【柴田大輔】「原発災害は自然災害とは違う。10年で終わることはない」
つくば市で避難者同士の交流の場づくりに取り組む「元気つく場会(いい仲間つく浪会)」の共同代表・古場泉さん(65)が言葉に力を込める。避難者には、不安定な生活のなかで体調を崩す人も多くいる。
まるで世界が変わってしまった
泉さんとともに、会の共同代表を務める妻の容史子さん(65)も、避難生活の中で体調を崩した一人だ。現在も通院を続けており、制約のある生活を送っている。当初は不安定な生活の中で心のバランスも崩しかけた。震災後の10年を振り返り「まるで世界が変わってしまった」と話す。変化は体調だけではない。
「私にとって浪江の生活は、どこに行っても『こんにちは』って声掛け合う世界でした。それがいきなり知り合いの全くいない土地に。何も考えられなくなりました」
10年前、愛着ある自宅での、地域に根ざした生活が突然終わり、見知らぬ土地でのアパート暮らしが始まった。避難生活は、将来への不安と共に心身を圧迫した。周囲の人も同じだった。泉さんが振り返る。
「震災を経験してつくばに来た人たちは、すべての人がそうだったように『これからどうなるかわからない』という不安と孤独の中にいました」
それぞれのつながりは希薄だった
「元気つく場会」は毎月開催する茶話会「しゃべり場」と、レクリエーションなどを開催し、避難者同士の交流を図ってきた。2012年に発足し、現在は110人の会員がいる。きっかけは、容史子さんがつくば市内で偶然再会した浪江の知人から聞いた「みんなでお茶を飲んで、ざっくばらんに話せる場所が欲しい」という言葉だった。事実、先の見えない状況に心の拠り所を求める人は多かった。
当時のつくば市には福島からの避難者が500人以上が暮らしていた。市は避難者同士の交流の場として「交流サロン」を主催していた。そこでは、医療や福祉など生活に必要な情報提供や、弁護士による法律相談の場が設けられた。だが会が終わると参加者は長居せずにそれぞれ帰路に着くのが毎回だった。「避難者」といっても、互いに面識のない人がほとんどで、それぞれのつながりは希薄だったという。
こうした中、知人や家族に背中を押された古場さん夫妻は第一歩として、浪江出身の民謡歌手・原田直之さんのコンサートを企画した。紆余曲折ありながら開催にこぎ着けたイベントが、現在まで続く活動の始まりとなった。
骨を埋めるならこの町で
古場さん夫妻は1983年、泉さんの転勤で浪江にきた。夫婦共に福島県外の出身だ。当初は1、2年のつもりで住み始めたが、出産や仕事を通じて地域と縁が深まる中で、いつしか「骨を埋めるならこの町で」と思うようになる。
「人生の中で、最大限に近しい友人ができたのが浪江でした」と話すのは容史子さんだ。
看護師の資格を持つ容史子さんは、町や県の福祉関係の仕事に就き、子どもに本の読み聞かせをするなど地域の中に溶け込んだ。
泉さんも浪江を気に入った。「海も山も近いし、気候がいい。ゆったりしたところがいい」と話す。仕事に打ち込みつつ、ボーイスカウト指導者として地域の子どもたちと接していた。
「元気な若い人たちとバカやれるのが好きでした。一番の趣味でしたね」と振り返る。
「やりたいことをやれる充実した日々」。それが浪江の生活だった。
ついの住み家にしようと土地を求めたのは自然な流れだった。そこで出合った風景を、今も鮮やかに容史子さんは思い返す。
「家を建てる前に土地を見に行ったんです。そうしたら、目の前一面に広がる水田が風で波打つんですよ。緑の海ですよ。もう、『うわぁ』って感激しました。それから今度は秋ですよ。秋になったら黄金色の海です。もう、それがうれしくって」
浪江に暮らして28年が過ぎた。2人はここで穏やかな老後を迎えることを疑ってなかった。
もうこれで動かないで済む
震災後、混乱する福島を後にした古場さん夫妻は、つくばの大学に進学し市内で一人暮らしをする長男を頼った。3人で住むには手狭な部屋だった。その後、都度条件の合う部屋を求めて転居を繰り返す。容史子さんが体調を崩したのは、こうした不安定な暮らしの中でのことだった。
「わたしたち、これからどうして暮らせばいいんだろう」と心の中でつぶやいた。引っ越しは経済的、肉体的な負担だけでなく、精神をも侵食した。
震災から1年後、泉さんは勤務先企業のつくば工場に赴任が決まる。会を始めたのもこの時期だった。
「避難されてきた皆さんが大変な状況にある。支える場所は必要だ。こうしたときに、仕事や周囲との繋がりがある自分たちがやるのがいいと思いました」
その後2017年につくば市に家を得た。元通りではないが、失った安定をようやく取り戻し、心が軽くなったと、容史子さんは安堵した。
「それまで不安と閉塞感で夜眠れませんでした。でも、これでもう動かないで済む。そう思えて本当にほっとしました」
会での活動を通じて出会う人たちに容史子さんが感謝する。
「私は『会』をやることで、準備をしたり皆さんと交流させていただき、精神的に回復できたと思っています。みなさんには本当に感謝しています」
現在はつくば市で近所の保育園に赴き、泉さんがギターを奏で、容史子さんが絵本の読み聞かせをする。地域イベントにも参加し地元の人たちとも交流を深めている。
2021年で打ち切り
政府主催の追悼式は、震災から10年となる2021年で打ち切りとなる。だが、泉さんはこう言葉に力を込める。
「10年一区切りと言いますが、原発災害に関してそれは当てはまりません」
泉さんは、世間が震災に区切りを設けようとすることを疑問視する。高速道路の無料化もいつ打ち切られるかと心配する。警戒区域からの避難者は、元の居住地と避難先の最寄りの区間の高速料金が無料となっている。2012年にスタートしたこの制度はこれまで2度、期間が延長されてきた。現在公表されている期限は年度末の3月31日まで。その先の延長はまだはっきりしていない。
「私たちは浪江に家があります。お墓がある人もたくさんいます。浪江に行く必要がある。だから、高速無料化が自己負担になれば相当な負担になってしまい、行くことができない人が出てきます」
そう故郷との距離が広がることを懸念する。帰りたくないわけではない。帰れないのだ。容史子さんは自身の経験を踏まえこう話す。
「私は体を壊してしまい、通院が欠かせなくなりました。そのときに医療施設が整わない浪江にはもう戻れないと思いました」
体調面の不安から、やむなく避難先での生活を続ける人もいる。
泉さんは浪江への思いを大切に持ち続けている。
「つくばでの暮らしが安定し始めています。でも、私は浪江に戻る選択肢は残しておきたいと思っています。帰れるものなら帰りたいと思い生活してきました。私にとって浪江は、そのくらい大切な場所なのです」
震災から10年。しかし、震災と原発事故で避難した人にとってそれは区切りの時間ではない。(第1部終わり)