火曜日, 8月 11, 2026
ホームつくば点字ブロックのQRコードで道案内 視覚障害者支援へ つくば駅で実証実験

点字ブロックのQRコードで道案内 視覚障害者支援へ つくば駅で実証実験

点字ブロックに貼り付けられたQRコードをスマートフォンのカメラで読み取りながら、視覚障害者を目的地まで、音声で正確に誘導する移動サポートシステムの実証実験が31日、TXつくば駅と隣接のつくばセンターバスターミナルで実施された。

つくば駅やバスターミナルの利用に慣れている視覚障害者は、頭の中の地図をもとに白杖や点字ブロックを使いながら1人で移動できるが、よく知らない場合、外出を支援する誘導者が必要になる。新たに開発された移動支援システムは、視覚障害者が自分のスマートフォンを使って、1人でつくば駅やバスターミナルを移動できるよう誘導する。

実証実験は、TXを運行する首都圏新都市鉄道(東京都千代田区)と、バスターミナルを管理するつくば市、システムを開発したリンクス(東京都港区、モハメッド・オサムニア社長)、システムの開発協力をした筑波技術大学(つくば市天久保)の4者が共同で実施した。

31日は、技術大で学ぶ視覚障害者の学生ら5人がそれぞれ、自分のスマートフォンを使って専用のアプリを起動し、カメラを点字ブロックに向けて、音声で誘導を受けながら、バスターミナルのバス停からつくば駅の上りホームまで、片道約340メートルを一人で白杖を付きながら歩いて往復した。

点字ブロックの曲がり角や分岐点、階段に差し掛かると、「直進3メートル」「右19メートル」「階段35段」などの詳細な音声案内があった。

実証実験に参加した視覚障害者で技術大の寮に住む保健科学部情報システム学科1年の井田怜菜さん(18)は「『右何メートル』とか細かく教えてくれてありがたい。4月に北海道からつくばに引っ越してきたばかり。知らないところではガイドヘルパーなどに頼って移動するが、アプリがあると1人で移動できる」と感想を話す。

スマホを点字プロックにかざして音声の誘導を受けながらつくば駅の上りホームに到着した井田さん

視覚障害者で技術大4年の北畠一翔さん(21)は「リアルタイムで情報を得られるので安心できる。点字ブロックがあるだけではどこにつながっているか、教えてもらわないと分からない。アプリで案内してもらえるので自分だけで目的に到着することができる」と語っていた。

開発された移動支援システムは「shikAI(シカイ)」と命名されている。今回の実証実験では、地上にあるバスターミナルから、地下にあるつくば駅構内やホームまでの延びた点字ブロックに、計約500枚のQRコードが貼り付けられた。設計図面や現地調査をもとにあらかじめ作成された点字ブロックの地図情報をもとに、点字ブロックに貼られたQRコードの位置情報をスマートフォンのカメラで読み込んで、視覚障害者の位置を確認し、1メートル単位で誘導する。

2016年から開発が始まり、17年から筑波技術大学の松尾政輝助教(29)が開発協力してきた。リンクスの小西祐一取締役によると、17年から東京メトロで実験を始めたが、当初は無線で誘導するシステムだったことから、地下鉄では案内が途切れるなど壁にぶつかった。点字ブロックにQRコードを貼り付けてスマートフォンのカメラで読み取るシステムに変更したところスムーズにいくようになったという。

現在すでに実用化されており、2020年から東京メトロの10駅と豊島区の区役所と図書館、今年3月からはJR西日本が大阪駅うめきたエリアに導入した。

つくば駅での実証実験は6月7日まで計4回実施され、安全性や利便性、効果や課題などを検証する。松尾助教は「人によってどういうものが使いやすいかは異なるが、効率的な移動手段を当事者が選べることが重要。shikAIは当事者の意見を聞いて開発された。導入されれば移動の選択肢の幅が広がる」と話している。

リンクスは、駅やバスターミナルの管理者が導入費用を負担し、利用者は無料で利用できる枠組みを提示している。導入費用は1駅当たり100万円から200万円程度で、つくば駅構内とバスターミナルに導入する場合、200万円程度かかるという。

今後つくば駅で導入するか否かについて首都圏新都市鉄道は「実証実験の結果を踏まえて4者で検討したい」とし、つくば市は「バスターミナルだけではなくて駅までシームレスにつながることが大事なので、実証実験の結果を検証して首都圏新都市鉄道と協議したい」としている。

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