月曜日, 4月 20, 2026
ホーム土浦《霞月楼コレクション》6 門井掬水 日本の情緒や風雅を体現する美人画

《霞月楼コレクション》6 門井掬水 日本の情緒や風雅を体現する美人画

芝居の一場面を描いたような屏風

【池田充雄】霞月楼にある門井掬水(かどい・きくすい)の屏風(びょうぶ)は謎の多い作品だ。右扇では若侍が花吹雪の中を歩み、左扇には女性が宴を楽しんでいるが、図柄は続いていない。また、本来は1隻に1つだけの落款が、左右2カ所に入っている。これらの点から、別々の屏風から人物だけを継ぎ合わせ、仕立て直したかと推察される。当初の形では、花見の場の出会いの景を描いていたのかもしれない。

題・制作年不詳 二曲一隻屏風 185×200cm 霞月楼所蔵

名実とも揺るがぬ清方の一番弟子

門井掬水は1886(明治19)年、鹿島郡札村(現鉾田市札)に生まれた。本名英。戸籍上の父は門井源左衛門だが実際は祖父にあたる。生家は「銭屋」の屋号で両替商や河岸問屋を営み、源左衛門は1889(明治22)年の町村制施行の際に白鳥村の初代村長も務めた。

門井掬水(大洋村史より転載)

幼くして実父母と共に上京し、1897(明治30)年頃、湯島天神前の切通坂に住む鏑木清方に入門。当時掬水は11歳で湯島小学校に在学中、清方は19歳だがすでに挿絵画家として父の経営する「やまと新聞」ほか数紙で活躍していた。後に「築地明石町」などの美人画で名を馳せる清方の、最初の弟子が掬水であった。

1900(明治33)年の連合絵画共進会に「燈下読書」で初入選し、1911(明治44)年の第11回巽画会展に「むろの花」で一等褒状。ほかに清方が挿絵画家仲間と結成した烏合会展や、清方の塾展である郷土会展などにも精力的に作品を発表した。

掬水は1906年(明治39)から数年間、日本橋浜町に転居した清方の玄関番を務めるが、この頃から清方の下には川瀬巴水、伊東深水、山川秀峰ら多くの門弟が集まるようになった。1915(大正4)年には「それぞれ巣立ちしたのちまでもふる里を忘れまい」との思いから郷土会が結成され、掬水が中心となって会の運営にも力を尽くした。

美人画のほかに新傾向の作品群も

帝展では1921(大正10)年の第3回展に「芽生」で初入選、以後第7回展の「黒胡蝶」、第9回展の「傀儡子」、第10回展の「七夕」と、いずれも師譲りの清麗な美人画で入選を重ねた。茨展では1923(大正12)年の第1回から出品し、第3回から無鑑査となった。

「黒胡蝶」1926年頃 絹本彩色 同名の帝展出品作とは姉妹作にあたる 坂東郷土館ミューズ(坂東市立資料館)所蔵

掬水の本道は伝統的な美人画だが、それ以外に、各地の情景や風俗などに材を得た作品も発表していた。特に異彩を放つのが伊豆諸島のシリーズだ。1937(昭和12)年に郷土会一行は大島へ写生旅行に出掛けた。1928(昭和3)年に野口雨情作詞の「波浮の港」が流行するなど、当時は大島ブームが到来していた。

旅行から戻った掬水は、同年の茨展で「島の娘」、郷土会の島巡遊絵画展で「椿の島」を発表。さらに勢いは続き、1940(昭和15)年の紀元二千六百年奉祝美術展に「夕浜」で、その翌年の第4回新文展に「神津島の女」で入選。島特有のあんこ姿の女性像には南方のユートピア的な雰囲気も漂う。

「夕浜」1940年 絹本彩色額装 185×226cm 紀元2600年奉祝美術展 茨城県近代美術館所蔵

続いて第5回新文展では「和具の海女」、第6回新文展では「船越の盂蘭盆」で入選を果たすが、これらは題からして三重県伊勢志摩地方の民俗文化を描いたものと思われる。

目黒雅叙園に今も残る掬水作品

1931(昭和6)年に目黒行人坂に創業した目黒雅叙園(現ホテル雅叙園東京)は、当時の一流画家らによる天井画、壁画、襖絵などが全室を埋め尽くし、その絢爛豪華たるさまは「昭和の竜宮城」と称された。また、昭和初期の帝展や文展などに出品された日本画作品を数多く買い集め、これらも館内の随所を飾った。

雅叙園の建設は1943(昭和18)年までの長期に及んだ。掬水も清方の指名により、1937年ごろ盛んに同園の依頼を受けて制作にあたっている。ほかに、展覧会に出品した中から買い上げられた作品も多かった。

当時の建物は後に老朽化が進み、1991(平成3)年の目黒川の拡張に伴う全面改装の際、ほとんどが取り壊された。旧館を彩った天井画や壁画などは、新館に移築復元した以外は額装保存され、収集品と共に目黒雅叙園美術館へ移された。だが2002(平成14)年の経営破綻で美術館は閉鎖され、作品群は散逸し、今では所在が不明になったものも多い。

旧館のうち1935(昭和10)年に建設された3号館だけは、「百段階段」の名で2009(平成21)年に東京都の有形文化財に指定され、「清方の間」「十畝の間」など7部屋が当時の姿のまま残された。また、ホテル雅叙園東京内の料亭・渡風亭には「掬水」の名を冠した一室があり、天井に彼の手による扇面型の美人画を見ることができる。

出展から退き一筆を楽しむ日々

掬水は1945(昭和20)年、空襲により牛込払方町の自宅を焼失し、静岡県の御殿場へ疎開した。1952(昭和27)年に葛飾区亀有五丁目に移ると、1976(昭和51)年に89歳で亡くなるまで、ここを終生の住まいとした。

戦後の活動は、1953(昭和28)の第9回日展に「朝涼」で入選、1957(昭和32)年に永田春水や浦田正夫らと茨城日展会を結成するが、その後は出品から遠ざかり、県展や県芸術祭の委嘱に応じる程度になった。当時の様子を清方は「昔の画人がそうであったように一筆を楽しむかに見える」と評している。

一方で私的な依頼には快く応じており、特に深川木場の木材問屋「長谷萬」の創業者・長谷川萬治とは懇意になり、しばしば制作依頼を受けたという。また亀有五丁目に近い長門町(現足立区中川)の旧家の人々は、掬水を囲む会を催し、その縁で彼の作品を多く残した。生家のあった鉾田市札でも、複数の個人宅に作品が伝わっている。

掬水の描く人物は表情が乏しくポーズも類型的と言われ、同門の深水が美人画を人物画へ高めようとしたのとは対照的だ。だが掬水は人物の個性や内面を描くよりも、古きよき日本の情緒や風雅を体現させる方を重視したのではないか。それは芸術家的な表現への欲求よりも、職人的な美への奉仕者たることを選んだであろう本人の姿とも重なる。

2016(平成28)年、江戸東京博物館の「大妖怪展」に掬水の「牡丹燈籠」が展示された。幽霊寺として知られる金性寺(福島県南相馬市)所蔵の一幅だが、美しすぎる幽霊画として観覧者の評判を呼んだ。

●取材協力・参考資料 茨城県近代美術館▽坂東郷土館ミューズ(坂東市立資料館)▽雑誌「萌春」275号(1978年4月、日本美術新報社発行)▽雑誌「常陽藝文」348号(2012年5月、常陽藝文センター発行)▽「茨城新聞」2012年6月18日付・6月21日付・6月25日付▽「足立史談」568号(2015年6月、足立区教育委員会発行)▽ホテル雅叙園東京ウェブサイト

シリーズ協賛 土浦ロータリークラブ 土浦中央ロータリークラブ

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絶滅危惧種のアイドル サクラソウ展始まる 筑波実験植物園

筑波大コレクション100品種以上展示 100品種余りのサクラソウの園芸品種が並ぶ企画展「さくらそう品種展」が18日、つくば市天久保、国立科学博物館 筑波実験植物園(遊川知久園長)で始まった。筑波大学が保有する約300品種の中から、見頃を迎えた株を順次入れ替えて展示する。環境の変化などから野生種の個体数が減少しているサクラソウは、「一見地味にも見えるが、よく見ると可愛らしく、絶滅危惧種植物のアイドルとも言われる。古くから日本人の身近にあった植物でもあり、人々の暮らしから生まれた多様な園芸品種を見てもらえたら」と、企画に携わる筑波大つくば機能植物イノベーション研究センター准教授の吉岡洋輔さん(47)は話す。26日まで。約20年前に始まったこの企画には、毎年およそ5000人が訪れる。 江戸の庶民文化を知る 展示会場では、上部や背面をすだれで囲んだ3段から4段の木製縁台に、鉢植えのサクラソウが並べられる。江戸時代に観賞用に用いられた「桜草花壇(さくらそうかだん)」を再現したものだ。当時の文献や図面をもとに、上段には下向きの花、下段には上向きの花を置くなど、見る人の目線を意識した配置がなされている。すだれの隙間から差し込む光も含め、花壇全体で空間を演出する手法だ。 サクラソウは、種子とともに地下茎でも増える多年生植物で、自分の花粉では受粉せず、昆虫が運んだ異なるタイプの花粉によって受粉・受精するのが特徴だ。近年は環境の変化などにより野生種の個体数が減少し、準絶滅危惧種に指定されている。 ルーツは1種の野生種 日本では古くから園芸用として栽培され、現在確認されている園芸品種は300種以上にのぼる。その多くを筑波大が遺伝資源の保存を目的に保有している。同大での園芸品種の研究は、2003年に埼玉県の園芸試験場から約200品種の寄贈を受けたことを契機に本格化した。それ以前は野生種の研究が中心だったが、園芸品種の多様性に注目が集まり、研究対象が広がった。 栽培の歴史は1440年代、室町中期に始まった。当初は野山の花を持ち帰って育てていたものが、やがて公家や武家、僧侶へと広がり、江戸時代には庶民文化として定着した。 国内に現存する300種以上の園芸品種のルーツをたどると、江戸時代に江戸郊外の荒川流域に咲いていた1種の野生種に行き着くことが、DNA研究から分かっている。その後、生育環境によって色や形などにわずかな違いが出て、その差異に着目して人々が選抜と栽培を重ねた結果、数百年をかけて多様な品種が生まれた。花の色は白から赤が中心だが、花びらの形や咲き方は多彩で、ギザギザの縁を持つ「錦鶏鳥」や、下向きの花をつける「白滝」、縁が白く色づく現存する最古の園芸品種「南京小桜」など、野生ではあまり見られない特徴を持つ品種も多い。 江戸郊外の荒川流域に園芸品種のルーツがあるのは、庶民の暮らしとの近さを示しているという。吉岡さんは「こうした多様性は、人が珍しさを求めて選び続けた結果ともいえる。江戸時代には庶民の間でも栽培が広まり、特に後期には品種改良が盛んになり、多様性が飛躍的に拡大した」と話す。 温暖化、10日早い開花 サクラソウは、種子だけでなく地下茎で繁殖するため、環境が整えば広がりやすい特性を持つ。また、林内から河川敷まで幅広い環境に適応する能力も高い。しかし近年は気候変動などの影響も指摘され、今年は暖冬の影響で開花が例年より約10日早まった。企画を担当する同博物館植物研究部多様性解析・保全グループ研究主幹の田中法生さんは、今後は展示時期の見直しが必要になる可能性もあると話す。 一方、野生種の保全が課題となっている。かつては関東各地に自生地が広がっていたが、多くはすでに失われた。埼玉県の田島ケ原は現在も残る貴重な自生地で、天然記念物に指定されている。野生種の個体数が減少する中、筑波大学では市民と協力して品種を守る「里親制度」を市内のNPO法人とともに2005年に立ち上げ、遺伝資源の保全にも取り組んでいる。 田中さんは「来園者に人気投票を行ったところ、濃い紫色の『天晴(あっぱれ)』や、桃色の『美女の舞』などが上位に挙げられた。サクラソウの面白さは、小さな違いに目を向けて増やしてきた歴史にある。花の大きさや色だけでなく、それぞれの個性を楽しみ、自分のお気に入りを見つけてほしい」と話す。(柴田大輔) ◆コレクション特別公開「さくらそう品種展」は18日(土)~26日(日)、つくば市天久保4-1-1 国立科学博物館 筑波実験植物園で開催。開館時間は平日は午前9時~午後4時30分(入園は午後4時)、土日曜は午前9時~午後5時(入園は午後4時30分)。20日(月)は休館。入園料は一般320円。高校生以下と65歳以上、障害者などは無料。19日(日)は無料入園日。 ◆第1会場の教育等では、「さくらそうを知る」と題した、サクラソウに関する歴史や栽培方法を紹介するパネル展が開かれ、「さくらそう里親の会」が増殖したさくらそう品種の販売会が開かれる。25日(土)には、「植物園研究最前線 シコクカッコウソウ遺伝子資源から見えてきた花の色の多様性」と題する講座が、午後1時30分から開かれる。定員は30人。事前予約制。