火曜日, 4月 21, 2026
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入院で高額療養費制度を使う 《ハチドリ暮らし》13

【コラム・山口京子】4月に連れ合いが8日ほど入院しました。医療費の総額は約50万円、そのうち自己負担は3割の約15万円でした。ですが、高額療養費制度を使うことによって、実際の支払額は66,800円でした。

事前に、市役所の国民健康保険課に行き、「健康保険限度額適用認定証」を申請しました。高額療養費の限度額は本人の所得によって変わるので、限度額を知ることが大事です。その額と高額療養費の対象にはならない項目(食事患者負担額、差額ベッド、日用品レンタル代など)を加えて、支払額が算出されます。

4人部屋に入りましたが、差額ベッド代はかからず、日用品費の支払いは別でした(4人部屋でも差額ベッド代が取られることがあるので事前の確認が必要)。なので、病院に払ったのは高額療養費限度額57,600円と食費9200円(1食460円×20食)だけでした。これに日用品レンタル代と雑費12,000円を加えても、総費用は8万円弱でした。

医療保険はチェックが必要

以前、終身医療保険に加入した場合、支払う保険料の総額がいくらになるのか、一生のうちに何回くらい入院するのか―などについて調べたことがあります。わが家の場合、連れ合いが加入していた医療保険の月額保険料は約5000円、30歳から80歳まで入っていた場合の総額は300万円になります。保障は入院日額5000円と手術給付金でした。

ですが、定年を機に解約したので、実際は210万円程度を払ったことになります。それに対して、30歳以降の入院歴は4回、入院日数は延べ33日。支払った医療費の実費は約30万円。公的医療保険制度や健保組合の療養付加金のおかげで、自己負担はかなり軽減されました。

突然のケガや病気による入院や手術は予想外であり、不安が募ります。「お守り」として保険に加入する人も多いのでしょう。ですが、医療保険加入にあたっては、医療費に充てる備えに不足があれば、その不足を保険で補うという整理をします。

どの程度を想定するかは、①公的医療保険制度の仕組みや健保組合の福利厚生を知る、②わが家の家計を把握する、③本人はどういう治療を希望するのか―などを踏まえた判断になるでしょう。元気なうちに家計のたな卸しや、病気に対する心構えをしておきたいと思いました。(消費生活アドバイザー)

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