金曜日, 7月 3, 2026
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小中全校に校内フリースクール設置 不登校支援で8施策案 つくば市

民間事業者と保護者の両方に費用補助も

小中学校の不登校児童生徒の支援のあり方について検討するつくば市の「不登校に関する児童生徒支援検討会議」(森田充教育長と教育委員4人で構成)の第9回会合が13日、同市役所で開かれた。今後の支援施策として、校内フリースクールを小中学校全校に設置する、民間の支援事業者と不登校児童生徒の保護者の両方に運営費や利用料を補助するーなど8つの案が示された。

同市の2021年度の不登校児童生徒数は592人で、小学生が243人、中学生が349人。検討会議は、つくば市が昨年12月に実施した不登校児童生徒の学習支援施設「むすびつくば」の運営事業者の選定をめぐって迷走した問題を受けて、今年5月に設置された(5月17日付)。

今後の支援施策の一つ、①校内フリースクールは、教室に登校できない児童生徒が、自由な時間に登校し、校内の別室で自由に過ごす居場所。学校の空き教室などを活用し、退職教員など専任職員を配置する。児童生徒は専任職員に悩みを相談したり、勉強を見てもらったりもできる。同市では今年度初めて谷田部中学校に設置した(9月8日付)。23年度は新設校も含め市内の中学校16校に新たにつくり、中学校全校に校内フリースクールを設置する。小学校は23年度は空き教室の活用ができ不登校児童が多い6校に設置し、24年度は全校に設置する案が示された。

学校ではさらに相談体制を充実させる。教育相談の件数が増加傾向にあり予約が取りにくい状況にあることから、②臨床心理士などが従事するスクールカウンセラーを、現在の21人(1人は週1回、1日7時間勤務で計算)体制から、23年度は33人体制に毎年拡充し、25年度までに各校1~3人の56人体制にする。③社会福祉士などが従事し家庭訪問や生活支援などをするスクールソーシャルワーカーも拡充し、現在の8人(週2回、1日6時間勤務)体制から、23年度は17人体制、24年度は新設校を含め18人体制とし、中学校区ごとに1人配置する体制をつくる。④市教育相談センター(同市沼田)の教育相談員も現在の10人から13人に増やし、出張相談なども利用しやすくする。

民間フリースクールへの支援は、⑤民間の運営者に対し、支援体制整備や運営にかかわる経費を、1日当たりの利用人数と開設日などに応じて支援する。さらに⑥民間施設を利用する保護者に対しても利用料などの上限を定めた上で補助する案が示された。民間フリースクールは現在、市内に10カ所程度あるという。経費や利用料を支援する対象施設や対象者の基準や支援割合、上限などの具体的な線引きは、今後さらに検討して決める。

⑦公設の支援施設については、市が直営する市教育支援センター「つくしの広場」と、トライが運営する「ここにこ広場」(研究学園)は来年度以降も継続する。事業者選定をめぐって迷走した、NPO法人リヴォルヴ学校教育研究所が運営する「むすびつくば」(吾妻)は来年3月まで1年間延長されただけであることから、来年度以降、どうするかは今後さらに検討するという。

一方、⑧学校内のフリースクールにも民間のフリースクールにも行けず、家庭にいる児童生徒への支援についても、各学校の授業配信や、県が配信するオンライン授業「いばらきオンラインスタディ」を活用したり、市独自のオンライン教材「チャレンジングスタディ」をリニューアルするなどの案が示された。

検討会議ではほかに、2020年10月から22年3月末までリヴォルヴ学校教育研究所が市と協働で実施した「むすびつくば」の事業に対する検証報告書案も示された。児童生徒一人一人に応じた学習支援や居場所の提供などについては利用者から高評価だった一方、学校や市、市教育粗段センターとの連携については、連絡を取り合ったり、連絡会議を定期的に開催できなかったなどの課題が出された。

今後の支援施策は来年1月まで、むすびつくばの検証報告書は10月中にまとめる方針。(鈴木宏子)

◆次回の第10回検討会議は民間フリースクールや保護者への運営費や利用料の補助基準などについてさらに協議、検討が行われる。日程は未定。日程確認は市の会議公開予定表HPへ。

【訂正】次回第10回検討会議を10月18日としましたが延期となりました。14日時点で日程は未定です。

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