【コラム・斉藤裕之】自分の絵が掛かっている以外何もないギャラリーでじっとしているのは正直耐えられない。しかし有難いことに、このギャラリーはカフェに併設されている。いつものカウンター席でコーヒーを飲みながら客人を待つことができる。
平熱日記展も終盤にさしかかったころ、「若い女性がいらしてますよ」とオーナーに耳打ちされた。はて、若い女性に知り合いはいない。なにせ、日ごろ付き合う女性はおおむね16歳以下か50歳以上なのだから。それでも、もしかしたら知り合いかもしれないと声をかけてみた。
やはりはじめてお目にかかる。聞けば、ご自身は日本画をお描きになるそうで、私の絵はネットで知ったとか。ほぼ娘と同じ年ごろで、電車に乗ってやってきたとのこと。絵についてご質問を受けたが、「肩の力が抜けていてとてもいいですね」と褒められた。「はあ、なにせ平熱日記というぐらいですから…」。
時を同じくして、もうひとりの女性が入ってきた。知り合いの絵描きさんだ。私が小さな絵を描くからだろうか、最近目が悪くなったという話になった。
「私なんかほぼぼんやりした世界で暮らしていますが、それはそれでいいと思っているんですよ」。事実、老眼のせいで新聞以外の文字は読まなくなったし、視力も多分衰えているので、若いころのように鮮明な世界にはいない。だから、たまに老眼鏡でテレビの画面に目をやると、映っている人の歯茎さえも鮮明に見えてドキッとしてしまう。
だが、実は見える世界だけではなく色んなことがぼんやりしていて、世間が私から遠ざかっていくようだ。
例えばテレビの中の人の名前もわからない。新聞の広告チラシもわが身にほとんど関係ない。野球やサッカーの勝敗も気にならないし、はやりの歌も右から左へ流れていく。実はそれが妙に心地よい。「老荘思想」ではないが、私の「老眼思考」である。
あっけらかんとした絵
私の故郷の絵描きさんで松田正平という人がいる。山口県の瀬戸内海に住まわれて、周防灘をテーマに絵を描かれ、ずいぶんと長生きをされた。お目にかかったことはなかったが、それこそ、これ以上力の抜けた絵を描く人がいるだろうかと思うほど達観した絵を描かれる。
あるとき、大学の尊敬する先生が松田正平さんの絵を褒められたのを覚えていて、私もいつかこのぐらいあっけらかんとした絵を描きたいと思ったことがある。
絵はある意味で、画家の眼を通した世界であるともいえる。その世界観を共有できたとき、つまりそれがリアリティというものだ。
「また発表されることがありましたらご案内ください」。そう言って若い女性は出て行った。「もちろんです」。われながら弾んだ声で答えてしまった。マスクをしていたということもあって、すでに彼女の顔はぼんやりとしか覚えていないが…。(画家)