火曜日, 10月 6, 2026
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終わっていない水俣病だが… 《邑から日本を見る》114

【コラム・先﨑千尋】5月下旬、鹿児島市から熊本県水俣市に向かった。高速道路を使うと2時間余。山の中をひた走り。ここにも2人の朋(ほう)友がいる。1人は、水俣病患者支援のために水俣に入り、そのまま居ついてしまった大澤忠夫さん。もう1人は、市長として初めて水俣病患者に陳謝し、水俣病問題の解決に当たり、新しい水俣づくりに奔走した吉井正澄さん。

「公害の原点」と言われた水俣病が南九州の片隅で発見されたのは、経済白書が「もはや戦後ではない」と書いた1956年のこと。チッソが波静かな不知火(しらぬい)海の一部である水俣湾に猛毒のメチル水銀を垂れ流し、魚を通して周辺漁民や住民の人体を蝕(むしば)み、今なお被害に苦しむ人たちが大勢いる水俣。今回も、チッソ水俣工場の正門、毒を流した排水溝と埋立地、小さな漁港、水俣病歴史考証館などを1日歩いた。

大澤さんが京都にいた頃、水俣病患者に出逢い、1973年に水俣に移住した。水俣病患者たちは、海が有機水銀で汚染されていたため漁業ができず、陸に上がって山を切り開き、甘夏の栽培を始めた。当時の甘夏栽培には20回もの農薬を散布していたが、「他人に毒を盛られた者は、他人に毒を盛らない。加害者になりたくない」と、農薬や除草剤の散布を止めた。

そして、大澤さんは生産者たちと「反農薬水俣袋地区生産者連合」(反農連)を結成し、反農薬、有機栽培、自主販売を柱に、甘夏をはじめとする柑橘(かんきつ)類、野菜などの出荷を行うようになった。

こうして生産された甘夏は、表皮が“がさくれ”。見た目が悪く、売れない。大澤さんはその甘夏をリュックに詰め込み、つてを頼って売り歩いた。当時、私は『消費者レポート』で「ガサクレミカンを食べてください」という大澤さんの記事を読み、水戸市の友人たちと共同購入を始めた。それが私と水俣との出会いである。大澤さんには水戸まで来てもらったこともある。酒が回ると、カセットにスイッチを入れ踊り出す。座は一気にはじける。

今回、ミカン畑にも連れて行ってもらった。海が間近に見え、眺めはいいが、急斜面。高齢でミカンづくりを止める生産者が増えているという。大澤さんの家も、息子、娘の2代目に代わっている。

記憶を呼び覚ますものが消えている

吉井さんは市内の山奥に住んでおり、90歳になる。1994年に水俣市長に当選し、水俣病患者の精神的な救済を優先課題とし、市民の意識革命に取り組んだ。「環境モデル都市」をめざし環境学習に力を入れ、22分類のごみ収集、リサイクル工場の誘致など、行政だけでなく、市民が参加する活動を展開した。出身が市街地や海岸沿いではないため、客観的な見方、考え方ができたのだと思える。

私には、2000年に同市で開かれた「環境自治体会議」が忘れられない。私が司会を担当した分科会には、吉井市長のほか、岐阜県御嵩町長の柳川義郎さん、鎌倉市長の竹内謙さん、東海村の村上達也さんが出席したが、たまたま直前に柳川町長が暴漢に襲われるという事件が起こり、岐阜、熊本両県警の警備の人たちが会場をぐるりと取り囲んだのだ。

吉井さんの住まいの周辺は皆、棚田。石積みの田んぼを見ると先人の苦労がしのばれる。今でもトラクターに乗ると言う吉井さんは、がんが再発したそうだが、若々しい。田畑を上ったり下りたりだから、足腰が鍛え抜かれている。文章を書き続けているので、頭もさえている。

水俣は進化し続ける町。そう思いながら水俣通いをしてきたが、今回は市内では水俣病の記憶を呼び覚ますものが消えている。なぜなのだろうかと考えながら、水俣をあとにした。(元瓜連町長)

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