水曜日, 3月 4, 2026
ホーム土浦【語り継ぐ 戦後75年】② 北海道発「土浦からの便り」を届ける

【語り継ぐ 戦後75年】② 北海道発「土浦からの便り」を届ける

【相澤冬樹】松岡義和著「土浦からの便り」という本がある。サブタイトルは「北見出身海軍予科練習生の記録」、1992年に北海道の郷土出版社、北見叢書から刊行になった。土浦市立図書館に照会すると蔵書になく、県立はじめ県内の図書館を検索できるレファレンスサービスでも所蔵を確認できなかった。ネット経由で取り寄せると共に、著者の健在を聞いて、北海道北見市に松岡義和さん(82)を訪ねた。

七つボタンの下は傷だらけ

著作にいう「土浦」は、土浦海軍航空隊、いわゆる「予科練」のこと。1939(昭和14)年、阿見町青宿の霞ケ浦畔に設置され、全国から志願してきた14歳半から17歳までの少年を試験で選抜し、搭乗員としての基礎訓練をした。戦争末期には神風特別攻撃隊(特攻)の主力となった。予科練出身の戦没者は1万8564人を数える。基地は現在、陸上自衛隊土浦駐屯地(武器学校)になっている。

「便り」は、1943年6月に15歳で海軍予科練習生(甲種12期)として入隊、45年4月28日に沖縄戦で特攻死した竹村久志が、北海道訓子府町(くんねっぷちょう)の実家に書き送った25通の軍事郵便と2通の遺書に基づいている。配属された名古屋海軍航空隊で書かれたものや、出撃基地となった鹿児島国分第二基地で書かれたものも含まれるが、「北海道では予科練といえば土浦が代名詞、逆に土浦といえば今も予科練以外のイメージは浮かばない」と松岡さん。同じ時期、北見地方から入隊した予科練生数人の足跡も追っている。

現在、北見市で私設の絵本美術館を運営している松岡さんは名寄短期大学の元学長、劇作家や画家の肩書もある。竹村はその叔父に当たる。松岡さんの母親の実家が竹村家で、12人の兄弟姉妹の長姉、久志が末弟だった。

竹村家に男子は4人いたが、長男(茂)はビルマ、2男(信雄)は北支、3男(実)はシンガポールに出征しており、4男(久志)が軍人になるには志願する以外になかった。家業の雑貨店は戦時中、母親のツタ(1974年没)、妹の佐津子ら残った女性たちで細々と維持していたが、やがて売る品もなく廃業した。兄3人は戦後復員している。

松岡さんは、年齢が10歳しか離れていない叔父の久志を兄のように慕った。1944年1月、ふるさと訓子府に最後に帰省した日のことを、国民学校1年生だった松岡さんは今も克明に覚えている。七つボタンのりりしい制服姿を見に、雑貨店の店先には人だかりができたという。

名指しされ、得意になって一緒に風呂に入ったが、流した背中は傷だらけだった。海軍精神棒、通称「バッター」による罰打をはじめとする過酷な訓練(制裁)による傷跡は、自身の母親には到底見せられない姿だったのだ。

執筆に当たって松岡さんは、土浦に2度足を運んだ。竹村久志が「下宿」とよんで、休日にあそばせてもらった布川屋(土浦市川口)を探しあてたりしている。焼き鳥店の若主人から「裏の長屋のおばさんが予科練の若者を世話していた」という話を聞くことが出来た。おばさんは他界していたが、姓は松井か吉井だったという。

後列右から2人目が竹村久志。北見中学時代の友人と=同書から(渡辺清氏提供)

2通の遺書の意味

竹村久志は2度特攻出撃をしている。一度目の出撃のとき、どこの島かは記されていないが不時着し、島民に救助されて一度は帰還したと軍事郵便の中にある。搭乗したのは九九式艦上爆撃機。複座に操縦と偵察の要員2人が乗ったが、戦争末期には機体を軽くするため偵察関係の機器類はすべて取り外されていた。「久志は偵察要員だったから、やれる仕事がほとんどない。どんな気持ちで片道燃料の飛行機に乗ったのか」と2通の遺書を読み返す。

前略 色々お世話になりました。愈々(いよいよ)これが最後です。お母さん皆様お元気で。白木の箱が届いたならば、たいした手柄はたてないが泣かずにほめて下さい。
桜の散る頃に散るのは本望です。遺品は皆下宿にあります。ひまの時に取りにきて下さい。挙母(ころも、現在の愛知県豊田市の町名)に来たら下宿と愛知さんのお母さんの所まで行って下さい。
佐津子も体に気を付けろ、皆様お元気で、さようなら。
 国分航空基地にて 久志より

故郷のお母さんへ
整列の声がきこえます。今出ます。出撃だ! スクヤケ

松岡さんは出版後も、2通の遺書にこだわり続けた。1通は万年筆でしっかりとした楷書で書かれていたが、もう1通はざら紙に鉛筆の走り書きで、文も短く、左端に「スクヤケ」と書かれていた。「スクヤケ」は「すぐ焼け」のことだと推察したが、なぜ焼かなければならないのか、すぐには理解出来なかった。

後に特攻隊に関する書籍、記録文献、報道番組などによって、鹿児島県内の特攻隊基地のうち、陸軍は知覧から、海軍は鹿屋と国分から、それぞれ出撃したと知る。陸軍では、機体のエンジン不調や敵艦隊を発見出来ず不時着した生存者は、知覧近郊の「寺」に収容され2度と出撃することはなかった。死んだ者として、敗戦の日まで寺で写経などをして生き残ったと聞かされた。

ところが、海軍特攻隊は一度遺書を書いた者は、戦死者として2度と遺書を書くことを許さなかったと松岡さんは断じる。だから、2度目の出撃の時は隠れて鉛筆で走り書きをして、戦友か見送りの婦人会の人に頼んでふるさとへ送られてきた。それが「スクヤケ」の意味だと解せた。

自身が関わる北見叢書はことし結成30周年。叢書は18集まで数え、うち4冊が戦争をテーマにしている。しかし、ここ数年刊行が止まっている。松岡さんは「もう久志の話は書き足すことがあまりない。戦争については、あの時代の関係者や話を伝え聞いた縁者まで多くが亡くなってしまった」と残念がった。

取材後、松岡さんから郵便が届いた。新書判の「土浦からの便り」が同封されていて、「土浦の図書館に届けてほしい」旨信書が入っていた。土浦市立図書館に持参したが、扱いがどうなったか返事はない。

➡NEWSつくばが取材活動を継続するためには皆様のご支援が必要です。NEWSつくばの賛助会員になって活動を支援してください。詳しくはこちら

1コメント

1 Comment
フィードバック
すべてのコメントを見る
スポンサー
一誠商事
tlc
sekisho




spot_img

最近のコメント

最新記事

半世紀の集大成 光を描く水彩画家 中野瑞枝さん回顧展 つくば美術館

土浦市在住の水彩画家、中野瑞枝さんの回顧展が3日、つくば市吾妻の県つくば美術館で始まった。画家として歩んだ50年余りの集大成として、過去25年間に描いた作品を中心に180点余りを展示している。 北海道や東北の農村、ドイツやスイスの風景から、茨城県内の身近な自然まで。一貫して追い求めてきたのは光だ。「光はどこにでもある。光が全ての事物を美しく見せてくれる。なるべく身近なものを描いていきたい」と語る。 回顧展は、以前にも開催を考えたことがあったが、「まだ早い」と踏みとどまった。だが体の衰えと進行性の病気が重なり、「今やらないともうできない」と決断した。8日まで。 「白」に命を宿す 中野さんの描く光は、水彩紙の白そのものだ。「水彩画の白は、色を乗せない。周囲に塗り重ねた色が、白を浮かび上がらせる」という。描きたい光をあえて描かずに、周辺の影や背景を塗り重ねることでモチーフを際立たせる、透明水彩の技法「ネガティブペインティング」を駆使する。 「あの木を見てください」と中野さんが指差す絵には、斜めから射す陽光に輪郭が照らされる3本の白樺の木がある。幹の光る部分を紙のどこに置くか、描き始めたら動かすことはできない。「塗ったら白は終わり。どこに光を残すか、描き始める前に決めなければいけない。描いてしまったら、波も雲もピカッと光らない」。緊張感の中で、光に命を宿していく。 会場入り口正面に置かれた作品「帰り道」は、山形県西村山郡の岩根沢をモデルにした風景画だ。刈り取りを終えた田んぼに沿う小道が画面の奥へと緩やかに伸び、柔らかい穂をつけたススキが土手を覆う。夕日に染まる雲が一面を赤く包む。車移動を重ねながら「心に響く光」を求めて旅した北海道・東北の景色や、スイスやドイツで出合った風景も並ぶ。 一方で、暮らしに近い場所にある風景にも眼を向ける。豊かな緑に囲まれる湿地と森の奥にのぞく階段、広い敷地に咲き誇る桜の木々は、つくば市の自然公園「高崎自然の森」だ。「桜なんて、以前は描く気はなかった。でも教室を始めて生徒たちと行ってみると、やっぱりきれいで、この世界がやっぱりすごくきれいに見えるんです」と笑みを浮かべる。ほかにも、つくばみらい市の小貝川沿いにある「福岡堰」、牛久市岡見町の「上池親水公園せせらぎの里」など、地域住民に馴染み深い場所の絵が並ぶ。 けがが開いた絵への扉 東京 伊豆大島で生まれた中野さんは、幼少期から自然に親しみ、高校時代はアルピニストを夢見た。「リュックの中にいろんなものを詰めて、お弁当を入れればパッと山へ行けるようにしていた。明日学校で試験だと言っても山へ行っちゃう、そんな人間だった」。そんな高校時代にアキレス腱の断裂を経験、さらに治療中の感染症が重なり、登山を断念することになった。「山登りしたかった子がそうなったんだから、人生絶望状態でした」と振り返る。 大学卒業後、20代半ばに「元々関心があった」絵画を始めた。芸大を目指す高校生たちとともに美術学校で腕を磨き、「やり始めたらすごく面白かった。一度も描くのが嫌だと思ったことはない」。 わが子が幼い頃は、1日1万枚を目指して毎日子どもを描いていた。1990年に初めて開いた展覧会を30年以上に渡り毎年開催し続けてきた。 「お裾分けできれば」 けがによって限られた選択肢の中で手にしたのが「絵を描くこと」だった。しかし、いつの間にか絵のない生活はありえないほどに人生そのものとなっていた。「絵を描くことで私はプレゼントをいっぱいもらった。絵そのものも頂き物、人との出会いもそう」 「(病により)1週間前にできたことが今日できないこともある。でも、そう生きている人は山ほどいる。老いや病は誰もが通る道。かわいそうだという見方はすごく嫌なこと。そこにフォーカスするより、私が絵を通して頂いてきたものをお裾分けできればいい。そんな思い」と静かに話す。 16年前、牛久市に転居したのを機に始めた絵画教室は、土浦に引越した現在も、つくば市内で月2回続けており、現在約10人の生徒が学ぶ。 「自分が培ってきた技術や、いろいろなものをできるだけ人に伝えていきたいと思うし、絵を通して人と関わることによって、与えたり与えられたりすればいいと思っている」と話し、「高校時代、足のけがで山に登れなくなったのは、今は本当に良かったと思っている。あのまま突き進んでいたら、雪山で命の保証はなかった。けがで命拾いをして、絵を描き始めた」。時間はかかったが、そう思えるようになったと微笑んだ。(柴田大輔) ◆「中野瑞枝水彩画回顧展」は、つくば市吾妻2-8 県つくば美術館で3月3日(火)~8日(日)まで開催。開館時間は午前9時30分~午後5時(入場は午後4時30分、最終日は午後3時まで)。入場無料。詳しくは県つくば美術館ホームページ内の展示会情報へ。

「普通」だけに頼る危うさ《続・気軽にSOS》170

【コラム・浅井和幸】寒い日に寒いと言う。普通ですね。暑い日に暑いと言う。普通ですね。嫌なことを忘れたいと思う。普通ですね。好ましくない状況を解決したい、好ましい状況にしたいと考える。やっぱり普通ですね。 寒い日や暑い日にエアコンをつけて快適な室温にする。解決できますね。室温が低いから寒いと感じる。間違っていません。だから、エアコンで室温を上げれば解決する。外気が低いとか冬だからとか文句を言っていても、暖かくはなりません。文句を言えば、誰かがエアコンをつけてくれるかもしれませんが…。 寒い時に体が震えますね。あれは筋肉を震わせて体温を上げる反射だそうです。寒い日に運動をすれば体が温まり、寒いと感じないどころか、暑いと感じることもあるでしょう。寒いと感じるのは、体が冷えていることの方が本質に近いかもしれません。 部屋にいる状況で、外気が寒くても部屋が暖かければ寒いと感じない。部屋にいる状況で、部屋が寒くても体温が高ければ寒いと感じない。どちらも正しく普通だと思います。寒さを解決するには、エアコンをつけてもよいし、運動をしてもよいし…、他にもたくさんの解決法がありそうです。 嫌なことを忘れる方法 さて、嫌なことを忘れるにはどうすればよいでしょう。人には、忘れようと意識して忘れるという機能はないそうです。嫌な奴や出来事を忘れようと意識するほど、長い時間考えるほど、その意識か強く記憶に刻まれ、嫌な気持ちは大きくなり、よろしくない状況が起きそうです。 嫌なことは忘れようとすると、逆に嫌な気分が強くなることもあります。普通ということがいつも正しく、よいものではなさそうです。嫌なことを忘れる、いくつか方法がありますので、いくつか挙げておきます。これらがあなたの「新しい普通」になることを願いながら、詳しくは、機会に取り上げたいと思います。 (1) 嫌なことが思い浮かんでも、そのまま放っておき、別のことを行う。 (2) 嫌なことに少し近づき、思ったよりも嫌なことが起こらない体験をする。 (3) 身体的なリラックス方法を試してみて、呼吸をゆっくり行ってみる。 (4) 嫌なことを味方と思える人と共有して、安心できる時間や空間をつくる。 (5) 嫌なことを乗り越える対応策に悩み、計画を立て実行する。 (精神保健福祉士)

電子看板のガイドラインを策定 土浦市 県内初 光・動き・音に指針

良好な景観と交通安全確保へ 街中で、LEDビジョンなどを用いて広告などを流す電子看板「デジタルサイネージ」の設置件数が増加する中、良好な景観を維持し交通安全を確保しようと、土浦市は2日、屋外などのデジタルサイネージの表示に関するガイドラインを県内で初めて策定した。 デジタルサイネージに特有の光のまぶしさ、映像の動き、音の大きさなどについての指針を示すもので、市内を、にぎわいを創出するエリア、自然と歴史のあるエリアなど4つに分け、エリアごとにそれぞれの指針を示している。デジタルサイネージは、人の視線や注意を特に引きつけるなどの特性があることから、景観維持のほか、ドライバーや歩行者の不注意による交通事故を誘発するのを防ぐことが目的。 具体的には ①夜間の光の明るさは、原則として1平方メートルあたり400カンデラ以下(スマートフォンを暗闇で光らせたくらい)とする ②光が夜空に拡散しないようひさしなどを付ける ③色や模様は、うずまき模様や細かい縞模様などは見る人に錯覚などを引き起こすことがあり好ましくない ④動きは、極端な点滅、高速で動く、クイズ形式などは、ドライバーに幻惑を誘発し交通事故を誘発する恐れがあるため避ける ⑤設置位置は信号機と重ならないようにする ⑥霞ケ浦や河川の水面に反射しないよう配慮する ⑦音は、駅前などにぎわいを創出するエリア以外は音を出さないーなど。 市内を駅前などにぎわいを創出するエリア、幹線道路沿いや工業団地などのエリア、霞ケ浦湖畔や筑波山麓エリア、落ち着きのある旧城下町エリアの4つに分け、それぞれエリアに応じた指針を示している。旧城下町エリアについては屋外広告物条例で設置そのものを禁止している。 これまで同市は市景観計画や屋外広告物条例で屋外広告物の大きさや設置位置などを規制してきた。現在、市内には17基のデジタルサイネージが設置されており、これまで市民から「まぶし過ぎる」などの意見が計5件、市に寄せられ、市はその都度、設置事業者に連絡などしてきた。今回のガイドラン策定を機に、17基の事業者のほか、新たに設置を計画している事業者にも周知を図っていきたいとしている。ただし強制力や罰則はない。 同様のガイドラインは全国で、さいたま市、千葉県柏市、名古屋市、大阪市などがすでに策定している。同市の特徴として、夜間の光の明るさについて、近くに別の光源などがある場合は一部、明るさの基準を緩和している。大学の研究結果などを取り入れた緩和で、全国初という。

「うつろ舟」享和3年 常陸国に漂着《ふるほんや見聞記》14

【コラム・岡田富朗】皇居向かいに位置する国立公文書館では2月28日から3月13日までの期間、所蔵されている『弘賢随筆』(ひろかたずいひつ)の原本から、「うつろ舟」が描かれている箇所(上の写真)が展示されています。「うつろ舟」の形は現代の人が見ると空飛ぶ円盤のようにも見えますが、江戸時代後期の1803(享和3)年2月22日、常陸国に漂着したとされる舟です。 漂着したのは、現在の茨城県神栖市波崎舎利浜(しゃりはま)ではないかと言われています。『弘賢随筆』は、幕臣で蔵書家としても知られる屋代弘賢(やしろひろかた、1758~1841)の手もとにあった雑稿を取りまとめ、不思議な出来事や変わった噂(うわさ)などが数多く収録されています。 55年前設置された国立公文書館 国立公文書館は、「公文書等の保存、閲覧・展示などへの利用、公文書の調査研究を行う機関」として、1971(昭和46)年7月に設置されました。今日では、公文書館は図書館・博物館とともに、文化施設を支える三本の柱の一つとなっています。 館内入口の展示スペースでは、常設展示に加え、1~2カ月ごとにテーマを変えた企画展や特別展が実施されています。常設展示では複製資料を展示していますが、期間限定で貴重な資料の原本が並ぶこともあります。 国立公文書館の設置に際し、その重要な一部門となった内閣文庫は、1873(明治6)年に太政官に置かれた図書掛に始まり、1885(同18)年の内閣制度創始と同時に内閣文庫となりました。以来、和漢の古典籍・古文書を所蔵する我が国屈指の専門図書館として、内外の研究者に親しまれてきました。 所蔵品のうち、日本の資料で最も古いものとしては、東大寺文書に含まれる908(延喜8)年の文書があるそうです。 1998(平成10)年7月には、筑波研究学園都市内に、つくば分館を設置し、書庫などの拡充を行いました。現在、175万冊が所蔵されており、うち50万冊が内閣文庫、125万冊が行政機関などから移管された公文書です。 3~5月に昭和100年記念特別展 データ化が進んでいるものの、毎年行政機関から4~5万冊の公文書を受け入れており、永久保存していく資料であるため、蔵書は増加の一途をたどっているそうです。そのため、既存施設の書庫が近年中に満架となる見込みであることを踏まえ、2029(令和11)年度末には、新館の開館を予定しています。新たな国立公文書館は、新たな憲政記念館と合築で整備され、展示スペースも広くなるそうです。 「公文書は保存するだけではなく、利用していただくことにも意味があるので、より多くの方に公文書館を訪れていただきたい」と、総務課広報の新井さんは話してくれました。「うつろ舟」展示終了後、3月20日~5月24日までは、昭和100年記念特別展「昭和の日本人とフロンティア―南極・深海・宇宙への挑戦―」が開催されます。(ブックセンター・キャンパス店主)