火曜日, 12月 23, 2025
ホーム土浦【戦後74年の夏】5 引揚者住宅から始まった土浦の戦後 ジオラマで蘇る少年時代

【戦後74年の夏】5 引揚者住宅から始まった土浦の戦後 ジオラマで蘇る少年時代

【相澤冬樹】この春、土浦市立博物館で開かれた特別展「町の記憶―空都土浦とその時代」、海軍航空隊や戦前の町の記憶をたどる展示に、入場者が思い思いに見入る会場で、ほとんど全員が足を止めるコーナーがあった。同市原の前にあった引揚者住宅の模型、街区全体を住宅地図のように復元したジオラマで、見下ろす来館者たちが「これあそこじゃない?」などと記憶を呼び覚ますシーンが見られた。

戦後生まれが大多数となった来館者に、戦争や銃後の暮らしの「記憶」はない。だから戦前を引き継ぐ風景や地図は思い出を語る糸口になりやすい。しかし模型製作者の同市中(なか)、大貫幾久男さん(71)を訪ねると、旧海軍航空廠(しょう)の兵舎跡とされる引揚者住宅に、戦前の生活は刻まれていなかったというのである。

同市右籾の第一海軍航空廠(現在の陸上自衛隊霞ケ浦駐屯地)は終戦に前後して取り壊され、その現場作業に就くため父親が栃木県藤岡から土浦にやってきたのは1947年のこと。翌48年に生まれた大貫さんは5人きょうだいの末弟だった。当時の土浦には、戦争終結に伴い引き揚げてきた無縁故の(国内に身寄りのない)在外邦人を収容する「引揚寮」が数多く設けられていた。空き家となった海軍住宅や航空廠の工員宿舎が多数あり、転用されたためだ。その戸数約800という。

6畳一間に7人が暮らす

原の前の引揚者住宅もその一つ。大貫さんの入居した住宅は47年に払い下げられているが、「真っ先だったから、一番南の見晴らしのいい住戸に入れたと聞いた」という。43年ごろ工員宿舎用に接収され建設されたが、戦局の悪化で入居者を迎えないまま終戦に至った。復員軍人や引揚者向けに入居者募集が行われたのは戦後になってからだった。

入居当時の引揚者住宅での暮らしを語る大貫さん=同

住宅は6畳の和室一間と板敷3畳の台所に土間のついた間取りで、4軒を一棟に連ねた長屋状の建物だった。これが南北に最大16棟並んで、全93戸があった。杉板を張り合わせた外壁、杉皮で葺かれた屋根、4軒共用の井戸があった。長屋の両端の家は地続きの畑が使えたが、内側の2軒は離れた区画に畑を持ったそうだ。

原の前はかつての字名で中村、今の住居表示で中の一部にあるが、93戸の住宅は周囲から孤立して立地していた。父親の職場だった霞ケ浦駐屯地は常磐線の通る谷津地形をはさんだ対岸にあり、東京通勤者は谷津のあぜ道を歩き線路伝いに荒川沖駅に出たのだった。

地区内に商店はないから、畑を耕し、鶏を飼う「自給自足」の生活となった。住宅に風呂はなく、1キロ以上離れた右籾や大房の銭湯に通う日々だったという。両地区とも引揚者住宅から街区形成が進んだ町内だ。

大貫さんは常磐線に向かって立つ広告看板の下でよく遊んだ。白髪染めの「君が代」と清酒の「白雪」だけは覚えている。6畳一間の住宅に一家7人が暮らしたが、高校進学を機に単身東京の親戚宅に身を寄せたそうだ。のちに原の前に戻って、以前は畑だった場所に自宅を建てたが、少年時代の原風景に年々郷愁を募らせた。

原ノ前公民館に展示

約60年前の記憶をたどる形で模型を作り始めたのは2015年からだった。古い家に長く暮らした姉や周囲の人たちに聞き込みをするなどして、まず4棟長屋を作り、それから概ね200分の1の縮尺で全住戸を配したジオラマを作った。自身は建設関係の仕事に就いていたが、技術職ではなく、柱や梁の建て方など見様見真似での製作となった。

それぞれ1年ほどを掛けて16年には2点が仕上がった。「ほとんど我流。子供のころ好きだった住宅模型の工作を思い出しながら作業した」そうだが、趣味の日本画で培った筆遣いが役立った。田畑や台地の植栽はもとより、井戸や鶏小屋のディテールにまでこだわった。「君が代」と「酒の白雪」も書き入れた。その鮮やかな再現性が特別展で評価されたのだった。

原の前の引揚者住宅は水道が引かれると各戸こぞって家風呂を設け、敷地いっぱいに増改築を繰り返し、やがて周辺にも戸建て住宅が張り付いた。4棟長屋から分離された当時のままの家屋が今も1、2棟残っているが、住む人はいない。「戦争の記憶が薄れるように、僕らが生きた戦後の時代も忘れかけられている。そういう作業を一緒にしたいという人がいれば、また模型を作ってもいいと思っている」と大貫さん。2つの住宅模型は今、原ノ前公民館に展示されている。

➡【戦後74年の夏】4はこちら

➡NEWSつくばが取材活動を継続するためには皆様のご支援が必要です。NEWSつくばの賛助会員になって活動を支援してください。詳しくはこちら

スポンサー
一誠商事
tlc
sekisho




spot_img

最近のコメント

最新記事

サンタクロース《短いおはなし》46

【ノベル・伊東葎花】 今日、学校で男子とケンカした。だって、サンタクロースはいないって言うんだもん。私は絶対いると思ってる。プレゼントだって、毎年くれるもん。家に帰ってママに聞いた。 「ママ、サンタクロースはいるよね」 「そんなことより、今夜は冷えるから温かくして寝るのよ」 …そんなことって言われちゃった。 今、世界中が燃料不足で大変なのは知ってる。イブなのに、イルミネーションも暖房も自粛なの。お店は早く閉まっちゃうし、地球全体がどんより暗い。テレビも毎日「新しい燃料が見つからないと人類滅亡」とか言ってる。でもね、私はそんなことよりサンタクロース。今日は寝ないで、サンタクロースの写真を撮るの。私をバカにした男子を見返してやるんだから。 私は、ベッドにもぐりながら、その時を待った。すると、午前0時を過ぎた頃、窓の外が一瞬明るくなった。街中が真っ暗だから、すぐにわかった。サンタクロースが来たのかも。 耳を澄ますと、ピコピコと電子音のような音が聞こえた。サンタクロースは鈴の音と共に来ると思っていたけど、今どきは違うんだ写真を撮ろうと窓を開けると、緑色の少し小さめの人が飛び込んできた。あれ、サンタクロースは赤い服を着たおじいさんだと思っていたけど違う。緑色だ。 「いやあ助かった。船が故障しちゃってさ。地球って寒いね」 サンタクロースが言った。サンタクロースは、そりに乗って来ると思っていたけど、船で来るんだ。 「あ、仲間が助けに来てくれた」 サンタクロースが指さす先に、角が生えた黄色い生き物がいた。これがトナカイ? 本物のトナカイを見たことはないけど、角があるし、きっとそうだ。 「お邪魔しました。ありがとう地球人」 サンタクロースがトナカイと一緒に帰ろうとしたので、私は慌てて呼び止めた。 「あの、ちょっと待って…、プレゼントは?」 「ああ、親切にしてくれたお礼ね。地球人、意外としっかりしてるね」 サンタクロースは、持っていた袋から赤い石を取り出してポイと投げた。「石かよ!」と思ったけれど、世界中が不景気なので文句は言えない。「じゃあね」とサンタクロースは、あっという間に出て行った。きっとたくさんの家を回るから急いでいるんだ。 「あ、写真!」 慌ててシャッターを押したけど、UFOのような白い光が写っただけだった。ああ、失敗。 写真は撮れなかったけど、サンタクロースに会えた興奮でなかなか眠れない。それに、どういうわけか部屋の中が夏みたいに暑くて、毛布を全部蹴飛ばした。サンタクロースからもらった赤い石は、暗い部屋で不思議な光を放っている。なんだろう、これ。 この石が、燃料不足の地球を救うエネルギー源になる物体だと知るのは、少し後の話。地球を救ってくれたのはサンタクロースだって、私は信じてる。 (作家)

「つくばは第二の故郷」 日本人3人目のISS船長 大西卓哉飛行士

つくば市役所を訪問 日本人として3人目となる国際宇宙ステーション(ISS)の船長を務め、8月に帰還した宇宙航空研究開発機構(JAXA)の大西卓哉飛行士(50)が22日、つくば市役所を訪問し、五十嵐立青市長に活動を報告した。市役所入口では、職員を始め来庁中の市民が大西さんを出迎えた。ISSの船長には、過去に若田光一さん、星出彰彦さんが就いている。 大西さんは1975年東京都生まれ。2016年には第48次、第49次長期滞在クルーのフライトエンジニアとしてISSに約113日間滞在した。第72次、第73次長期滞在クルーとして滞在した今回は、10年ぶり2度目の宇宙飛行となった。 ISSでは船長として緊急時の指揮を執るなど全体の安全確保と計画遂行を統括し、他の飛行士の活動を取りまとめた。またISSに設置された日本の実験棟「きぼう」で、ほぼ重力のない宇宙空間の微小重力環境を利用した科学実験に取り組んだ。 大西さんは船長としての役目について「良い意味でのプレッシャーと同時に、大きなやりがいを感じた。大切にしていたのは、一人一人とのコミュニケーション。さまざまな国出身の飛行士がいる中で、それぞれの性格や個性の振れ幅のほうが、国籍の違いよりも大きかった。決断を下す際に、きちんと説明して理解してもらうよう心掛けた」と話した。ISSの運用は2030年で終了することから「これが最後かもしれないなと思うと寂しさというのがあった」とし、帰還時については「宇宙に名残惜しさも感じつつ、地球に帰れることのうれしさも同時に感じているような、不思議な心境だった」と振り返った。 今後については「米国を中心に人を月面に送る計画がある。その計画に宇宙飛行士として貢献したい。また民間による宇宙ステーションなど新しい分野で、自分がこれまで得てきた知見を活用できるチャンスがあれば」と語った。 つくばについては「私たち宇宙飛行士にとって、つくばはたくさんの仲間がいる『第二の故郷』のようなまち。つくばに来るとほっとする」とし、子どもたちに向けては、「私たち宇宙飛行士が宇宙空間でどのようなことをやっているのかを伝えたい。宇宙をきっかけに科学に興味を持ってもらえたら。宇宙センターの特別展などへ足を運んでもらえるとうれしい」と語った。 つくば市によると、大西さんが搭乗したロケットの打上げ風景や、ISSでの実験風景、クルーらの様子が掲載された記念パネルは、23日から市役所庁舎1階に掲示予定だ。(柴田大輔)

よみがえる新日本紀行花火師編《見上げてごらん!》47

【コラム・小泉裕司】今回は11月19日放送のNHK BS「よみがえる新日本紀行」に登場した、そうそうたる花火師の顔ぶれを紹介したい。「新日本紀行」は1963年10月から82年3月まで19年続いた30分の紀行番組。NHKのホームページによると、「日本各地の風土紹介だけではなく、そこで生きる人々の物語や話題など人間の記録を中心にすえた紀行ドキュメンタリー」とある。私が小学生のころ、担任の先生に社会科の宿題として見るよう言われ、中学生になっても見続けた。 「よみがえる新日本紀行」は「新日本紀行」を最新デジタル技術で色鮮やかな映像によみがえらせ、加えて、番組で描かれた取材地の「現在」を新たに取材している、2022年4月から続く40分番組。過去から現在への空間移動が興味深く、西新宿や築地など個人的趣味で録画している。 このうち、花火師を取材した番組は「煙火師群像/愛知県三河地方」と「夜空の詩人たち/秋田県大曲市」の二つ。いずれも時代は変わっても変わらぬ花火師の心意気を描いており、花火愛好家にお薦めしたいアーカイブ映像。残念ながら再放送の予定は見つからないので、今回は「大曲」を紹介したい。 夜空の詩人たち/秋田県大曲市 この番組、実は2024年10月5日にBS4Kで初回放送済みのBS再放送。1981年、秋田県大曲市(現大仙市)で開催された「全国花火競技大会」を支える要人や大会に挑む県内外の花火名人たちの奮闘を描いた名作。なんて心に響く、素敵なタイトルなのだろう。 地元の花火師を支えるだけでなく、全国の花火師との緻密な連携で大会を支える実行委員長の佐藤勲さん。小型トラックで500キロの長距離を運転し到着した茨城県真壁町(現桜川市)の「筑北火工」の花火師をねぎらう姿は、おもてなしの気持ちに満ちている。「題名のイメージに合う花火を上げてもらいたい」と大会に寄せる思いを語った。 2017年には、最も創造性が豊かであると認められた作品(創造花火)に贈られる佐藤さんの名前を冠した特別賞が創設された。 土浦火工の北島義一氏のもとで3年間修行した北日本花火興業(秋田県大仙市)3代目の今野正義さんは、農業と兼職の農民花火師。自宅の窓辺でトランペットを吹く正義さんの長男義和さんは、4代目を決意し、「音楽の世界を光で描いてみたい」と夢を語った。 就業して10年。競技大会で優勝するなど、現在まで数々の輝かしい成績を積み重ねてきた。卓越した型物花火の技術や音楽と融合した花火の創造など、煙火業界の発展に寄与した偉大な功績が評価され、昨年度は「現代の名工」、今年度は「黄綬褒章」に輝いた。 永久保存の価値ある影像 「花火は花火師の個性が出るもの」と語るのは、小松煙火工業(秋田県大仙市)4代目の小松忠二さん。後を継いだ5代目忠信さんは、市内5業者のリーダーとして「見る人々がいかに楽しんでもらえるか」を追求し続ける。 このとき、すでに日本煙火協会の要職を歴任するなど煙火業界の重鎮であった武藤輝彦さんも登場。著書「日本の花火のあゆみ」や「ドン!と花火だ」などは、私のバイブル的資料として書棚に鎮座している。 茨城県明野町(現筑西市)の新井煙火店の新井茂さん。同じ旧明野町で森煙火工場を創業した初代森清さん(現在は森武さんが2代目)がそれまで働いていた新井煙火店は、現在は廃業したとのこと。 群馬県の菊屋小幡花火店の4代目小幡清秀さんは、故郷への想いを赤とんぼにイメージした作品を出品。多重芯割物花火においては名人の域にあり、「四重芯の小幡」とも呼ばれた。2023年、土浦のスターマインの部で、5代目知明(としあき)さんは、故郷の上毛カルタをモチーフにした「風神雷神」で内閣総理大臣賞を受賞。父の系譜を紡ぐ郷土愛満載の作風を愛するコアなファンは数多い。 雨降りしきる中、創造花火の部で優勝した作品は「紫陽花」。花火師は川畑宏一さん、土浦火工の2代目。この年は、北島義一さんが逝去した2年後で、十八番(おはこ)の紫、青や紅の牡丹(ボタン)花火が次々と開花する美しい映像は、アーカイブとして永久保存の価値がある。 放送43年、次代へ継承 番組後半では、番組放送後43年たった2024年の大会を取材。打ち上げの準備に余念がない今野義和さんは、花火作品への思いを「筒の中で静かに出番を待っている花火玉を『役者』として生かしてあげたい」と語った。花火を芸術の世界にまで築き上げたひとり、今野さんならではの哲学に感銘。 デジタル技術を駆使した音楽花火の世界を追求する息子の貴文(たかのり)さんの奮闘も紹介。40年前の番組に登場した花火師の息子世代が、今や業界をけん引する存在となり、父から受け継いだ技と最新のデジタル制御などを融合させて夜空を彩る様子が描かれている。 時代が変わっても、多くの観客を魅了するために、一発一発に魂を込める職人たちの哲学や情熱は変わっていないことを強く感じ取ることができる。冨田勲さん作曲の名曲「新日本紀行のテーマ」で幕を閉じる。 今野さん親子とのご縁 2008年、大曲で花火鑑賞士試験を受験したときの講師のお一人が今野義和さん。「もっとも難しい色は何色か?」の私の愚問に、答えは「黒色」。黒色は光を吸収するゆえ、闇に溶け込んでしまう。誰も想像もつかない数々の名作、奇作を世に出してきた今野さんの究極が「黒い花火」だったのかも知れない。禅問答の奥にある答えの本質に気付けなかった自分が、今さらに恥ずかしい。 息子の貴文さんとは、今年9月の常総花火大会前夜、市内の居酒屋で親睦を深めた。とても穏やかな語り口の裏にある、並々ならぬ花火への情熱に深く感銘。常に父親と比較されることが多いと思うが、豊かな感性と創造性を磨き上げて、「らしさ」を極めてほしい。来年、常総での再会を期して、本日はこれにて、打ち留めー。「シュー ドドーン パッパッパッ!」。(花火鑑賞士、元土浦市副市長)

県立高不足「つくばエリアは新たな事態に」 市民団体が学習会

人口増加が続くつくば市やTX沿線に県立高校の学級増や新設を求めている市民団体「つくば市の小中学生の高校進学を考える会」(片岡英明代表)の学習会が21日、同市役所コミュニティ棟で開かれ、片岡代表が「最近の受験事情について」と題して基調報告した。 県教育庁が県高校審議会に示した資料で、2033年度のつくばエリア(つくば市など4市)の中学卒業見込者数が25年度の4393人より226人増えて4619人になり、日立エリア(日立市など3市)と水戸エリア(水戸市など4市)を合わせた4425人を上回ると推計され、さらに38年度にはつくば市1市だけで中学卒業見込者が3392人と見込まれ、日立エリアと水戸エリアを合わせた3429人に匹敵する推計値が出されていることについて(8月27日付)、「つくばエリアは新たな事態に直面している。このままではさらに重大な事態になる。県立高校の緊急な定員拡大と本格的な対応が必要」だなどと話した。 つくばエリアの県立高校は、学級数で比較すると25年度はすでに県平均より17学級(定員680人分)不足しており、今後も県立高校の定員が変わらないと、子供の数がさらに増える33年度はさらに深刻になるとした。 改善した高校はプラスに ここ数年の受験事情については、つくば市は生徒数が増加する中、県立高校の定員不足に加えて土浦一高の付属中設置による定員削減の影響で、市外の高校に通学する生徒が多く、通学に苦労している。土浦市の生徒は、つくば市から土浦市内の高校への流入と土浦一の定員削減で、志願者数が多い高校が毎年変わるなど進路決定に迷いがみられ、土浦一高を受験するのを控えている。牛久市は進学志向が強いまちだが、土浦の高校から牛久市内の高校への回帰がみられるーなどと昨今の傾向を話した。 一方で、①2024年度に定員を1学級(40人)増やした牛久栄進高校は地元牛久市とつくば市からの入学者が増えた ②25年度に普通科を新設したつくばサイエンス高校は入学者が増え、地元のつくば市内の中学校からも入学者が増えた ③筑波高校は今年度、つくばサイエンス高の普通科設置で入学者数が減ったと考えられるが、地域とつながる小規模多面高校として学校づくりをしているーなどと分析し、「26年の募集定員の発表で、期待していた竹園高校の定員増は実現しなかったが、改善した部分は確実にプラスになっているので、改善が必要だと県に要望していきたい」などと話した。 「当時者として不安しかない」 学習会には小中学生の子供をもつ父母らも参加した。都内からつくば市に転居してきたという母親は「都内から来て、つくばは高校の通学費が月3万円くらいかかると聞き、こんなに通学費が高いんだと驚いた。公立高校は行きやすいところにあることが重要なのに、当事者として不安しかない」などと語った。中学生と高校生の子供をもつ土浦市の母親は「つくばに高校の選択肢が少ないことで、つくばの生徒が土浦や牛久に流れていて、土浦の生徒は、土浦一高と二高は、つくばの出来る子が行くところだと思うようになっている。近い高校に行ける仕組みをつくってほしい」と訴えた。 PTAの活動で、隣のつくばみらい市で開かれた会合に参加したというつくば市の父親は「(会合に)つくばみらい市の小田川浩市長も参加していて、小田川市長から『市立高校をつくりたい』という話を聞いた。つくばみらいには伊奈高校があり、市役所に入ってくる卒業生がすごくいい子だから、地元で地元の子を育てたいということだった。そうしたこともいいのではないか」などと話した。(鈴木宏子)