火曜日, 12月 2, 2025
ホームつくば居場所を求め続けた想い つくばから双葉へ 谷津田光治さん㊤【震災12年】

居場所を求め続けた想い つくばから双葉へ 谷津田光治さん㊤【震災12年】

つくば市並木の公務員宿舎に、福島県双葉町の役場機関である「双葉町役場つくば連絡所」がある。東日本大震災の後、2011年12月に設けられた。同町から避難した人々に向けて住民票などの申請手続きや、町からの連絡事項を伝えるとともに、避難者による自治会活動や地域との交流の拠点になるなど、避難生活を支えてきた場所だ。

福島県内外に避難する双葉町民が、つくばの公務員宿舎へ入居するきっかけを作り、連絡所の設置を進めたのが、元双葉町議の谷津田光治さん(81)。自身も双葉町で被災し、現在、妻の美保子さんと宿舎で生活している。震災から12年がたつ3月末、谷津田さんは宿舎を離れ、故郷に近い南相馬市へ転居する。つくばと双葉の人々を結びつけてきた谷津田さんにとって、12年の時間はどのようなものだったのか。

つくば、公務員宿舎へ入居する

「ここは、見渡すと樹木が多い。双葉の家も周りが山だったから違和感ないんです。なんとなく、双葉を思い出せるんですよ」谷津田さんが自室の窓越しに、敷地に繁るクヌギの木々に目を向ける。谷津田さんが暮らすつくば市並木の公務員宿舎には、以前は48世帯が入居していた。今はそれぞれ別の場所へ移るなどし、4世帯が生活をする。2022年3月の時点で、つくば市には437人の福島からの避難者が暮らしている。その中で双葉町の人々は、最も多い112人。

つくば市並木の国家公務員宿舎

双葉町は、福島第一原発事故による放射能汚染のため町全体に避難指示がだされ、全町民が避難生活を余儀なくされた。震災直後、1400人あまりが埼玉県に一時避難するなどし、先の見えない暮らしに不調をきたす人も多かった。そんな中、当時、町議を務める谷津田さんが耳にしたのが、つくばにある公務員宿舎のことだった。

「知り合いが、『茨城のつくばに空いている公務員宿舎がある。取り壊してるところもあるけど、まだ住めるところもあるから、見てきたらどう?』って言うもんで、見にきたら、びっくりするくらい部屋があったんですよ」つくば市には1970年代、筑波研究学園都市で働く研究所職員らに向けた公務員宿舎が約7800戸建てられた。その後、老朽化などを理由に、国は段階的に住宅の廃止を進めている。

「埼玉では、学校の教室に寝泊まりしていましたし、仮設住宅も長く暮らすには大変なんです。それが、つくばにこれだけまとまった家がある。多くの町民が1カ所で生活できるわけですよ。役場の事務作業だって少なくなる」

「みんながまとまって暮らすのが一番」と考えていた谷津田さんは、各地に避難する人たちに声をかけて下見に訪れ、役場とも交渉し、その後、2011年7月までに希望者の入居が始まった。

連絡所の設置

震災後、双葉町は、集団移住先の埼玉県加須市に役場機能を移転した。しかし、避難者は各地に散らばっていて必要な連絡が行き届かない。町は、避難者の多い場所に、支所や連絡所を置き事務機能を分担させていた。それを見た谷津田さんは「連絡所をつくばにも」と町に掛け合った。「情報があっちこっちすると、間違いが起きる。直接、連絡が来るのが一番だと思ったんです」

並木地区の公務員宿舎につくられた「双葉町役場つくば連絡所」

また、つくばには、生活に必要な支援物資が届いていなかった。「当時、支援物資は加須の役場に行かないと受けとれなかった。でも、個人で行ってもなかなかもらいにくいんです。みんな困ってるのは同じだけど、物をもらうっていうのは気が引けちゃう。だから、私らがライトバンで加須に行って、役場に話をつけて受け取ってきたんです。周りの人に『何かいるのあっかな?』って聞いてまわって。連絡所があれば支援の拠点になれる。そういう考えもありました」

妻の美保子さんは「これだけみんながバラバラになって、知らない土地で心細い中にいて、何かひとつだって町から届けば『見捨てられてない』って思えたんですよね」と連絡所ができたことで覚えた安心感を話す。

始めたグラウンドゴルフ

つくばでの新しい地域づくりが始まった。そこでは避難者同士だけではなく、つくば市民とのつながりも生まれた。

谷津田さんらは毎週火曜日、近所の公園でグラウンドゴルフを楽しんでいる。12年前から欠かさない、大切にしている交流の場だ。今では避難してきた人だけでなく、地域住民も参加している。終わった後のお茶会も楽しみとなっている。

運動の指導などを通じて避難者と交流し、学生にも交流の機会を設けてきた筑波大学名誉教授で体操コーチング論が専門の長谷川聖修さん(66)は「交流の場として、私たちにとっても貴重な場です」と話す。また長谷川さんの活動を通じて谷津田さんたちと知り合い、6年前から毎週グラウンドゴルフに参加している筑波大大学院の松浦稜さん(27)は「いつも楽しみにしてきました、ここに来ると、まるで実家にいるような気持ちになります」という。

グラウンドゴルフを楽しむ美保子さん(右)と参加者たち

グラウンドゴルフの始まりは、当事者同士の気遣いからだった。谷津田さんは「最初は、ばあちゃんの引きこもり防止だったんです。『あそこのじいちゃん、ばあちゃん、部屋から出てこないから』って。週に1回でも引っ張り出してっていうのがあったんです。何をやるにも、48世帯に声かけてやってました」と話す。

震災の月命日もそうだった。「みんなどこにも頼るところがないし、『月に1回、みんなで集まっか』って意識があった。その後も、年に1回、3月11日に慰霊祭を続けていました」

市内に借りた畑にもみんなで行った。「なんでも作りましたね。白菜からキャベツ、じゃがいも、里芋。収穫する時は、双葉の人、近所の人にも声かけて、弁当持って行ったんです。みんな喜んで、ピクニックみたいにね」

互いの様子を気遣いながら、共に暮らせる場所を作っていった。美保子さんは「つくばに来て、何もないところからの始まりだったんです。同じ双葉でもそれぞれ違うところに住んでいたので、双葉にいたら顔を合わせることもなかったかなって思います。その人たちが、ここで親しくなったんですよね。みなさん本当に親切にしてくれて。自分の家族のような人もできました」と振り返る。

今年3月末で、谷津田さんは、双葉町にほど近い南相馬市に建てた自宅に転居する。12年暮らしたつくばを離れる日が近づいている。つくばでの人とのつながりが、福島への転居をためらわせていたと美保子さんは言う。(㊦につづく、柴田大輔)

➡NEWSつくばが取材活動を継続するためには皆様のご支援が必要です。NEWSつくばの賛助会員になって活動を支援してください。詳しくはこちら

スポンサー
一誠商事
tlc
sekisho




spot_img

最近のコメント

最新記事

サイン本コレクター 中山光昭さん《ふるほんや見聞記》11

【コラム・岡田富朗】今年30周年を迎えた「アートウェーブつくば」。その初期から参加し、長年にわたり作品を発表してきたのが、中山光昭さん(70)です。アートウェーブつくばは、つくば市周辺で活動する作家による展覧会で、日本画・洋画・立体・平面・書・彫刻・工芸・写真など、幅広いジャンルの作品が一堂に会します。 1985年のつくば万博をきっかけに始まり、現在も毎年開催されている地域密着の美術イベントで、5年に一度は五浦の県立天心美術館(北茨城市大津町)でも展示が行われます。アート制作のかたわら、中山さんはつくば市文化協会の芸術副部長を務め、さらに筑波山神社の氏子総代としても地域に寄り添ってこられました。その活動の幅は実に多岐にわたります。 中山さんは、サイン本のコレクターでもあります。2〜3年かけてご自身の足でコツコツと集められたサイン本は、実に300冊を超えるとのこと。古本屋やリサイクルショップで偶然出会ったものから、サイン会に足を運んで手に入れたものまで、収集の方法はさまざまです。 今回12月9日から3日間、つくば市民ギャラリーにて、コレクションの中から50冊前後のサイン本を見ることができる展示が開催されます。写真に写っているサイン本だけでも、谷川俊太郎(詩人)、永六輔(放送作家)、ピーコ(タレント)、神田伯山(講談師)、柳生博(俳優)、桂三枝(落語家)、中島潔(画家)─と、実に多彩な顔ぶれが並びます。 著名人の人柄を感じられる 古いものや骨董にも関心があったという中山さんに、サイン本の魅力について伺いました。 「サイン本との出会いは偶然が多く、たまたま気になって手に取った本にサインが入っていることがよくあります。まるで本に呼ばれているかのように感じることもあります。サイン本と一口に言っても、サイン会で書かれたもの、作家が贈呈のために記したもの、編集者への推薦として他者の著作に署名したものなど、実にさまざまです。サインに絵が添えられていたり、言葉が書き加えられているものもあります」 「また、どのような経緯で、誰から誰へと渡ってきたのかを想像すると、その本が歩んできた“時間”を感じることができます。現在は手書きのものも少なくなりつつあり、著名な方々の人柄を感じられるサインは、とても貴重で魅力的なものだと思います。今後も自分が納得できるまでは、サイン本の収集を続けていくつもりです」と語ってくださいました。(ブックセンター・キャンパス店主) 中山光昭コレクション サイン本展・他(仮)・会期:12月9日〜12月11日・会場:つくば市民ギャラリー(つくば市吾妻2-7-5、中央公園内)・時間:午前9時〜午後5時

愛犬ミミの自然死《くずかごの唄》153

【コラム・奥井登美子】戦時中の小学4年生の時、かわいがっていた犬を愛国婦人会のおばさんたちに連れていかれてしまってから、私はショックで、しばらく犬の顔が見られなかった(10月23日掲載)。 結婚して東京から土浦に住むようになり、舅(しゅうと)と姑(しゅうとめ)の介護に振り回された。国の介護制度が整っていなかった時代だったので、ご近所の人や医療関係の友達に助けていただいて、何とか家族の危機を乗り切ることができた。 それから何十年か経ち、介護の苦労もすっかり忘れたころ、孫が犬の赤ちゃんをもらって来て、ミミと名付けた。わが家のアイドル犬ミミは特別元気な犬で、庭の中を駆け回って昆虫を追いかけるのが大好きだった。力が強く、つながれた鎖を引きちぎってしまったこともある。 犬の自然な寿命はよく分からないが、15歳くらいらしい。赤ちゃんの時にもらわれてきたミミは、18歳で歩くことができなくなってしまった。 人間は歩けなくなってしまっても、言葉で意志を通じることができるので、介護の人が適切に動いてくれれば生活できる。しかし犬は困る。ワンワンという言葉しかしゃべらないから、歩けなくなったイラダチをどう表現するのかわからない。何を考え、何を望んでいるのか、飼い主にも見当がつかない。 歩けなくなってしまったミミ 歩けなくなった犬はどうしたらいいのだろうか…。 難しい問題である。私は犬の自然死を体験してみるのも、自分の死に方に参考になるのではないかと思った。人間も明治時代前は自然死に近かった。漢方医など医者はいたが、かかれない人も多く、薬の成分はほぼ天然由来の植物や鉱物ばかりだった。 ミミを日当たりのよいサンルームに移動し、鎖は金属で重いから、軽い布のひもに取り替えた。排泄物はどこでどうするのかわからない。サンルームにゴザを敷き、その上にオシッコでぬれても構わない色々な種類のカーペットを敷き、ミミがその日に自分の気にいった場所を選べるようにしてみた。 難しいのはドックフード。今はいろいろな種類のドックフードを売っている。何種類か買ってきて、別々の容器に入れて何を食べてくれるのか試してみた。スープと水と漢方薬もお湯で溶いて、何種類か置いてみた。 歩けなくなってしまったミミは、私の作った犬介護ベッドで108日間生きていた。最後の一週間は何も食べなくなり、私の胸に抱かれながら、静かに満足そうな顔をして息を引き取った。(随筆家、薬剤師)

隣国・中国を視察して《令和樂学ラボ》38

【コラム・川上美智子】水戸市は、中国 重慶と友好交流協定を25年前に結んでいる。重慶は、上海、北京、天津と並ぶ中国四つの直轄市の一つであり、面積も人口も世界最大で、3200万人超の人々が住んでいる。日本では、広島市と水戸市の2市が友好交流都市となっており、水戸市と重慶は定期的に相互の国を表敬訪問し友好関係を深めてきた。 10月15~19日、水戸市は、団長・髙橋靖市長、副団長・綿引健市議会副議長とする総勢33名の友好交流25周年記念親善訪問団を仕立て、5日間の視察を行ってきた。私自身は、8年前に次いで2回目の訪問であったが、その後の重慶の発展ぶりを見たいという強い思いで参加した。 現在、高市早苗首相の衆議院予算委員会の答弁が発端で、日中関係が目まぐるしく変化し、気になるところであるが、日本にとっては大切な隣国である。本視察は今後の日中関係を考える上でも、学びの多い有意義な5日間であった。 中国は、私の長年の研究対象<茶>の故郷であることから、30代のころより研究や学会発表などで訪問し、隣国の移り変わりを見てきたが、超高層ビルが林立する重慶に迎えられて、今回ほどその発展ぶりに驚かされたことはなかった。また、日本文化のルーツでもある中国の歴史文化のスケールの大きさに触れる貴重な機会にもなった。 訪問2日目の公式行事で、重慶市人民政府外事弁公室を表敬訪問した。訪問では、沔子敏(Feng Zimin)副主任と日本国駐重慶総領事館の高田真里総領事、横山理紗副領事がお出迎えくださり、歓迎レセプションが開かれた。 沔副主任は、団員一人ひとりとシャンパンで乾杯を交わされ、名刺交換の際には、子(Zi)という字が私の名前にも入っていることを見つけられ、同じだねと喜んでくださった。本当に丁寧にもてなされて、一同感激し、友好を深められたことを喜んだ。また、日本の外務省に所属する女性官僚2人が領事、副領事を務められ、国際社会の前線で活躍される姿に頼もしさを感じた。 両国友好こそが平和維持に不可欠 水陸の要所であり、一帯一路の中心に位置する重慶は、習近平が掲げる「中国を世界の工場にする」との方針のもと、世界的な工業都市として発展を続けてきた。私たちは重慶九州神鷹通航公司と重慶長安汽車工場を視察した。 重慶九州神鷹通航公司は、ドローンやヘリコプター、プライベート飛行機などの利用拡大のための施設で、機器の貸し出しや操縦指導などの支援を行っていた。広大な領土を有する中国ならではの空の利用促進を狙ったものとなっていた。 重慶長安汽車工場は、中国でBYDや吉利汽車、テスラ中国に次ぐ、販売台数シェア第4位の最先端の電気自動車工場である。ラインのロボットアームが金属板の切断、曲げ、溶接、塗装、組み立ての一連の作業を行い、タイヤをはめるのと最終チェックだけを人が関わっていた。その場で360度回転する車や、センサーを多用した車など、利便性の面では日本車より遥かに先端を行っていた。 中国には59のユネスコ世界遺産があるが、その一つ、大足石刻を訪れ、丘陵石窟に彫られた仏教、儒教、道教の1万体の石像も見学した。唐代から宋代まで500年間かけ造られた壮大な芸術群に驚かされた。今回の視察は、中国がもつ底力や未来への伸び代を理解する上で大変意義深いものであった。 今年、日中国交正常化53年目を迎えたが、両国間の友好こそが平和維持に不可欠であることは言うまでもない。(茨城キリスト教大学名誉教授、関彰商事株式会社アドバイザー)

「来年はもっとバージョンアップ」 関彰商事とハノイ工科大 スポンサー契約を更新

日本商工会議所が関心 関彰商事(本社 筑西市・つくば市、関正樹社長)つくば本社で28日、同社が包括連携協定を結ぶベトナム・ハノイ工科大学とのスポンサー契約更新の調印式が催された。関社長は「ハノイ工科大学とは10年の付き合いがあるが、来年はもっとバージョンアップいきたい。今回、日本商工会議所が関心をもってくれたことが成果。日本とベトナムの架け橋になれるようがんばっていきたい」と話した。 調印式には同大からヴー・ヴァン・イエム副学長ら3人が出席し、同社社員らがベトナムの国旗を持って一行を出迎えた。関社長は「壁は日本語、さらに多くの学生が日本企業で活躍できることと、この事業が持続していくことを期待している」と述べた。 同大からは、優秀な学生に奨学金を出し最終的に日本企業に貢献してもらうことや、高校生の交換留学を進めることなど二つの提案があった。 同社は2016年にハノイ市に事務所を開設し、ベトナムでの事業をスタートした。グループの人材派遣会社である「セキショウキャリアプラス」が、今年第12回目の合同企業説明会「セキショウ ジョブ フェア」をハノイ工科大学で開催。日系企業によるベトナム人大卒エンジニアなど高度外国人材採用や、ベトナム人求職者の就労をサポートしている。18年にはハノイ工科大学を支援するスポンサー契約を結び、継続している。 同大は1956年に設立されたベトナム初の技術系総合国立大学で、同国の理科系大学では最難関とされる。学生数は4万人以上を超え、1学年600人余りが日本語を学ぶ。11月2日と3日に同大で開催されたジョブフェアには2000人以上が参加している。日本では東京工業大学、慶応大学などが姉妹校となっている。 同社の寄付金により同大に建設中の日本とベトナムの文化交流施設「越日スペース」は、来年8月に完成が予定されている。施設は2階建てで、日本語学習や関連セミナー、文化交流などのイベントが開催されることになっている。(榎田智司)