土曜日, 3月 28, 2026
ホームつくば「できない」ことは「ダメ」ではない つくばで障害施設ドキュメンタリー上映会

「できない」ことは「ダメ」ではない つくばで障害施設ドキュメンタリー上映会

つくば市で17日、知的障害者支援施設・しょうぶ学園(鹿児島市)の日常を描いたドキュメンタリー映画「幸福は日々の中に。」の上映会と、しょうぶ学園の統括施設長、福森伸さんを招いた講演会が開催される。主催者で、知的障害のある子を持つ親として福祉現場に携わる、つくば市在住の福原美紀さん(50)にイベント開催への思いを聞いた。

障害のある人が自由に生きられる場所

緑あふれる敷地に点在するカフェやギャラリー。工房では障害のある人たちが、粘土や木工、壁や床に絵を描くなど、自由に好きなことに打ち込む。職員は、できたものを活かしてバッグなどへと製品化する。互いの特技を活かした協働作業。昨年6月、22歳の息子の入所先を探していた福原さんは、グループホームもあるしょうぶ学園を見学に訪ねた。まるで一つの街のような敷地内の光景に「これだ!」と思ったという。

この日は施設に空きがなく、すぐの入居は叶わなかったが「障害のある人が自分の基準で生きられる街。誰もがありのまま、自由でいていい。貴重な場」だと感じ、「この価値観を多くの人に知らせたい」と上映会を企画した。

しょうぶ学園は、知的障害者更生施設として1973年に鹿児島市で開設。現在、主に知的障害者を対象に、施設入所支援や生活介護、就労支援などの福祉サービスの提供、工芸品や農業など創作活動、敷地内での飲食店やギャラリー、交流スペースを通じた地域交流事業を展開する。アート制作など、ものづくりを軸に、障害の有無によらない互いに協働しあうコミュニティーづくりが注目されている。

成功体験を積み上げられなかった

「学校教育を含め、障害者が健常者側に合わせ『できる』よう指導する場面に違和感を持ってきた」と福原さん。息子に知的障害がわかったのは3歳の時だ。当時は同世代の他の子との違いは小さかったが、成長と共に「できない」ことが増えていく。ただ「普通に育てたい」という思いは強かった。「大変」「怖い」「暴れる」障害へのネガティブなイメージも頭にあった。

小学校は普通学校を選択した。「他の子より遅いが、言葉を覚え、トイレも行ける。いつか差は埋まるはず。諦めたくない」と思った。「自分の息子の障害を認めるのが怖かった。『普通』で行けるはず」という思いも背中を押しした。

小学校では「成功体験がなかった」。授業では計算ができない、時計が読めないことを指摘され、息子の絵には他人の手が加えられた。「他の子供と差が出てしまう」と思った教師の「善意」だった。運動会では一人、ぽつんと地面に絵を描いていた。周囲の子との軋轢もあった。「できない」だけが積み重なり「母も子も自信を失った」。普通学校での生活に限界を感じ、小5の時に特別支援学校に編入した。

支援学校で始まった新生活。保護者への連絡帳に教師がコメントを書く。「積極的に(同じクラスの)重い障害のある子の面倒を見ています」「元気に歌を歌いました」「きちんと挨拶をしています」。できることばかり書いてある。「思わず『先生、これ誰かと間違えてませんか?』って聞いちゃいました」。授業参観では「それまで自信がなくて下ばかり向いてた息子が、クラスのリーダーシップをとっていたんです」息子の新たな一面に「ここに入れてよかった」と思った。

もっと彼らを信頼していい

「一般的に、社会に出ると、障害のある人は余暇を過ごす場所が少ない」と福原さんは話す。生活にサポートが必要なため、自由な行動、出会いの機会が限られる。だから福原さんは健常者と同様に青春期を楽しみ、人生経験を積める場として、障害者総合支援法に基づき2年間利用できる「福祉型専攻科シャンティつくば」や、知的障害のある青年たちのバスケットボールチーム「スマイルバスケットボールクラブ」を作ってきた。それは孤独になりがちな母親たちの交流の場になればとの思いもあった。

「今の社会は障害者を信頼していないんだと思います」。福原さんも、つい息子に「なんでできないの?」と言ってしまう。しかし、バスケや活動を通じ互いに学び合う子供たちに接し「もっと信頼していい。私たちが彼らのルールを理解するのがいい」と実感した。

以前見学した企業を福原さんが振り返る。そこでは健常者の中で、知的障害のある人も得意な作業に従事する。「誰が障害者で、誰が健常者かひと目でわからない」空間が作られていた。「適材適所。みんなに同じことをさせ、できないことを障害のせいにしない。『得意』を見つけ実行すると『障害』がなくなる。『できる』ことをすればイキイキできる。それは健常者も同じですよね」

「障害は決して『ダメ』ではない。今の社会は『できない』ことを『ダメ』だと責める風潮が強い。でも、この映画からは『ありのままでいい』と感じられる。きっと、鑑賞後に世界観が変わるのではないか。健常者にも選択肢が増えたら」と上映会に込める思いを語る。

「障害ってなんだろう?」。以前、栃木県での講演会で福原さんが聞いた、しょうぶ学園・福森さんの言葉だ。「理解してほしいというよりも、少しでも多くの人に障害のある人々や、福祉のことを知ってほしいと思っています」と福原さんは呼びかける。

◆しょうぶ学園「幸福は日々の中に。」上映会・学園長福森さんお話会 9月17日(土)午後1時〜上映会、午後3時~福森さん講演会。定員30人(事前予約制)。料金(税込み)は上映会のみ・大人1500円、中学生以上の障害者1000円、講演会のみ:大人3000円、中学生以上の障害者1500円、両方参加:大人4000円、中学生以上の障害者2000円。介助者:全て1人まで500円。会場は老人福祉センターとよさと(つくば市遠東639)。問い合わせは、メール:smile-fiona418@sea.plala.or.jp、電話:090-8963-9296(福原)

➡NEWSつくばが取材活動を継続するためには皆様のご支援が必要です。NEWSつくばの賛助会員になって活動を支援してください。詳しくはこちら

3 コメント

3 Comments
フィードバック
すべてのコメントを見る
スポンサー
一誠商事
tlc
sekisho




spot_img

最近のコメント

最新記事

友達を定義できるか《土浦一高哲学部「放課後の哲学」》5

【コラム・1年 月山望】 「今日友達がさぁ」 こんなふうに話すとき、「友達」という言葉はどのような人を指すだろうか。本当に親しい人、よく話をする人、果てはただのクラスメートまで。このように、友達という単語にはあまりにも多くの意味がある。 私は昔から、親や先生がクラスメートを友達と同じ意味で使うことに反感を抱いていた。よく話をする人と話さない人、気が合う人と合わない人、クラスメートの中にもいろいろいる。これらの人々をすべて友達とするのは、私には無理がある。 「クラスメートなどというものは、しょせん同じ空間にいるだけの他人であり、友達というに値しない」。そんなふうに考えたこともある。しかし、世の中にはクラスメートは全員友達である、という価値観の人もいる。(おそらくクラスLINEを作るのはこのようなタイプの人間だと、私は思う)。この違いは一体なんだろう。友達とは、いったいどこからいえるのだろうか。 私には、たまにしか会わないが、信じられないほど馬が合う友達がいる。それは一体どういうことなのかを考えてみると、その友達は、会わない時間など気にならないくらいに、気軽に話せる気の合う人だ。だとすると、私にとって友達と言える人の条件は「会わない時間が気にならないくらい、性格の相性が良い人」ということなのだろう。 しかし「クラスメートはみんな友達」という理論の持ち主は、おそらく私と全く異なる価値観で友達を考えているのだと思う。そのような人は、何をもって他者を友達と考えるのだろうか。おそらく「一緒の空間にいる(いた)こと」ではないかと私は考えている。例えば一緒のクラス、一緒の部活などが考えられる。「クラスメートはみんな友達」という理論の持ち主は、同じ空間を共有している(いた)人に、気軽に声を掛けることができるタイプの人たちなのではないか。であれば、クラスメート全員を友達と認識していてもおかしくない。 そこで問題になるのは、感情が一方通行であることだ。相手の意思とは関係なく、自分が友達だと思えればいいという考えだといえる。それは、私が考える友達とは異なるものだ。一方で、私にとっての友達の条件が、クラスの全員に当てはまることもないだろう。私が考える友達の条件も、私だけのものなのかもしれない。 ここで改めて今回のテーマである、友達を定義できるか考えてみよう。ここまで見てきたように、私と他の人の考える友達の条件は、全く異なるものであり、私と私の友達の間ですら、もしかすると異なった認識でいるかもしれない。友達に対する価値観は、それぞれ異なるものであり、あやふやなものだと言える。どこからが友達と言えるのか。そんなものは自分の主観でしか決められないのだ。しかし、だからこそ、私たちは他者と友達になることができるのではないだろうか。定められた友達という型に、他人を、自分を無理やり押し込めるのは、あまりに難しい。なんとなく話しかけてみる、距離を縮めてみる。それは、定義された友達を目指すことよりずっと簡単なことだ。 定める必要などなく、ふと気がついたらそうなっている。友達とはそんなものなのかもしれない。そうなると、友達を定義できるか?に対する私の答えは「定義できない」だ。

市営駐輪場のオンライン申請でシステム障害 つくば市

つくば市は27日、市営駐輪場を月決めなどで利用する定期利用について、今年4月分から新たにオンラインでの申請受付を開始したところ、システム障害が発生し、つながりにくい状態になったと発表した。 市によると、つくば駅周辺で4月から空きが出る9カ所913台分について、15日午前9時から午後6時まで、オンライン申請を受け付けたところ、受付開始直後の午前9時から午後6時まで計9時間にわたり、申請フォームがつながりにくい状態になった。駐輪場を管理する市公園・施設課には「(手続きが)進まない」などの苦情電話が50件ほどかかってきたという。システム障害の発生により市は当日、申請受付時間を午後9時まで延長した。 システム障害により手続きできなかった人が何人いたかは不明だが、障害が発生した午前9時~午後6時までに149件、延長した午後6時~9時までに124件の申請を受け付けた。申請できなかった人に対しては、現地の駐輪場管理事務所で随時受け付けているという。 市デジタル政策課によると、申請受付システムにはもともとアクセスが集中した際に、順番待ちしてもらう仕組みが設計されていたが、アクセスが集中して負荷がかかったことからシステム内部で処理が滞り、後続のアクセスを遮断してしまうという構造上の問題があったという。 申請は、茨城県や県内市町村が共同運用する「いばらき電子申請・届出サービス」を通して、マイナンバーカードを使って申請する仕組み。当日、同サービスを使った市の他の申請や届け出にも影響があったとみられるが、他の利用者から苦情などはなかった。 市営駐輪場の新年度からの定期利用についてはこれまで、つくば駅前の駐輪場管理事務所に並んでもらい、申請を受け付けていたが、例年200~300人が並ぶ状況であることから、今年からオンラインでの申請受付を開始した。 市は、システム提供事業者のNTTデータ関西に対し、不具合の改修と緊急時の体制見直しなど再発防止の徹底を図るよう、強く申し入れたとしている。

筑波大「志受け止め尽力」 被告に終身刑判決受け 仏留学の黒崎さん行方不明事件 

フランスに留学中の筑波大学生、黒崎愛海(なるみ)さん(当時21)が2016年に行方不明になった事件で、殺人の罪に問われていたチリ人ニコラス・セペダ被告(35)に対する控訴審判決が、現地時間の26日行われ、仏南部リヨンの裁判所はセペタ被告に対し検察側の求刑(禁固30年)より重い終身刑を言い渡したとして、筑波大の永田恭介学長は27日「今回の裁判により被告人の罪が明らかにされ、処断が下された。これまでの関係各位のご尽力に深く敬意を表し、本学としては黒崎さんの志を受け止め、日仏の学術交流の発展に尽くして参る所存です」などとするコメントを発表した。 黒崎さん(東京都出身)は仏東部のブザンソンに留学中、行方不明になった、事件直後に消息を絶った元交際相手のセペダ被告が殺人容疑で国際手配され、20年にチリからフランスに引き渡されて、殺人罪で起訴されていた。黒崎さんの遺体はまだ発見されていない。

服を着ることの意味とは《土浦一高哲学部「放課後の哲学」》4

【コラム・2年 マヨラー】なぜ人間は着飾るのか。この問いに対して、寒さから身を守るため、社会的規範に従うためなどといった実用的な回答はいくつもあげることができるだろう。 しかし人間が着飾る理由には、人間の身体と自己像の不安定さという根本的な問題がある(*脚注1)。 ニーチェという哲学者が「各人は各自に最も遠い者である」(*脚注2)と言った。私たちは自分自身を直接見ることはできず、鏡やカメラなどの装置を経由しなければならない。さらに自分の顔に関しては、感情によって表情が意識を超えて変わり、自分の身体を思うままに統制することもできない。身体というのは、とても遠く隔たったものなのだ。 私たちは自分の身体に触れたり、見たりする時に、身体に関して部分的な経験を得て、そのバラバラな身体知覚を自分の想像する「身体像」によってつなぎ合わせて、ようやく身体として理解できる。つまり身体の全体像は想像上でしか現れない。よって自分の身体は、もろく、不明瞭な像、イメージであると表すのが適している。 ではこの不安定な像を強化するためにはどうしたら良いのか。 それは、服を着ることだ。服を着ると、皮膚と布が接触することで、身体の輪郭が皮膚感覚として明確になる。そのため、自分から目視できない体の存在を確かめることができる。服を着ることは、寒さ対策などの機能的な面でも役割を果たしているが、このような心理的な作用も見逃せない。 ここから服を着ることとファッションとの関係が浮かび上がる。この二つの言葉はよく同一視されるが、厳密には異なる。ファッションは「人の目に自分はどう映っているのか」ということを意識し、自己像を表現する行為のことだ。思春期前の子供は大人が選び大人が考えた服を着させられるだけの着せ替え人形にすぎない。思春期を迎えると、与えられた服の着方や組み合わせに何かしらの違和感を持つようになり、服の組み合わせや着方を変える。まさにこの行為こそファッションの始まりだ。着飾ることは、服を着ることとファッションとの交わりに位置する概念だと言えるだろう。 ここで制服について考えてみると興味深い。制服を着るだけで自己に社会的役割や集団への帰属といった意味が付与される。もし制服がなければ、無限の選択肢の中から服を選ばなければならなない。制服はその負担を肩代わりし、自己に余裕を持たせてくれる。それにより持て余した余裕が、着崩し・ちぐはぐに着ること、つまり着飾ることに火をつける。制服自身が、制服という与えられた枠組みを変形する原動力になるのだ。 私自身はシャツの第1ボタンを開けたりスカート丈をやや短くしたりすることを普段行っている。 貴方は、顔や体の整いについて考えたことがあるだろうか。一般的に言うと、顔や体が整っているということは、大きさや形といった、外的基準だろう。しかし私はそれだけではないと思う。整っているとは自分の想像する自己像と、何かを経由して見た自己像との差異が少ないことだと思う。繰り返すが、自分が鏡や写真に映るたび、自分が見る自分は毎回印象が異なり自己像が確立していない。そう簡単に外形が変わることは無いのに、自己像は常に揺らいでいるというジレンマがある。そのような点で服は、身体像の強化や視線の分散をすることで、自分の想像する自己像と実物との関係の緊張を和らげることができる、非常に優れたものなのだ。 やはり、着飾ることもまた、単に服を着るのとは異なる意味で、自己の存在を確固たるものにするための手段だ。 *脚注1 服と身体との関係を考察するに当たっては、鷲田清一「ちぐはぐな身体」(ちくま文庫、2005年)を参考にした。2 ニーチェ「道徳の系譜」序言(木場深定訳、岩波文庫、1940年)