水曜日, 7月 16, 2025
ホーム暮らし朝鮮人虐殺 県内でも発生【関東大震災100年】

朝鮮人虐殺 県内でも発生【関東大震災100年】

1923年9月1日に発生した関東大震災から100年がたつ。当時「朝鮮人が井戸に毒を入れた」「暴動を起こした」などのデマが飛び交う中で、軍隊や警官、地域の自警団が多数の朝鮮人を殺害する「朝鮮人虐殺」が起きた。朝鮮人だけでなく中国人、さらに朝鮮人と見誤られた日本人、社会主義思想を持つ人々へも暴力は向けられた。朝鮮人虐殺は首都圏だけでなく、土浦をはじめ茨城県各地でも起きていたことが当時の報道で確認できる。私たちが暮らす街でかつて何が起きたのか、暴力がなぜ広まったのかを当時の報道などを元に振り返る。

殺気立った真鍋町

1923年9月6日の新聞「いはらき」に、現在の土浦市真鍋町で起きた自警団による朝鮮人への襲撃事件が「五人組の鮮人 連れの婦人半殺し 少年一人も虫の息 殺気立った眞鍋町」という見出しで報じられた。

9月4日夜12時、真鍋町内で地元の自警団が子供2人を含む5人連れの朝鮮人を発見すると、5人を「袋叩きのうえ溝に投げ」込んだ。5人は同町北部にある赤池という池に面した伝染病患者の隔離施設「避病舎」に収容されると、さらに、そこに押しかけた地域住民により暴行を加えられた。その過程で17歳の男性が絶命(のちに蘇生)し、婦人が「半殺し(原文ママ)」に遭った。

前日9月3日には、土浦駅で3人の朝鮮人に対する暴行事件が発生した。これを報じた河北新報は、3人のうち2人が逃走するとその噂が「雷のように町中に拡まり(中略)小さな土浦の街はすっかり恐怖に包まれ」たと、当時の土浦の空気を伝えている。   

「いはらき」は、東京で惨殺される朝鮮人の様子を報じつつ、県内各地で起きる暴力事件をその後も伝えている。

いずれも9月6日付の紙面に▷藤代駅着下り列車に一鮮人が乗り込んでいたのを警護団が取り押さえ半殺しとした▷六鮮人を袋叩き 助川駅(現・日立駅)頭の血塗り▷千波湖(水戸市)に鮮人逃込む 脅しの小銃発射ーなどの記事が掲載されている。

朝鮮人と見誤られたことで犠牲となった日本人のことも同じ6日の記事で伝えている。▷下館(現・筑西市)で、竹槍や棍棒で武装した在郷軍人らによる自警団が町内を巡回中、朝鮮人と疑った2人の日本人に暴行を加え怪我を負わせた▷真壁町(現・桜川市)で、25歳の男性が朝鮮人と誤認され日本刀や鋤を用いて殺害されたー。後日、真壁の事件は2人が起訴され、1人に実刑、もう1人には執行猶予付きの判決が言い渡されている。

避難者からデマ伝わる

都立大学名誉教授の田村紀之氏の調査によると、震災前後、県内には297人の朝鮮人が暮らしていた。「関東大震災の禍根ー茨城・千葉の朝鮮人虐殺事件」(筑波書林)によると、県内では主に、現在の阿見町に位置する旧海軍霞ケ浦航空隊による埋め立て工事や、水郡線の建設現場などに従事する朝鮮人労働者がいたとされる。

同書は、震災前から労働者として県に居住してきた朝鮮人に対する暴力行為は、9月3日の夜ごろから始まっているとし、常磐線が復旧後、東京などから続々と県内に押し寄せた避難者の口から朝鮮人に対する流言飛語が伝わり、民衆を殺気立たせたとしている。

報道が憎悪を煽動

震災で混乱する街にデマが流れ込み、「殺気だった」状況がつくられた。そこへさらに、朝鮮人への憎悪を煽動する報道がなされていたことが、当時の新聞から確認できる。被災状況中心だった地震直後の紙面が、日を追うごとに変化する様子を「いはらき」から見ていきたい。

「いはらき」が震災の一報を「稀有の大地震」と伝えたのが9月2日。その日、同紙は土浦で常磐線が脱線し39人が死傷したことを中心に、県内各地の被災状況を報じているが、まだ県外の詳細は報じていない。3日になると「大東京全滅」という大見出しとともに、写真付きで東京、神奈川など首都圏の壊滅的な状況が詳報されはじめる。翌4日になると、報道の関心が「震災」から「朝鮮人」へ移りだす。1面で「朝鮮人二千の掠奪 毒薬を井戸に投入した噂」と伝聞を報じると、「鮮人襲来」「鮮人凶暴の所以」「不逞鮮人跳梁」など煽動的な見出しが紙面を埋めていく。

5日の社説では「憎むべき不逞者よ!」との見出しで「鮮人の群は罹災民から金品を強奪し(中略)市街に放火し爆弾を投擲し飲料井水に毒物を投入すという実に何の悪魔ぞ。咄!咄!彼らは人なるか獣なるか」「鮮人こそ人類人道の敵」とデマをもとに朝鮮人への憎悪を掻き立てる。また同日の紙面には、「市中横行の鮮人五千 足尾其他からも上京の形勢」と、あたかも各地から首都へ朝鮮人が攻め入るような見出しを付けつつ、「怪鮮人」「毒薬所持鮮人」「暴動鮮人」などの朝鮮人を取り上げた記事が、広告と連載小説を除いた全4面ある紙面のおよそ半分を占めている。

1923年9月5日の新聞「いはらき」。「鮮人」の見出しが紙面の半分を埋めている

7日の社説は「牢記せよ、この暴動を!(※牢記=しっかりと記憶すること)」として地震による都市の壊滅的な被害を嘆きながら、「最も痛恨に堪えぬは、この大災害に乗じて不逞鮮人が暴動し、放火、破壊、略奪、陵辱、虐殺あらゆる残虐を行なったことである」と断定した上で、これが「三千四千の鮮人」による計画的な蜂起であるとし、日本による朝鮮統治への悪影響を及ぼしかねない状況であるとして「深憂に堪えぬ」と述べ、「今回の鮮人暴動」は「全国民の牢記すべき事件である」と結んでいる。

すでに報道の主眼が被災状況を伝えることから朝鮮人への危機意識の煽動へと向かっていることがわかる。当時はラジオ放送が始まる以前であり、新聞が報道の中心を担っていた時期であることを考えると、混乱の中での報道が、他の各紙同様に県内でも、拡散されるデマに根拠を与えただけでなく、「殺気立った」状況をさらに街に作り出す一因になっていた。

「語り継いでいかなければいけない

「関東大震災の禍根ー茨城・千葉の朝鮮人虐殺事件」の著者の一人で、元小学校教諭の櫻井優子さん(69)は、真鍋町での暴行事件の証言を目撃者から聞き取るなど、学生時代に実地調査に臨んだ。きっかけとなったのが、学生時代に接した差別的な報道や、実際に交流した日本で暮らす朝鮮人との出会いだったという。学生時代に調査を進める中で櫻井さんは「日本人の中に、この事件に対する責任が受け継がれていないこと」を実感したとし、「この事件は、朝鮮と日本という二つの国家の関係の中で起こったことで、消えることのない事実。人権意識の欠如が招いたこの悲劇を繰り返さないためにも、歴史的な事実はありのままに語り継いでいかなければいけない」と語りかける。

政府の中央防災会議は2009年の報告書で、虐殺の犠牲者数が震災による死者・行方不明者約10万5000人の1~数パーセントにのぼると推計し、「大規模災害時に発生した最悪の事態」との認識を示している。(柴田大輔)

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