から「6月末に佐賀へ行かないか」と連絡があった。 佐賀は、この自転車にも深い関わりのある場所である。 そうか。このバイクを、佐賀に持っていけばいいんだな。 次の目標が決まった。(言語研究者)

タッチパネルの回転ずし《看取り医者は見た!》56

【コラム・平野国美】先日、遅い昼食をとろうと、大手チェーンの回転ずし店に入りました。ご存じのように、最近の回転ずしは、皿が回っていません。ここ数年、店内でのいたずらがSNSで拡散し、社会問題になりました。その対策として、タッチパネルで注文した品だけがレーンで届く仕組みに変わっています。 しばらくすると、私の隣に80代とおぼしき女性が、独りで座られました。やがて、その方が怒り出しました。しかも、見知らぬ私の方を向いてです。「すしを食べに来たのに、何よこれは。わけがわからないわよ。すしを回してよ」。私は、この怒りを、機械が苦手な高齢者の困惑だとは思いませんでした。 彼女の言い分は、筋が通っていると感じたのです。かって、回っている皿は目の前を通り過ぎていきます。彼女はそれを見て、気に入ったものに手を伸ばせばよかった。何が食べたいかを、あらかじめ言葉にする必要はありません。目で見て手が動く。それだけで食事が成立していました。 ところがタッチパネルは、何を食べたいかを決め、画面を正しく操作しなさい―と、こちらに要求します。回転ずしから回転が消えた瞬間、その店は「正しく注文できる人」のための店になったのです。彼女が失ったのは便利さではありません。「言葉にしなくても伝わる世界」です。 同じ年代の方々の会話では、スーパーのセルフレジも嫌われています。あれもタッチパネルすし店と同じでしょう。かつて、商店街には店の人がおり、お客の気配を察してくれました。今は、こちらが正しく操作しなければ卵一つ買えません。 ここで、誰かを責めるのは筋違いだとも思います。店が冷たくなったわけではありません。発端は、いたずらをした人間の側にありました。人口減少による人手不足もあるのでしょう。社会問題に対抗するためにシステムを変えた結果、新たな弱者を生んでしまった。この皮肉が、私の心に残りました。 誰一人取り残さない そして、これは私たちの世界の話でもあります。今の医療も、「どこがどう痛むのかを正確に説明できる患者さん」を前提に組み立てられています。スマホで受付を済ませ、症状を登録し、診察室で経緯を話し、質問に答え、そして薬を受け取る。この流れにうまく対応できない方は、後回しになってしまうのです。ここにも、回らなくなったレーンがあります。 タッチパネルのすし店で私にできたのは、「店員さんを呼びましょうか」と声をかけることだけでした。画面の使い方を教えることもできたはずですが、そのときは、なぜかそうする気になれませんでした。彼女に足りないのは、操作の知識ではなく、話しかける相手だろうと感じたからです。 やがて店員さんが来て、注文を聞き取ってくれました。しかし、彼女の機嫌は収まりませんでした。SDGsの理念は「誰一人取り残さない」ですが、回転ずしのカウンターで、そう感じたのでした。(訪問診療医師)