月曜日, 3月 10, 2025
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平安時代にタイムスリップ 「ひな人形になったよう」 土浦

【谷島英里子】平安貴族の正装とされる女性の十二単(ひとえ)と男性の束帯(そくたい)の着付けを実演するひな祭りのイベントが3日、土浦市桜町のすがた美容室で行われ、みやびな世界に包まれた。

衣紋者(えもんじゃ)と呼ばれる特別な技術を持つ着付けの木村恵子さんらが、来場者の目の前で、五衣(いつつぎぬ)、上着、唐衣(からぎぬ)、裳(も)まで、衣を一枚一枚重ねていく様子を披露した。

体験した埼玉県の藤野紀子さん(61)は「タイムスリップしたような気分。ひな人形になったようでうれしい」。千葉県の神保弘さん(41)「ずっしりとした重量感があった。ちょうどひな祭りの3日に着ることができて感無量です」と話していた。

木村さんは、歴史ある土浦で和文化を継承したいと、毎回、一般から参加を募って無料で体験会を開いている。今回の十二単と束帯の体験のほか、5歳になるころ健やかな成長を祈って行われる「着袴(ちゃっこ)の儀」、平安時代の成人式「着裳(ちゃくも)の儀」と「加冠(かかん)の儀」の着装実演も行っている。

十二単と束帯の後ろ姿=同

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「サツマイモの神様」白土松吉が名誉市民に《邑から日本を見る》179

【コラム・先﨑千尋】茨城県内で「サツマイモの神様」と呼ばれてきた白土松吉に、那珂市から名誉市民の称号が贈られた。那珂市は1月に市制施行20周年の記念式典を開いたが、この席で、曽孫の白土史生さんに先﨑光市長から名誉市民証が渡された。同市の名誉市民は5人目で、民間人としては初めて。 松吉は1881(明治14)年に那珂郡勝田村(現ひたちなか市)に生まれ、同郡湊町(現ひたちなか市)の白土家の養子になり、水戸農学校(現水戸農業高校)を卒業後、那珂郡役所に入り、同郡農会技手を兼務した。農会とは、農業の技術的・経済的発展と農業改良をめざした組織。 那珂郡は畑作地帯で、陸稲が盛んだった。陸稲は、夏に雨が降らないと収穫が皆無になることもあり、不安定な作物だった。松吉はこれを救うのはサツマイモだと考え、サツマイモの増収栽培の研究を始めた。 それと同時に、同郡前渡村村長の大和田熊太郎とともに、冬場の農閑期の副業として甘藷(かんしょ)蒸切干(干し芋)の製造を農家に奨励していった。郡内の篤(とく)農家や農学校、小学校にサツマイモの試験地、試作地を設け、増収技術の研究を重ねた。 目標は千貫(3.75トン)取り。当時の平均反収の3倍だった。研究の甲斐(かい)あって、1926年にとうとう千貫増収法を確立した。その後も、技術の合理化、作業の簡略化などの工夫を重ね、1937年に、1農家3人の労働力で1~2ヘクタールのサツマイモ栽培ができる「千貫取り白土式甘藷栽培法」を確立した。 松吉が研究を始めて30年の歳月が流れ、この年に松吉は『甘藷作論及栽培法』(水戸市協文社)を出版している。 「いも類大増産運動」が始まる 戦争末期の1944年、国は「いも類大増産運動」に取り組み、サツマイモの苗を2000万本首都圏に送る計画を立てた。東茨城郡内原村(現水戸市)の日本国民高等学校などで実施に移し、松吉はその指導に当たった。 仕事に没頭し、湊町の自宅にはほとんど帰らず、農会事務所近くの旅館で生活し、身なりは一切構わず、どこに行くのもはだしと自転車。サツマイモ増産のために寝食を忘れ、東奔西走の毎日。名誉や地位、利益には見向きもしなかった。松吉の素朴な人柄とひょうきんな行動は農家の人に愛され、大臣や知事でもすべて「君づけ」で呼んだと伝えられている。 48年に第一線を退き、弟子たちが用意してくれた白土甘藷研究所(那珂郡芳野村、現那珂市)で晩年を過ごした。 サツマイモ、干し芋だけでなく、那珂川沿岸の農業用水の一つ、小場江堰(せき)改良工事にも私財を投じ、大きな功績を上げている。55年には、甘藷栽培の改良と水田灌漑(かんがい)用水路の新設の功績により黄綬褒章を受章し、亡くなる直前の56年11月、当時の那珂町役場構内に白土松吉翁顕彰碑が建立された。 私は2012年に松吉の評伝『白土松吉とその時代』(茨城新聞社)を出版していることもあり、松吉が那珂市の名誉市民に選ばれたことを自分のことのようにうれしく思っている。(元瓜連町長)

震災乗り越え100年 浪江からつくばに 眼鏡店主 原田功二さん

東日本大震災後に福島県浪江町から避難した原田功ニさん(48)が、つくば市学園の森に2018年にオープンさせた眼鏡店「グラングラス」が今年、創業100年を迎える。1925年5月に浪江町で誕生した「原田時計店」による眼鏡専門店だ。本店は震災で被災し、現在、避難先の福島県二本松市に店舗を構えている。(21年3月1日付、同3月2日付)。 各地で浪江を伝えた 「福島出身のお客様から『私、双葉だったよ』『私は楢葉だった』と声掛けてくださることがある。『浜通りトーク』をすると、僕も浪江を思い出すきっかけになるし、いつまでも浪江を忘れないでいられる。本当にありがたい」と、「グラングラス」店主の原田功ニさんが、笑顔を浮かべる。 千葉県出身の原田さんは、千葉で過ごした学生時代に浪江出身の妻、葉子さんと出会い、結婚した。震災時は、葉子さんの実家であり、浪江で3代続く原田時計店の跡取りとして義父母、妻らと働いていていた。時計店はJR浪江駅から徒歩10分程の、理髪店や精肉店、靴店などの個人商店が軒を連ねる商店街の中にあり、長年、地域の暮らしを支えてきた。原田さんが震災に遭ったのは、浪江に来て9年が経つころで、地元消防団や商工会への参加を通じて、街の一員として歩み始めた最中のことだった。 3月11日の震災では、地震によりガラスが割れたり、物が散乱したりするなど店舗が被災した。直後に出された津波警報により家族と高台に避難し車中で夜を明かすと、翌日には福島第一原発事故による避難指示が出た。手に取れるものだけ持ち出し避難した。1号機が爆発したのは隣町の親戚宅に滞在しているときだった。2019年に一家でつくば市で暮らし始めるまで、福島県内外5カ所を移動した。 各地を転々とする中で原田さんが浪江の商工会青年部の仲間らと始めたのが、地元の名物「なみえ焼そば」を、避難所など浪江の人たちが身を寄せる各地で提供することだ。浪江の状況を伝えていく活動だった。慣れない土地で、家族や友人らと離れて暮らす人たちは「故郷の味」に涙することもあった。 つくばに眼鏡店を開いたのは2018年。避難先で生まれた長男と妻の葉子さんが暮らす、原田さんの実家がある柏市から1人でつくばに通いながらのスタートだった。翌年、家族でつくばに転居した。つくばへの出店は一目ぼれだった。「先につくばに避難していた浪江の知人の紹介でつくばに来た。郊外に広がる山と田畑が浪江に似ていた。開発中のこれからの街というところにもひかれた」と振り返る。 やっと生活が安定してきた オープン以来、原田さんが1人で切り盛りしてきたつくばの店は、昨年から従業員を1人増やし2人態勢にした。「14年が経ち、やっと生活を安定させることができてきた。ようやく余裕を持てるようになってきたのだと思う」。浪江で過ごした時間より、震災後の月日の方が長くなった。「震災後の時間が短かったとは思えない。いろいろなことがあり過ぎた。まだ実感できていないことが多い」と話す。 最近は、浪江で活動を共にした仲間たちとの再会が増えている。おととしから年に数回、ゴルフをしたり、食事をしたりして楽しんでいる。集まる場所は、それぞれの避難先であるつくばや、福島県の郡山、いわきなどだ。各地域に暮らす人が持ち回りで企画する。 「震災後は、バラバラに避難していたが、時間とともに、徐々に連絡を取らなくなっていた人もいた。またつながりができるというのは、うれしい。昔話をしたり、情報交換をしたり、懐かしい時間を楽しんでいる」 100年は家族の目標だった 原田時計店は5月に創業100年を迎える。「震災前も、家族で100年目をどう迎えようかと話をしていた。2017年11月に義父が二本松で店を再開し、僕はつくばで店を開いた。100年というのは家族の目標だった。それまでは店をつぶすわけにはいかないと。婿で入った僕を育ててくれたのが、原田時計店」だとし、「思いが一番強いのは(義父の)社長とお義母さん。『100年目、何かしますか?』っていったら、あまり考えていなくて(笑)。ただ、浪江で何かしたいという話はしていました」。 昨年は、今年100歳を迎える祖母の誕生日を浪江の宿泊施設で開いた。各地に暮らす親戚らが集まって、にぎやかな1日を故郷で過ごした。震災後に生まれた一人息子の長男は、4月に中学生になる。「これまでにも墓参りなどで浪江に連れて行く機会はあったし、3.11の映像を見る機会もあった。息子なりに理解するところはあると思う」と言う。 つくばでも長く続くお店になれば つくばに暮らし始めて7年目を迎える。「私も妻も、子どもやお客様を通じて少しずつ地域につながりができてきた。私たちにとってつくばは『帰ったきた』と思える街になった。周りの方に応援され、サポートしていただけたことが僕にとっては大きなこと。原田時計店も多くの支えがあって100年を迎えられる。感謝でしかありません」 つくばの店では、眼鏡が楽しくなるようなデザイン性の高い個性的なものや、子ども向けのフレームを充実させている。「地域柄、お子様も多い。キッズスペースもあるので家族で来ていただいて、大人も子どももゆったり眼鏡を選んでほしい」と話す。以前「眼鏡屋さんになりたい」と言っていた長男は「他の夢も見つけているよう」だという。「彼の中で世界が広がっているんだと思う。自由に育ってもらえたらいい。彼がやりたいことはサポートしていきたい」と話す。 「最近、眼鏡を購入してくださったお子さんが、後日、おばあちゃんと来てくれることがあった。2世代、3世代で来てくださる。本当にありがたい。孫からおばあちゃんまで、つくばでも少しでも長く続いていけるお店になれば」と語る。 100年は通過点。原田さんが、新たな歴史をつくばで刻んでいく。(柴田大輔)

「勇気を持って次の目標に」 189人が巣立つ つくば国際ペット専門学校

  つくば国際ペット専門学校(同市沼田、東郷治久理事長)の卒業式が8日、つくば国際会議場(つくば市竹園)で催された。189人の卒業生を前に高橋仁校長は「きょう皆さんは憧れの職業へのスタートラインに立った。勇気を持って次の大きな目標へと立ち向かってほしい。他人を認め尊重できる人間になってほしい」とエールを送った。 東郷理事長は「『わんわんランド』という環境があるため、実際に動物に触れ合いながら学ぶことが出来たと思う。愛情と根気を身につけ、真のプロフェッショナルを目指し、胸を張って巣立って欲しい」と卒業生に祝辞を述べた。 卒業生代表として答辞を読んだドッグトレーナーコースの綱川未来さんは「入学当時は不安だったが、先生や仲間の力でなんとかやってこられた。(学園祭の)犬友祭では苦戦し、自分の実力を知ることになったが、とてもためになった」と語った。 式典では、公認訓練士などの公認資格試験の実施と公認資格発行などを行っている一般社団法人ジャパンケネルクラブから、同法人によるトリマーB、C級、ハンドラーC級、愛犬飼育管理士の合格者へのライセンス授与や、ビジネス能力検定3級と愛玩動物看護士の表彰なども行われた。 式典の最後には、在学中の思い出を振り返る映像が会場の大スクリーンに映し出され、参加した保護者らからも卒業生に向けて大きな拍手が起こった。 ペットケア総合コースを卒業した栃木県小山市出身の尾島葵さん(22)は「ペットケアに関することを幅広く学べたので良かった、卒業後は動物病院で働くことになっているので、経験を生かし頑張りたい」と語った。 同校は1997年にトリミングスクールとしてスタートし、県内初の動物分野の専門学校として2006年に開校、現在は、ドッグトリマー、ドッグトレーナー、ペットケア総合、愛玩動物看護師、動物看護福祉の5コースと、22年4月に開設した日本初となる通信制コース、通信制ペット学科(3年制)に計約450人が在籍している。在学中ずっと、生徒1人が1匹の子犬の世話をする「パートナードッグシステム」が特色で、隣接地にはグループ企業による犬のテーマパーク「つくばわんわんランド」(同市沼田)があり、現場で実習を積むことが出来る環境が整っている。(榎田智司)

小美玉市のイトウ製菓工場《日本一の湖のほとりにある街の話》32

【コラム・若田部哲】「チョコチップクッキー」をはじめとする様々なお菓子で、日本の庶民派おやつとしておなじみの「ミスターイトウ」こと、イトウ製菓。クッキー・ビスケットの専業メーカーである同社の商品全てが、小美玉市で製造されていることをご存じでしょうか? 今回は、そんなおいしいお菓子の製造現場を訪ねました。 見学に先立ち、マーケティング課長の櫻井さんと、工場見学担当の郡司さんから、工場概要のレクチャーです。現在、約200人が働く小美玉工場では、全130品目、毎日16万個ものお菓子が作られています。 製造にあたっては、鮮度保持のため、1日に作る10~16種類の製品について、必要な数量を必要な時間に生産するジャストインタイム方式を採用。効率化のお手本と名高いトヨタ方式と同様のこの方式をとる製菓メーカーは、他ではあまりみられないそうです。 そうしてレクチャー後、いざ工場見学がスタート! 入念な衛生管理を経たあと、製造工程に入室すると、そこは甘い香り漂う攪拌(かくはん)の工程。ここでは一度に600キロもの生地がこねられており、十分均質に混ぜ合せることが、おいしいお菓子づくりの第一条件なのだそうです。 品質を保つため、製品により生地の固さがそれぞれ異なる原料は、機械だけでなく担当者が固さを手でチェック。こねられた生地は、クッキーは型抜き、ビスケットはワイヤーカッターで切断され、見慣れた形へ成形されます。 そしてコンベアを流れる生地は、こんがりとおいしく焼き上げる「焼成」の工程へ。45メートルもの長さを持つ巨大な直線オーブンが4台並ぶこの箇所は、同工場の最大の特徴です。この特製オーブンにより、4段階の温度で一気に生地を焼くことこそ、手作りではできない食感とおいしさを生み出す秘訣、と櫻井さんと郡司さんは胸を張ります。 一歩焼成の部屋に足を踏み入れると、巨大なオーブンの存在感と熱気、部屋に満ちる濃厚な甘い匂いに圧倒され、言葉を失いそうに。次々に吸い込まれる、先ほどまでしっとりしていた生地は、オーブンをくぐること約8分、熱々のクッキー・ビスケットとして再びコンベアに現れます。その後、製品のチェックを経て梱包(こんぽう)・包装され、日本中の家庭で愛される「ミスターイトウ」のお菓子が出来上がり! トラックに積み込まれ、全国へと運ばれていきます。 地元の米粉を使ったバームクーヘン そして今回は見学の後、工場の道向かいに建つ、イトウ製菓による初の直営洋菓子店「アトリエ・プティ・ボア」に伺いました。モミの木をはじめとする様々な植栽による「小さな森」をコンセプトにした敷地に、かわいらしくたたずむ三角形の建物は、まるで童話の中の風景のよう。イトウ製菓工場の目の前にありながら、その存在感の違いから、あらかじめ知らなければ関連会社とは気づかないでしょう。 店内は、バームクーヘンをイメージした独特の形状の木のアーチの連なりと勾配天井が印象的な、シックでいてラグジュアリーな空間。職人さんがお菓子を作っている姿も見られるように設計されており、お買物だけでなく工場見学気分も同時に味わえます。この素敵な店内で、取締役の川中さんにお話を伺いました。 看板商品は、クッキー・ビスケットの専業メーカーであるイトウ製菓の新しいチャレンジである、半生菓子の「バームクーヘン」。小美玉市産コシヒカリの米粉を使用したソフトタイプの「Minoriz(みのり)」と、ハードタイプの「Gateau a la broche(ガトー ア・ラ・ブロッシュ)」の2種類がラインナップされています。 その他のとりどりのクッキーやサブレも、地場の素材に徹底的にこだわっています。米粉のほか、茨城の生乳に卵など、地元の素材をふんだんに使用。併設のカフェで提供するドリンクも、茨城名産の猿島茶、茨城のおいしいコーヒーの代名詞・サザコーヒーを使用するなど、お店全体で茨城の豊かな食の風景を表現しています。 パッケージもモノトーンを基調としたシックなものから、木をあしらったかわいらしいものばかり。近年大人気の「お菓子缶」への対応もぬかりなく、かわいらしい宝石箱のような缶が出迎えてくれます。 イトウ製菓がこれまで小美玉とともに紡いできた歴史を踏まえつつ、さらに地元とのつながりを深め、地域に新たな場所を提供したいと、川中さんは穏やかな、それでいて熱い言葉で語ってくださいました。その思いは着実に浸透し、若者からお年寄り、サイクリストも多く立ち寄るなど、小美玉の新スポットへと成長。庶民派おやつの「イトウ製菓」と、ラグジュアリーな「アトリエ・プティ・ボア」の、これからがとても楽しみです。(土浦市職員) ➡これまで紹介した場所はこちら