【ノベル・伊東葎花】
早春の公園。青空に映える満開の桜。
私は公園のベンチに座って、砂遊びをする息子を見ていた。
「見事に咲きましたなあ」
隣に座る老人が話しかけてきた。
老人は、息子を見ながら言った。
「あの子は、あと何十回も桜を見るんでしょうな」
「ええ、まだ5歳ですから」
「あなたも若い。たくさん桜を見ることができるな」
老人は、ふっと息を吐いた。
「しかし私はダメだ。きっと今年が最後だ」
「そんなことありません。とてもお元気そうですよ」
「そうかね。じゃあ、賭けようか」
老人の目がきらりと光った。
「私があと何回桜を見られるか、賭けるんだよ」
「賭けませんよ。そんな不謹慎な」
「あなたが勝ったら、私の財産をやろう」
「ふざけないでください」
老人は、笑いながら息子に話しかけた。
「ぼうや、好きな数字は何だね?」
息子は、うーんと考えながら「3」と答えた。
「3回か。私が桜を見られるのは、あと3回というわけだね」
「何を勝手に! 賭けなんかしませんよ」
私は、さらうように息子を抱いて公園を後にした。
*
3年が過ぎた。
あれから3回目の春、3回目の桜だ。
もちろん、ずっとあの老人のことを考えて暮らしたわけではない。
ただ春になって桜が咲くと、どうしても思い出してしまう。
買い物の帰り道、公園の前に救急車が止まっていた。
ベンチで桜を見ていた老人が、急に倒れたのだという。
嫌な予感がした。
公園で老人が亡くなったという話は、近所中で広まった。
老人は「3回目の桜です」と、会う人ごとに話していたという。
あの老人だ。間違いない。
恐ろしくて震えた。まるで息子が予言者みたいだ。
子供が気まぐれで言った数字で、運命が変わるわけがない。
それでも何だか落ち着かなくて、公園に行って、満開の桜に手を合わせた。
どうか成仏して下さいと。
見上げた桜の枝に、白い封筒がぶら下がっていた。
『3年前に、賭けをした方へ』と書かれている。私への手紙だ。
手に取って、恐る恐る中を見た。
老人の、娘からの手紙だった。
『3年前、父と賭けをした方へ』
父は、何かを賭けるのが好きな人でした。だからといって、おかしな賭けを持ちかけられて、さぞ困惑したことと思います。
だけどあの日、父はうれしそうに言ったのです。
「あと3回桜が見られるよ。あと3年、生きられるんだ」と。
父はあの日、余命半年の宣告を受けたばかりだったのです。
3回も桜を見られたのは、あなた達のおかげです。
賭けはあなたの勝ちです。どうか父の財産を受け取ってください。
財産なんて…と思いながら見ると、封筒に1枚の宝くじが入っていた。
ああ、そういうことか。
5億円か、それともただの紙切れか。賭けが好きな老人らしい。
私は、老人の最期の賭けにのることにした。(作家)