木曜日, 5月 8, 2025
プロモーション
ホーム土浦新図書館のバリアフリー度を検証 電動車いすの今福義明さん 「市のセールスポイントになる」

新図書館のバリアフリー度を検証 電動車いすの今福義明さん 「市のセールスポイントになる」

市立図書館と市民ギャラリーを併設したアルカス土浦が27日、土浦駅西口前にオープンした。同日、市バリアフリー推進協議会委員を務める電動車いすの今福義明さん(58)と館内を回り、バリアフリー度をチェックした。今福さんは新図書館のデザインや配置に目を見張り「自治体のセールスポイントになるのではないか」などと話した。

今福さんは交通バリアフリーを求める市民団体「アクセスジャパン」代表で、全国各地を飛び回り、公共交通、公共施設などのバリアフリー度をチェックし提言している。土浦市の新図書館に対しては、市と障害者団体とのバリアフリー意見交換会などで、設計段階から当事者の立場で提言してきた。

同日、電動車いすで各階を回った今福さんは「デザインがすごくいい。どこにいても館内が見渡せ、堅苦しさがなくオープンな雰囲気」と高得点を付けた。「いろいろな高さやデザインのテーブルや椅子が配置されていて、余裕が感じられる。いろいろな視線が交差するデザインになっていて、ゆっくりできて落ち着く」と話し、「今風の図書館の機能とは何かということを再認識できる」と賛辞を贈った。

視覚障害者や聴覚障害者向けの読書機能が備えられているかを尋ねると、3階に案内された。点字図書コーナーはカウンター近くにあった。弱視者や色弱者向けの、本を読み取って文字を大きく映し出したり文字の背景の色を変える拡大読書器や、視覚障害者向けの対面朗読室を見せてもらった。拡大読書器や対面朗読室は今回、新たに導入されたという。今福さんは「バリアフリーの装置はそろっている」と納得していた。

課題も見つかった。1階と2階の多目的トイレは、出入口扉近くにオストメイト対応器具や洗面台が配置されているため、幅が狭い。トイレから出る際は開閉ボタンを押して扉を開けなくてはならないが、器具がじゃまになり、車いすではボタンに手が届かない。今福さんは常時携帯している自助具の棒で開閉ボタンを押し扉を開けることができた。「開閉ボタンの位置も少し高いのは」とも指摘した。

設計段階で開かれた意見交換会では、視覚障害者から、点字ブロックの動線や色について質問が出ていた。新図書館は点字ブロックや警告ブロックが館内をめぐっておらず、基本的に職員が案内する。今福さんは「使い勝手について、視覚障害者にも話を聞きたい」と話した。(鈴木宏子)

3階カウンター近くの点字図書コーナー
3階対面朗読室。予約制でボランティアが本を朗読してくれる
2階多目的トイレ。出入口扉付近に洗面台が設置され車いすでは開閉ボタンに手が届かない

➡NEWSつくばが取材活動を継続するためには皆様のご支援が必要です。NEWSつくばの賛助会員になって活動を支援してください。詳しくはこちら

スポンサー
一誠商事
tlc
sekisho




Advertisement
spot_img

最近のコメント

最新記事

つくば市に欠ける地域アイデンティティ《水戸っぽの眼》1

【コラム・沼田誠】新しくコラムを担当することになりました、元水戸市職員の沼田と申します。タイトルは「水戸っぽの眼」となっていますが、これは私が名付けたものではありません。そもそも県外出身者である私が水戸に関わるようになったのは2000年からで、まだ四半世紀。私のような「ヨソ者」が「水戸っぽ」を名乗っては、「何言ってんだおめ~」と水戸人に怒られてしまいます。 皆さん、「水戸っぽ」の意味をご存知でしょうか? 「水戸っぽ」という言葉は、義理人情に厚く、頑固で一本気な水戸人の気質を指すとされ、水戸藩以来の歴史の中で醸成されてきた地域アイデンティティを示す言葉です。このような人物像は、体感では以前よりかなり弱くなってきていますが、それでも水戸市民の中に底流としてあり、良くも悪くも、地域に対する愛着や誇りを形成する要素として機能しています。 では、つくば市はどうでしょう。住み始めて4年ほど経ちましたが、「つくば人」やそれに類する表現はまだ聞いたことがありません。一方で、「つくばスタイル」という言葉があり、こちらは、先端技術を活用した利便性の高い生活や、豊かな自然との共生を強調していて、人ではなく暮らしや環境に焦点を当てています。 ただし、「つくばスタイル」はいわゆる「中心地区」やTX沿線を外向けにアピールするためのもので、市全体を包括したものとは言えないでしょう。このように、つくば市という地域全体をわかりやすく象徴するものがないことの背景には、つくば市が研究学園都市という国策から出発していることや、「中心地区」が多様な地域や文化から集まった住民の集合体として発展してきたことがあるものと想像しています。 また、行政の側も、市制施行からすでに38年もの時間が経過した今でも旧町村の枠組を意識せざるをえないことも、そうした傾向に拍車をかけているのかもしれません。(例えば、市の「周辺市街地の振興に向けた取組方針」でも「旧町村時代」という文言が使われています。それは使う必要があると行政が判断しているからです) 人口増加=住みやすい市ではない 国立社会保障・人口問題研究所が2023年にまとめた地域別将来推計人口調査によると、つくば市は10年後の2035年に水戸市の人口を抜き、茨城県内で最も人口が多い都市になるそうです(気にしている水戸人は結構います)。 しかし、地域アイデンティティが十分に形成されていなければ、地域への帰属意識や一体感は希薄なままです。それでは、つくば市がいくら人口を増やしたとしても、地域のことに主体的に参画する住民は増えず、住みやすい地域にはなっていかないでしょう。つくば市が今後さらに成熟した地域として発展するためには、「つくばスタイル」からもう一歩踏み込み、どこに居住していようとも市民誰もが感じることができる地域アイデンティティを育むことが意識される必要があるのではないでしょうか。 今年3月に発表された「第3期つくば市戦略プラン」では、「2030年の未来像」の一つとして「性別、国籍、年齢等を問わず、自身や他者の選択を尊重し合い多様性をいかす文化が地域に根付いています」ということが示され、基本施策でも「多様性が尊重された、包摂的な社会をつくる」(Ⅲ-3)ということが位置付けられています。 個人的には、「多様性の尊重」や「包摂性」が、国籍・性別・障がいの有無といったジャンルを超えて展開され、地域アイデンティティとして根付いていけば、つくば市は全体として、住む人にとって、よい地域として感じられるのではないでしょうか。(元水戸市みとの魅力発信課長) 【ぬまた・まこと】一橋大社会学部卒。民間企業を経て、2000年、水戸市役所入庁。12年、庁内公募で「みとの魅力発信課」に移り、広報・シティセールス・フィルムコミッションなどを9年間担当。同課課長、文化交流課長を経て、22年退職。飲み歩きイベント「水戸バー・バル・バール」実行委員、街歩きサークル「水戸との遭遇」を主宰。1971年、京都生まれ。つくば市在住。

常総学院が3連覇 春季高校野球県大会

第77回春季関東地区高校野球茨城県大会は5日、土浦市川口のJ:COMスタジアム土浦で決勝戦が行われ、常総学院が3-1で境を下し3年連続18回目の優勝を果たした。3位決定戦では藤代が6-4で水城を破った。常総学院、境、藤代の3校は17日から本県で開催される関東大会に出場する。 第77回春季関東地区高校野球茨城県大会決勝 J:COMスタジアム土浦境    100 000 000 1常総学院 300 000 00× 3 決勝戦は1回表に境が先制。1死からの遊ゴロを水口煌太朗が一塁へ悪送球し走者二塁とされ、次打者の右前打で1点を奪われた。だが常総学院はその裏、3点を奪って逆転。3番・佐藤剛希の左前打などで満塁とし、相手投手の四球押し出しで1点を返した後、6番・吉岡基喜の右前打で2者が生還。「打ったのはまっすぐ。インコース高めを腕をたたんで捉えた。犠打を打とうとボールのラインにバットを入れたが、詰まってヒットになった」と吉岡。結局、この点差を最後まで守り切った。 常総学院の先発・小澤頼人は8回を投げて1安打1四球の自責点1。9回は野口龍馬が三者凡退に抑えた。「初回はエラーがありリズムも良くない中で、自分も調子悪いなりに最少失点で抑えられてよかった。5回のピンチも0点に抑えれば流れが来ると思った。境打線は初球からどんどん振ってくるので、低めの変化球から入る意識で抑えられた」と小澤。野口の救援について島田直也監督は「緊張する場面をストライク先行で抑えてくれた。もっといろんな選手を試したい気持ちもあったが、それよりも負けたくない気持ちの方が強かった」と話した。 5回表のピンチとは先頭打者が左越え二塁打、次打者の投ゴロを一塁ベースカバーに入った二塁手の吉岡が落球、無死一・三塁とされたもの。しかし遊撃への小飛球を水口がダイビングキャッチし一塁送球、走者戻れずダブルプレーとなった。このように常総学院は1試合で4つの失策を数えたが、一方で3つの併殺を奪うなど、ミスを帳消しにする好プレーも多かった。 むしろ課題は、追加点を奪えなかったこと。「準決勝までは打線がつながっていたが、初めての決勝の舞台に気持ちの未熟さが出た。ヒットが出なくても小技や足をからめるなど、打てないなりにできることがまだまだあるはず。一人一人が持っている引き出しの多さを発揮することができなかった」と浜崎怜央主将の振り返り。関東大会に向けては「強豪と戦える機会で学ぶことが多い。その中で自分たちの野球がどれだけできるか。チームの士気を高めながら挑んでいきたい」と意気込んだ。 春季関東大会は17日開幕の予定。常総学院は3年連続24度目、境は37年ぶり2度目、藤代は6年ぶり3度目の出場となる。(池田充雄) 優勝した常総学院

邦楽の音遠くなりにけり 50周年の土浦三曲会 25日に定期演奏会

お琴に尺八の14社中 邦楽でいう「三曲」は三味線(三弦)、箏(そう=琴)、尺八-の3種の楽器による音楽の総称。土浦三曲会(柳林順一代表)は25日に土浦市亀城プラザで定期演奏会を開く。50回目を迎えるが、半世紀の間に三曲合同の演奏が聴ける機会は随分と貴重になってしまった。 「無理がきかない」 演奏会には尺八の琴古(きんこ)流5社中と都山(とざん)流1社中、箏の山田流2社中、生田流6社中の合わせて14団体、約40人が出演する。三弦の地歌三味線は箏曲に含まれる。 尺八では、かつて虚無僧装束で演じられた古典の本曲「北国鈴慕」「吾妻の曲」2曲の演奏などがあり、箏曲では江戸時代の古今調子である「春の曲」、現代音楽に属する「平安朝風な舞曲」などの曲目で構成される。生田流で宮城道雄の開いた宮城派に所属する池田孝子社中はクラシックの名曲「パッヘルベルのカノン」に挑む。 定期演奏会は50回目となるが特に記念の企画は予定されていない。代表の柳林順一さん(73)は「40回目のときは土浦市民会館大ホールで盛大に開き、出演を記録した記念誌を発行したが今回は難しい。参加団体も減ってしまったし、出演者の平均年齢も上がってしまい無理がきかない」という。 土浦の自衛隊員が先鞭 土浦三曲会の発足は1974年にさかのぼる。戦後、土浦市右籾には「補給処」と呼ばれた陸上自衛隊霞ケ浦駐屯地が出来、多くの自衛官が移り住んだ。隊員の間では精神修養のためか、尺八の演奏が好まれ、同好の士が集まって複数の社中ができあがっていたという。 その中心人物が安宅筑鳳さん(故人)と橋本竹堂さんで、土浦はじめ阿見や牛久などの筝曲社中に呼び掛けて、76年に1回目の三曲合同演奏会を開くに至ったと伝わる。 芸事の粋を次世代に 1992年の開催では尺八7社中、筝曲⒓社中があったというが、以降の活動は先細り。柳林さんによれば「世代交代で当時のメンバーはすっかり入れ替わった。次の世代交代は望めないほど若い人がいない」のが現状という。 昭和百年、戦後80年。詩吟や長唄など町なかに流れていた邦楽の音は遠くなりにけり。柳林さんは「定年を迎えて尺八でも習おうかと訪ねてくる人はいるが、腹式呼吸が難しくてほとんどが即座にあきらめてしまう。30代、40代に始めると長く続けられる趣味だし、仲間ができ健康づくりにも役立つと思う」と次世代に芸事の粋を聞いてほしいという。(相澤冬樹) ■土浦三曲会 第50回定期演奏会は5月25日(日)午前11時から、土浦市中央2丁目、亀城プラザ文化ホールで開催。入場無料。詳しくは柳林竹栄社中(電話029-842-6355)へ。

元気が出る話を聞いた!高校同窓会式典《吾妻カガミ》206

【コラム・坂本栄】5月連休前、切りのよい高卒年次の同窓会がありました。上の写真には「卒業60・50・40・25・15周年記念祝賀会」と書かれていますが、卒業してから60年、50年、40年…という意味です。私は卒60年ですから、この式典に招かれるのはこれが最後になります。この看板に「70を付け加えよう」との声もありましたが…。 インド人校長の方針 同窓会と言えば思い出話で盛り上がる場です。卒業時18才+60年となれば、これに持病の話がプラスされます。でも、この種の式典の面白いのは、元気が出る話も聞けることです。県の公募で採用されたヨゲンドラ校長(インド人)はあいさつの中で、攻めの教育方針を話してくれました。 「世界的に役立つ人材を育成し、自分で設計した方向に強い意志を持って進む、そういう学生に育てたい。今年から修学旅行を復活させ、台湾に送り出すことにした。現地の大学や高校のほか、世界的に競争力がある大企業も視察する」 「世の中はこれから劇的に変わる。どんな職業が残りどんな職業が残らないか、予測がつかない。各国の競争力が強くなると、日本が今の位置にいられるとは思わない。日本はさらにパワーアップしていく必要がある」 「県立高の中で我々は常にトップを走ってきたが、より上のレベルに持っていきたい」。このくだりは進学先のことですが、ヨゲンドラさんは2年後の合格目標をこっそり教えてくれました。 ▽東北、東京、東京工業(科学)、東京外語、一橋、京都=70人(2023年度46人)▽筑波、茨城、県立医療=60人(同56人)▽国公立医学部=25人(同21人)▽私立医学部=5人(同8人)▽早稲田、慶應、上智、東京理科、国際基督=200人(同225人)▽海外大学=5人(同0人) 面白い時代を生きた 高校講堂での式典のあと、市内の結婚式場で卒60年の同窓会がありました。スピーチするよう事前に言われ、1時間分の原稿を用意したのですが、15分にカットされました。結論は「私たちは面白い時代を生きた」ということです。 「経済記者になって2年目の夏、ニクソンショックがあった。米国がドルを金に交換させないと宣言、ドル切り下げに動いた事件だ。これは戦後の雄、米国のパワーの低下を意味した。その2年後にオイルショックが起き、産油国が先進国の秩序に異を唱えた。日本はどちらも乗り切り、米市場で目立つ存在になった」 「ニクソンショックのときは大蔵省を担当、オイルショックのときは海運造船業界を担当、自動車摩擦のときはワシントンで日米交渉を取材。米国の衰退と日本の台頭を間近で見られたのはハッピーだった」 「しかし日本のおごりがバブルにつながった。私も取材で銀行幹部と飲み歩き、彼らと一緒に浮かれていた。バブル破裂のあと、日本の金融システムが意外に弱かったことを知った」 「バブル処理で痛んだ日本がその後遺症から脱した今、トランプショックが襲った。他国に攻め込まれた米国がなりふり構わず反撃に出てきたわけだが、いずれ大転びする。ポスト米国の時代を迎える好機と思ったらよい」(経済ジャーナリスト)