日曜日, 10月 11, 2026
ホームコラム《続・平熱日記》78 愛の不時着、我が家の着地点は…

《続・平熱日記》78 愛の不時着、我が家の着地点は…

【コラム・斉藤裕之】ステイホームは我々夫婦にとってはそう難しいことではない。普段の生活がほぼ自粛生活と言ってもいい。ところでカミさんはテレビ番組がつまらないと言うので、ずいぶん前から有線で海外ドラマや映画を見ていたのだが、最近は目新しいものがないということで、定額で映画やドラマが見放題というネット配信に加入した。

そしてついに見てしまった。今まで何となく敬遠していた「韓流ドラマ」、それもうわさの「愛の不時着」を。

どんなものかと、1話、2話と見てみた。まず竜巻で北朝鮮に飛んでいくという設定は「鴨捕り権兵衛」以来の衝撃だったが、このくらいのブットビ方でないと、とうてい38度線をまたいだドラマは進まない。しかし世間で騒がれるほどの面白さは感じない。と、友人曰く「3話までは我慢してみないとダメらしいよ」というわけで、3話、4話と見てみる。

なるほど、次の展開が気になる筋書きにはなってくる。が、軽すぎるというか、突っ込みどころ満載。しかし、かの国のリアルな現状をイメージしてはこのドラマは成立しない。次々訪れる「マジか?」の場面をスルーして、ただのメロドラマとして鑑賞すべし。

ところで今年は白菜が安い。高いと頭にくるが、安いのを喜んでひと玉を買うと、夫婦2人では持て余す冬の野菜である。先日も、冷蔵庫にはやっと半分食べた白菜があるというのに、夕方、かみさんは大きなひと玉を抱えて帰ってきた。聞けば、知り合いから安く引き取ってきたという。

さて、その日はおいしいパンが食べられるというカフェに。猫が気持ちよさそうに寝ている古民家を改装した店内。ランチが運ばれてくる間に、「これ」と言われてかみさんが差し出した雑誌。そのページには自家製のキムチの漬かった樽の写真が。これを漬けろ?とおっしゃる。

キムチは漬けるより買った方が楽?

実は大学院のときに、上野公園を見下ろす校舎の5階のアトリエをシェアしていたのは韓国からの留学生だった。当時の留学生といえば、国の威信を背負ってやって来たエリート。当然、お金持ちのご令嬢である。彼女の描くダークトーンの抽象的な絵と似て、ご本人もどこか神秘的な女性であったが、博士論文の提出間近ということで、あいさつ程度の会話しかしなかった。

ちょうどその年にカミさんが妊娠した。そのことを彼女に話すと、ある日トウガラシとレシピを手渡された。韓国では妊婦さんの滋養にキムチを食べさせるという。丁寧にお礼を言って、言われた通りキムチを漬けた。残念ながら、カミさんはひどいつわりのせいで食べられなかったと記憶しているが。

「外出自粛」「愛の不時着」「安い白菜」「自家製キムチ」。これが我が家の「冬の着地点」。韓流はもういいだろうと思っていたら、次にカミさんが見始めたのは「トッケビ」。はて、そんな名前の焼き肉屋があったが…。

自家製のキムチが出来上がるころには、楽しく外食ができる世の中になっていればいいが。というか、キムチは漬けるより買った方が楽かも。材料の手配から仕込みまで大仕事だスミダ。(画家)

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