【コラム・小野村哲】その子を知らずして、良い支援などできるはずがありません。しかし、その子が今「どのあたりにいるのか」「何が上手にできて、何に、なぜ、どの程度の難しさを感じているのか」など、理解することはとても困難です。
アメリカの教育哲学者デューイは「教育は、子どもの能力や興味、習慣を見抜く、心理学的洞察をもって始められなければならない」と言っています。
大学生だった私は、「子どもたちをよく見なさい」というだけのことだと思っていました。しかしそれから20数年後、あらためて読み返してみると、私は「わかったつもり」でいた自分に気がつかされました。
デューイは「能力」「興味」「習慣」を見抜く「心理学的洞察」から始めよと言いますが、「能力:capacities」「興味:interests」「習慣:habits」とは具体的に何を指しているのでしょうか? 辞書にhabitは「くせ、習慣」などとありますが、「習慣を見抜け」とはどういうことなのでしょう?
habitはhaveと同じ語源から生まれた語で、ここでのhabitは「あとから身につけたもの」とでも理解すべきかと思います。具体的には、学ぶことに得意意識をもっているのか、それとも苦手意識を身につけているのかなどがあげられます。
仮に英語学習の場面であるなら、英語に近いフランス語を母語としているのか、それとも言語間距離が遠い日本語を身につけているのか、なども考えられるかと思います。
わからないからこそかたわらに寄り添う
英語教材のキャッチコピーに、「赤ちゃんは文法を勉強しません」というフレーズが使われていましたが、だからといって高校生や成人学習者に「赤ちゃんと同じ方法で英語を勉強しなさい」とするのは明らかに矛盾しています。これなどは、学習者のhabitを軽視した典型的な例として挙げられるでしょう。
英語ネイティブはこうしているから、日本語ネイティブも同じようにすればよいという発想は短絡的に過ぎます。けれど多くの人は、capacitiesもinterests、habitsも辞書を調べて、日本語に訳したら、それで「わかったつもり」になっています。これはまさに、現在の英語教育の問題点でもあります。
だからといって、「わからない」では何も始められない、ということもあるかと思います。しかし、「わかったつもり」になってしまっているのと、「わからないから、少しでもよく理解できるように、よりよく見よう」とするのとでは、結果に大きな差が生じるであろうことは言うまでもありません。
わかったつもりでいれば、見る姿勢からして損なわれてしまいます。わからないからこそかたわらに寄り添う。その心と姿勢こそが信頼を深め、子どもたちと支援者双方にとって意義ある学びを可能にするのではないでしょうか。(つくば市教育委員)