日曜日, 10月 11, 2026
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島の赤いレンガの建物 《平熱日記》84

【コラム・斉藤裕之】レンガの建物は珍しい。地震が多く多湿な風土にも不向きなのだろう。ゆえに示準(しじゅん)化石のようでもあるし、その当時の経済や文化の状況を示す示相(しそう)化石のようでもある。横浜の赤レンガ倉庫や牛久シャトーのようにその時代の繁栄を象徴するかのように残っているものもあれば、忘れられたかのようにひっそりと佇(たたず)むものもある。

京都南禅寺で出会った水道橋や、引っ越してきた当時見つけた龍ケ崎のレンガの門がそうだった。

それにしても、幼少期から何度もこの島を訪れていたのに気が付かなかった。夏に展覧会を予定している、ホーランエー食堂のある郷里の粭島(すくもじま、山口県周南市)を訪れたのはまだ桜の残るころ。半分は釣り目的。打ち合わせが終わって、車窓からちょっとだけ見えた赤い建物。

言われなければわからないほどの、短く平たんな橋で半島とつながっている小さな島、粭島。ちなみに粭とは籾殻(もみがら)のことで、名前の通り籾殻の山のような形をしている。島の南側は険しい岩場で、なおかつ波や風がもろに当たるのだろう、民家は島の北側の海っぺりに集まっている。

今は廃校となっている2階建ての小学校も、学校にしては珍しく北向きの校舎だ。その建物も十分趣があるのだが、そのすぐ近くに1棟のレンガ造りの建物があるという。「これが売りに出ちょるんよ」と運転席の弟。

瀬戸内海は穏やかな海だ。埼玉育ちのカミさんなどは、初めてこの海を見たとき、「みずうみ?」とこぼしたほどだ。実はこの内海でシーカヤックを駆って釣りを楽しむ弟は、常々この島でのシーカヤックでのレジャーの可能性を考えていたという。その拠点としてこの赤いレンガの建物に目をつけたらしい。

また、最近はサイクリングの目的地として、この島までは市街地から程よい距離にあり、最高に気持ちのいいコースとのこと。実際、私たちがホーランエー食堂で名物の「ジャコ天そば」をごちそうになっていたとき、サイクリングのユニフォームを着た女性が入って来た。

いよいよ斉藤画伯の美術館か?

そういえば今から30年ほど前。「赤レンガの東京駅を残す運動」というのがあって、当時有名な文化人に混じって大学の恩師がそこに名を連ねていた。その保存活動の一環として、赤レンガの東京駅の絵を描いた子供たちの絵を隣接する百貨店に展示する手伝いをしたことを思い出した。そうやって東京駅も今の姿を残した。

そこで急にイメージがわいてきた。あの建物に展示スペースも作ろう。シーカヤックは天候や季節の影響も受けるだろうし…。いよいよ斉藤画伯の美術館か? 弟の長女が最近描いているボールペンによる作品の展示もいいな。先立つものはないけど、夢想するのは絵描きの得意とするところだ。

まれに、考えていることが世の中の出来事とシンクロすることがある。今日も暗闇の中の散歩を終えて新聞を開くと、日立の高校生が「カラミ煉瓦で町おこし」なる記事を見つけた。やはりレンガの赤は人を引きつけるらしい。(画家)

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