日曜日, 3月 15, 2026
ホーム土浦《霞月楼コレクション》6 門井掬水 日本の情緒や風雅を体現する美人画

《霞月楼コレクション》6 門井掬水 日本の情緒や風雅を体現する美人画

芝居の一場面を描いたような屏風

【池田充雄】霞月楼にある門井掬水(かどい・きくすい)の屏風(びょうぶ)は謎の多い作品だ。右扇では若侍が花吹雪の中を歩み、左扇には女性が宴を楽しんでいるが、図柄は続いていない。また、本来は1隻に1つだけの落款が、左右2カ所に入っている。これらの点から、別々の屏風から人物だけを継ぎ合わせ、仕立て直したかと推察される。当初の形では、花見の場の出会いの景を描いていたのかもしれない。

題・制作年不詳 二曲一隻屏風 185×200cm 霞月楼所蔵

名実とも揺るがぬ清方の一番弟子

門井掬水は1886(明治19)年、鹿島郡札村(現鉾田市札)に生まれた。本名英。戸籍上の父は門井源左衛門だが実際は祖父にあたる。生家は「銭屋」の屋号で両替商や河岸問屋を営み、源左衛門は1889(明治22)年の町村制施行の際に白鳥村の初代村長も務めた。

門井掬水(大洋村史より転載)

幼くして実父母と共に上京し、1897(明治30)年頃、湯島天神前の切通坂に住む鏑木清方に入門。当時掬水は11歳で湯島小学校に在学中、清方は19歳だがすでに挿絵画家として父の経営する「やまと新聞」ほか数紙で活躍していた。後に「築地明石町」などの美人画で名を馳せる清方の、最初の弟子が掬水であった。

1900(明治33)年の連合絵画共進会に「燈下読書」で初入選し、1911(明治44)年の第11回巽画会展に「むろの花」で一等褒状。ほかに清方が挿絵画家仲間と結成した烏合会展や、清方の塾展である郷土会展などにも精力的に作品を発表した。

掬水は1906年(明治39)から数年間、日本橋浜町に転居した清方の玄関番を務めるが、この頃から清方の下には川瀬巴水、伊東深水、山川秀峰ら多くの門弟が集まるようになった。1915(大正4)年には「それぞれ巣立ちしたのちまでもふる里を忘れまい」との思いから郷土会が結成され、掬水が中心となって会の運営にも力を尽くした。

美人画のほかに新傾向の作品群も

帝展では1921(大正10)年の第3回展に「芽生」で初入選、以後第7回展の「黒胡蝶」、第9回展の「傀儡子」、第10回展の「七夕」と、いずれも師譲りの清麗な美人画で入選を重ねた。茨展では1923(大正12)年の第1回から出品し、第3回から無鑑査となった。

「黒胡蝶」1926年頃 絹本彩色 同名の帝展出品作とは姉妹作にあたる 坂東郷土館ミューズ(坂東市立資料館)所蔵

掬水の本道は伝統的な美人画だが、それ以外に、各地の情景や風俗などに材を得た作品も発表していた。特に異彩を放つのが伊豆諸島のシリーズだ。1937(昭和12)年に郷土会一行は大島へ写生旅行に出掛けた。1928(昭和3)年に野口雨情作詞の「波浮の港」が流行するなど、当時は大島ブームが到来していた。

旅行から戻った掬水は、同年の茨展で「島の娘」、郷土会の島巡遊絵画展で「椿の島」を発表。さらに勢いは続き、1940(昭和15)年の紀元二千六百年奉祝美術展に「夕浜」で、その翌年の第4回新文展に「神津島の女」で入選。島特有のあんこ姿の女性像には南方のユートピア的な雰囲気も漂う。

「夕浜」1940年 絹本彩色額装 185×226cm 紀元2600年奉祝美術展 茨城県近代美術館所蔵

続いて第5回新文展では「和具の海女」、第6回新文展では「船越の盂蘭盆」で入選を果たすが、これらは題からして三重県伊勢志摩地方の民俗文化を描いたものと思われる。

目黒雅叙園に今も残る掬水作品

1931(昭和6)年に目黒行人坂に創業した目黒雅叙園(現ホテル雅叙園東京)は、当時の一流画家らによる天井画、壁画、襖絵などが全室を埋め尽くし、その絢爛豪華たるさまは「昭和の竜宮城」と称された。また、昭和初期の帝展や文展などに出品された日本画作品を数多く買い集め、これらも館内の随所を飾った。

雅叙園の建設は1943(昭和18)年までの長期に及んだ。掬水も清方の指名により、1937年ごろ盛んに同園の依頼を受けて制作にあたっている。ほかに、展覧会に出品した中から買い上げられた作品も多かった。

当時の建物は後に老朽化が進み、1991(平成3)年の目黒川の拡張に伴う全面改装の際、ほとんどが取り壊された。旧館を彩った天井画や壁画などは、新館に移築復元した以外は額装保存され、収集品と共に目黒雅叙園美術館へ移された。だが2002(平成14)年の経営破綻で美術館は閉鎖され、作品群は散逸し、今では所在が不明になったものも多い。

旧館のうち1935(昭和10)年に建設された3号館だけは、「百段階段」の名で2009(平成21)年に東京都の有形文化財に指定され、「清方の間」「十畝の間」など7部屋が当時の姿のまま残された。また、ホテル雅叙園東京内の料亭・渡風亭には「掬水」の名を冠した一室があり、天井に彼の手による扇面型の美人画を見ることができる。

出展から退き一筆を楽しむ日々

掬水は1945(昭和20)年、空襲により牛込払方町の自宅を焼失し、静岡県の御殿場へ疎開した。1952(昭和27)年に葛飾区亀有五丁目に移ると、1976(昭和51)年に89歳で亡くなるまで、ここを終生の住まいとした。

戦後の活動は、1953(昭和28)の第9回日展に「朝涼」で入選、1957(昭和32)年に永田春水や浦田正夫らと茨城日展会を結成するが、その後は出品から遠ざかり、県展や県芸術祭の委嘱に応じる程度になった。当時の様子を清方は「昔の画人がそうであったように一筆を楽しむかに見える」と評している。

一方で私的な依頼には快く応じており、特に深川木場の木材問屋「長谷萬」の創業者・長谷川萬治とは懇意になり、しばしば制作依頼を受けたという。また亀有五丁目に近い長門町(現足立区中川)の旧家の人々は、掬水を囲む会を催し、その縁で彼の作品を多く残した。生家のあった鉾田市札でも、複数の個人宅に作品が伝わっている。

掬水の描く人物は表情が乏しくポーズも類型的と言われ、同門の深水が美人画を人物画へ高めようとしたのとは対照的だ。だが掬水は人物の個性や内面を描くよりも、古きよき日本の情緒や風雅を体現させる方を重視したのではないか。それは芸術家的な表現への欲求よりも、職人的な美への奉仕者たることを選んだであろう本人の姿とも重なる。

2016(平成28)年、江戸東京博物館の「大妖怪展」に掬水の「牡丹燈籠」が展示された。幽霊寺として知られる金性寺(福島県南相馬市)所蔵の一幅だが、美しすぎる幽霊画として観覧者の評判を呼んだ。

●取材協力・参考資料 茨城県近代美術館▽坂東郷土館ミューズ(坂東市立資料館)▽雑誌「萌春」275号(1978年4月、日本美術新報社発行)▽雑誌「常陽藝文」348号(2012年5月、常陽藝文センター発行)▽「茨城新聞」2012年6月18日付・6月21日付・6月25日付▽「足立史談」568号(2015年6月、足立区教育委員会発行)▽ホテル雅叙園東京ウェブサイト

シリーズ協賛 土浦ロータリークラブ 土浦中央ロータリークラブ

➡NEWSつくばが取材活動を継続するためには皆様のご支援が必要です。NEWSつくばの賛助会員になって活動を支援してください。詳しくはこちら

スポンサー
一誠商事
tlc
sekisho




spot_img

最近のコメント

最新記事

「真のプロフェッショナルに」つくば国際ペット専門学校で卒業式

185人が巣立つ つくば国際ペット専門学校(同市沼田、東郷治久理事長)の卒業式が14日、つくば市竹園、つくば国際会議場で催された。185人の卒業生を前に高橋仁校長は「皆さんが手にした卒業証書は、全国から注目を集める本校で実践教育を受けた証し。ペット業界の未来に貢献していく人材となった。次の目標に向かってがんばってほしい」とエールを送った。 東郷理事長は「動物に関する技能は教科書を読むだけでは決して身に付かない。優れた環境で勉強された皆さんは、真のプロフェッショナルになるための必要な愛情を身に付けたことと思う。ペット業界で必要とされるあらゆる技能を現場で集結できるはず」と卒業生に祝辞を述べた。 卒業生代表として答辞を述べたドッグトレーナーコースの河口青波(せいな)さんは「ライセンスを取得する時に、パートナーの犬に思うように指示が伝わらず、互いの心が通わないもどかしさで自分を責めたこともあった。しかし諦めずに粘り強く向き合い続けた結果、合格をいただけた時の達成感は今も鮮明に覚えている。つくば国際ペット専門学校の卒業生であることに誇りを持ち、これからも努力を忘れずに精進していくことを約束します」と語った。 式典では、訓練士などの公認資格を授与しているジャパンケネルクラブの藤田透専務理事が、トリマーB、C級、ハンドラーC級、愛犬飼育管理士の合格者にライセンスを授与したほか、ビジネス能力検定3級、愛玩動物看護士の表彰も行われた。 式典の最後に、在学中の思い出を振り返る映像が会場の大スクリーンに流されると、卒業生に向けて、参加した保護者や在校生らからも大きな拍手が起こった。教員らのメッセージも紹介された。 式典に出席した愛玩動物看護師コースの原香織さんは「やりたかったことが学べ、無事、国家試験も合格できたのでとても良かった」などと振り返った。動物病院に就職することが決まっているという。 同校は1997年にトリミングスクールとしてスタートし、県内初の動物分野の専門学校として2006年に開校した。現在「ドッグトリマー」「ドッグトレーナー」「ペットケア総合」「愛玩動物看護師」「動物看護福祉」の5コースのほか、22年4月に開設された日本初の通信制コース「通信制ペット学科(3年制)」に約450人が在籍する。授業中も放課後も生徒1人が1頭の子犬と共に生活する「パートナードッグシステム」が特色であるほか、学校の隣りにはグループ企業が運営する犬のテーマパーク「つくばわんわんランド」(同市沼田)があり、日頃から実習を積むことができる環境が整っている。(榎田智司)

土浦の花火100年の紡ぎ(3)功労者たち《見上げてごらん》50

【コラム・小泉裕司】今回は戦後の競技大会を牽引した功労者を取り上げたい。最初は、このコラムで何度も紹介した北島義一だが、その経歴は以下のようになる。 土浦創業の北島煙火 ▽1936年 霞ケ浦湖畔の岡本埋立地で「北島煙火店」として創業▽1945年 社名を「土浦火工株式会社」に変更▽1946年 全国に先駆け、中断されていた土浦の花火を復活▽戦後の競技大会化で強力なリーダシップを発揮▽1955~73年 北海道から中部地方まで広く事業を展開▽高度成長期の旺盛な需要に応え、各地の花火大会を受注▽両国(現・隅田川)の花火大会で開催された日本一決定戦で優勝▽輝かしい実績により「土浦の花火」の名声を全国的なものに 下妻の野手煙火 土浦全国花火競技大会が産声を上げたころ、土浦の花火文化を支えていた煙火業者がいたことをご存じだろうか? 1932年発行の『土浦商工會史』の業種別人名録「煙火の部」に唯一登録されているのは、田宿町(現大手町)の野手勝一氏。のちに野手煙火土浦支店を担う人物だ。 野手家は、下妻で明治中期から花火作りを学び、代々煙火業に携わってきた家系である。1933年に下妻町(現下妻市)に野手煙火工場を設立。1962年に社名を野手火工株式会社(社長・野手保)へと改めた。 歴史は古く、1926年に桜川畔で開催された第2回全国煙火共進會の打揚番組(写真)を見ると、「尺玉の部」に初代・野手喜一郎氏と二代目・勇治氏、「八寸玉の部」には勝一氏の名が刻まれている。 その後も、第54回、第55回大会で最高賞の通商産業大臣賞を連続受賞するなど、野手家はめざましい功績を残した。しかし、経営上の課題や後継者問題といった時代の荒波もあり、2013年、惜しまれつつも、その長い歴史に幕を下ろした。 土浦市は、1961年の第30回記念大会で、大会の発展に寄与した花火師として、北島氏らとともに勝一氏を表彰している。野手家は土浦の花火の草創期を支えた功労者であり、その歴史を語るうえで欠かすことのできないキーパーソンなのである。 北島の師匠、青木義作 大正末から第2次大戦にかけて、土浦や笠間をはじめ、全国各地で花火大会が大きな盛り上がりを見せた。このころは、のちに北島氏が師事する「花火の神様」青木儀作氏ら、花火史に名を残す名工たちが次々登場した時代でもあった。 しかし、1937年に日中戦争が勃発すると状況は一変する。火薬製造の取り締まりが厳しくなり、笠間、大曲、両国の大会など、大きな大会が次々と中止に追い込まれた。 こうした中、土浦市発行の「花火と土浦」の年表によれば、詳細は不明ながら、戦前の土浦では1940年まで開催されたと記録されている。これについて、筆者も当時の新聞記事などを調べたが、裏付けとなる事実は確認できていない。 戦火が激しくなると、細々と続けてきた花火も1941年には中止に追い込まれ、花火師たちも戦場へ駆り出されるなど、日本の花火史上、もっとも長く厳しい「失われた5年間」が訪れたのである。 「みんなが爆弾なんかつくらないで きれいな花火ばかりつくっていたら きっと戦争なんて起きなかったんだな」。花火を愛した放浪のちぎり絵作家・山下清画伯が残したこの名言を添え、本日はこれにて、打ち留めー。(花火鑑賞士、元土浦市副市長) <参考文献>「土浦商工会史」(土浦商工会事務所、1932年刊)「茨城の諸職」(茨城県教育委員会、1989年刊)「日本の花火のあゆみ」(武藤輝彦、あずさ書店、2000年刊)「大曲の花火 100年の魅力」(秋田魁新報社、2010年刊)「花火と土浦」(土浦市、2018年)

49年 市民が清掃活動 水戸街道の松並木守る 土浦

文化財愛護の会 土浦市東若松町にある市指定史跡「水戸街道松並木」で14日、市民団体「土浦市文化財愛護の会」による清掃活動が実施された。清掃活動は1977年の同会発足以来、49年間にわたって続いている。現在、旧水戸街道で松並木が残っているのは、この東若松町~板谷七丁目周辺だけ。 江戸時代から続く貴重な景観 水戸街道は、江戸時代初期の1604(慶長9)年、幕府により千住(東京都足立区)―水戸間の29里19町(約116km)が整備された。脇街道という位置付けで、東海道などのいわゆる5街道に次ぐ主要な街道だった。江戸時代の街道には、通行人を暑さ寒さから守るために松並木が整備されていた。 「ただし木自体はマツクイムシなどの被害により植え替えが進み、江戸時代のものはおそらく残っていない。それよりも、松並木の景観を守り伝えることこそが重要」と、愛護の会副会長の小林静さん(80)。 この日は会員約30人が参加し、プロテリアル金属(旧日立電線)入口から「板谷の一里塚」までの1キロメートルほどの範囲を手分けして清掃。午前9時から11時までで、90リットル入りのビニール袋70個分ほどの枯れ松葉を集めた。例年は100袋ほど集まるのでやや少な目だそうだ。袋は軽トラック3台に山積みにされて清掃センターへ運ばれた。 会員の一人、塙秀弥さん(23)は筑波大学の4年生で4月からは大学院に進む予定。学芸員の資格取得のため文化財について学んでおり、地域の文化財がどのように守られているか興味があって入会したという。「この並木道に来たのは初めてで、太い幹が残っているのを見て驚いた。普段は素通りしてしまうものに目を向けるきっかけにもなった。清掃活動は誰かがやらないと景観を損ねてしまう。やってよかったし、これからも参加していきたい」と感想を話した。 史跡の手入れやパトロールも 会員の一部は松並木の作業を終えた後、同市小高の高崎山古墳でも清掃作業をした。今年は一色家住宅(西真鍋町、国登録有形文化財)、鉄砲塚(都和一丁目、市史跡)、大岩田の一本松(通称・予科練の松)なども予定するほか、文化財パトロールも随時行っていく。以前は地主や地域の手で管理されていたものが、人手不足により行き届かなくなるケースが増えてきているという。 愛護の会の会員数は、各研究部会を合わせて250人ほどになるが、高齢化も進んでいることが悩み。もっと認知度を高め、会員を増やして活動を継続させていきたいと、市の産業祭や各中学校区の公民館祭りに参加し、地域の文化財を紹介するといったPR活動にも力を入れ始めている。(池田充雄) ◆活動は会員外の見学・参加も歓迎。問い合わせは土浦市文化財愛護の会事務局(上高津考古資料館・古橋さん、電話029-826-7111)へ。

お上の悪には善では勝てぬ《映画探偵団》98

【コラム・冠木新市】1969年、篠田正浩監督が近松門左衛門作の人形浄瑠璃「心中天網島」をモノクロで映像化し、キネマ旬報ベストワンを授賞、映画界の話題を独占した。そして1970年には、河竹黙阿弥作の歌舞伎「天衣粉上野初花」をべースにした寺山修司脚本の「無頼漢」(カラー)が公開された。 「無頼漢」は、闇に浮かぶ浮世絵師・絵金の絵を効果的なセットに使い、原色の衣装などで天保時代の江戸文化を再現し、華麗な世界を作りあげた。しかし、「心中天網島」に比べると観客の盛り上がリは今ひとつ起きなかった。 「無頼漢」公開1年後の4月23日、私は篠田監督にTVスタジオで偶然に出会い、話をすることができた。「心中天網島」よりも「無頼漢」が気に入っていると伝えると、「うれしいですね。無頼漢のよさ分かってくれるとは」と言って、胸ポケットから封筒を取り出し、英語の新聞記事を見せてくれた。 「これ、ニューヨ一クで当たっているんですよ。すごい褒め方だ」。そこで「篠田さん自身、心中と無頼漢、どちらが好きですか」と尋ねると、「無頼漢に決まってますよ」と言い切った。 虚構の世界で悪役が活躍する時代 「無頼漢」は、役者志望の遊び人・直次郎(仲代達矢)、妻と息子を亡くした暗闇の丑松、水野忠邦の体制を批判して追われる三文小僧、数寄屋坊主の河内山宗俊(丹波哲郎)、こわもて商人・森田屋清蔵、御家人くずれの金子市之丞、この6人の悪党がお上に対抗する物語である。 直次郎が主役で「芝居小屋の外で芝居をする役者になりたい」と言わせている。河内山宗俊は、上州屋の一人娘が奉公先の武家屋敷で殿様から妾になれと言われて困っていることを聞きつけ、二百両で助け舟を出す仕事を引き受ける。直次郎は侍にふんし、河内山と一緒に屋敷に向かう。つまり、芝居小屋の外で人助けの芝居をうつことになる。 だが後半は、河内山が目立ってくる。御知僧に化けた河内山の正体がばれ、武家屋敷の玄関先で侍に取り囲まれ、啖呵(たんか)を切る丹波哲郎が圧倒的によい。「ええ仰々しい、静かにしろ。悪につよきは善にもと、世のたとえにもいうとおり、親のなげきがふびんさに…」 当時、丹波哲郎の名調子を褒める評論は多かった。「お上の悪には善では勝てぬ」と、悪党・河内山の痛快さは魅力的だ。江戸でも現代でも、虚構の世界で悪役が活躍する時代とは、管理体制と秩序でがんじがらめとなり、自由を失った証しではなかろうか。 もし、つくば市でリバイバル上映するとしたら、人形浄瑠璃の「心中天網島」と歌舞伎の「無頼漢」どちらが受け入れられるだろうか? サイコドン ハ トコヤンサノセ。(脚本家) <物語観光講座「つくつくつくばの七不思議」のお知らせ>▽講演「つくば市章に隠された記号の謎」▽映画『サイコドン』上映とおしゃべり▽3月28日(土)13時半~15時半、カピオ小会議室2、参加費無料