水曜日, 11月 26, 2025
ホームつくば原発事故を超えて つくばの原木シイタケ生産者 全国サミット開催へ奔走

原発事故を超えて つくばの原木シイタケ生産者 全国サミット開催へ奔走

【相澤冬樹】茨城県の原木シイタケ生産量は2016年に401.6トン、福島第一原発事故後の出荷制限・自粛下にありながら静岡、鹿児島、群馬に次ぐ第4位となったことはあまり知られていない。さらに年間150トンを出荷するという生産者がつくば市にいることはもっと知られていない。「おそらく日本一のはず」と胸を張るのは、なかのきのこ園(つくば市中野、飯泉厚彦社長)の創業者、飯泉孝司さん(71)。事業を子息に任せ、自身は全国の生産者らに参集を呼び掛けて、8月につくばで「原木しいたけサミット」を開催すべく東奔西走の日々を送っている。

県内19市町で続く出荷規制

2011年東日本大震災時の原発事故に伴う放射性物質の影響により、県内産原木シイタケは大打撃を受けた。19市町で出荷制限・自粛の規制がかかり、10市町村で一部解除になったものの、現在も19市町すべてで継続中だ。「規制と風評被害に耐えかねて廃業してしまったものも多く、生産者が再出荷に向け線量検査など申請手続きを行わなければ出荷規制だけが残ることになる」(飯泉さん)。事故当時県内に約500人いた原木シイタケ生産者は150人ほどになった。

被ばく線量の基準値を下回ったつくば市は規制の対象から外れたものの、飯泉さんは原木のホダ木約200万円分を廃棄処分にした。このため丸1年、生産できない時期が続いたが、再開には次のハードルが待ち受けていた。原木の高騰である。

きのこ園では原木にコナラとクヌギを用いているが、つくば周辺の生産者5人で共同購入グループを組んで、調達先を福島・阿武隈山地に確保していた。1本の木からホダ木7本が取れる。グループの年間使用量40万本のためには1ヘクタール約7000本として、60ヘクタール分が必要。植林から伐採まで約20年かかるのを見込み、1200ヘクタールもの広さを手当てしていた。福島県内の、その調達先が消えた。

当座は在庫でしのぎつつ、長野県産に切り替えるなどの措置をとった。7センチ径で長さ70センチの原木1本が事故前は200円だったのが、今は倍の400円以上している。東電の震災復興基金からの助成が入るが、これも19年度までで打ち切りとなる。この先原木調達が生産コストを押し上げるのは必至だ。

「今後の活路見出す」

川上に自前の原木調達先を持たず、川下に安定した流通経路を確保していない産地には苦境が待ち受けている。飯泉さんは、生産、販売に関わる課題と情報を共有し、今後の活路を見出すべく、全国の産地に連携を呼びかけた。

所属団体の東日本原木しいたけ協会(古河市)を社団法人化する過程で知り合った大分県の阿部良秀さん(現日本椎茸農業協同組合連合会長)らと協議を重ね、実行委員会形式で初のサミット開催を打ち出した。行政に協力を求める一方、消費者も巻き込んで、森林や山村の豊かな環境を保全するなかで成長戦略を描く道筋を考えた。「全国規模となると原発問題は扱えないし、第1回とも打ち出せない。しかしSDGs(持続可能な開発目標)に懸ける思いは強くある」という。

「原木しいたけサミット」は8月29、30日、つくば市小野崎のホテルグランド東雲をメーン会場に開催。全国から約150人の参加を見込み、パネルディスカッションや6分科会での討議を予定している。2日目の現地視察はなかのきのこ園が会場、付属のレストランでシイタケ料理の試食会を行う計画でいる。

1年を通じ出荷作業の行われる原木シイタケ=同

菌床栽培全盛の中で

スーパーなどに並ぶシイタケには、生(なま)と干しの2種類あるのはご存知だろうが、生産の仕方でも2通りに分けられる。短く切った樹木に菌を植え付けて林地やハウスに並べて栽培する原木栽培と、粉砕した樹木のオガクズなどから作る菌床を用いてハウス栽培する菌床栽培である。人工的なシイタケ栽培が始まったのは大正年間で、そんなに古いものではないが、昔からの手間ひまかけて作るのが原木栽培で、近代化されたオートメーション促成型が菌床栽培といえる。

シイタケ菌を植え付けた原木をホダ木といい、これを寝かせて生育を待つだけで1年以上を要するのに対し、菌床なら3~4カ月で収穫でき、同じ面積のハウスなら4倍以上生産可能という。だから、今日では両者の生産量に圧倒的な差がついた。林野庁統計によれば、16年の生シイタケ生産量は全国で6万9707トン、うち原木栽培は7322トンに過ぎない。天候や気温の影響を受けやすい原木栽培は生産量が上下しがちだが、概ね全体1割前後にとどまっている。

1975年から一貫して原木シイタケ栽培に取り組んでいる飯泉さんによれば、見た目はもとより、食品成分を調べても両者の間に明確な差は認められないそうだ。それでもなぜ原木栽培を続けるかといえば、「食べれば分かる」という味覚へのこだわりにほかならない。大口出荷先の生協からも、飲食店からも原木シイタケ以外の取引はしないと言われている。

➡NEWSつくばが取材活動を継続するためには皆様のご支援が必要です。NEWSつくばの賛助会員になって活動を支援してください。詳しくはこちら

スポンサー
一誠商事
tlc
sekisho




spot_img

最近のコメント

最新記事

掃いても、掃いても《短いおはなし》45

【ノベル・伊東葎花】 私は、イチョウの木でございます。神社の参道へと続く道に、たくさんの仲間と一緒に立っております。このあたりでは、少しばかり有名な並木道でございます。 青々と茂っていた葉は、秋が深まると黄金色に染まります。それはそれは素敵な散歩道になりますのよ。葉っぱたちは、風にはらはらと舞い落ちて、地面に黄色のじゅうたんを敷き詰めます。ため息が出るほど美しい晩秋の風景ですわ。 ところでこの春、神社の長男が嫁をもらいました。その嫁が、まあ、きれい好きと言いますか、風情がないと言いますか、せっかくの美しい葉っぱたちを箒(ほうき)で掃いてしまうんです。竹箒でザッ、ザッ、ザッ、と葉っぱを集め、ゴミ袋に入れるんです。何ともまあ、風情のない現代っ子でございます。 こちらとしても、負けるわけにはまいりません。 「おまえたち、あの女めがけて散りなさい」 私が命令すると、葉っぱたちは嫁をめがけて、まるで矢のように降りました。 「ああ、もうっ、掃いても、掃いてもきりがない」 嫁はとうとう掃くのをやめて、家に帰って行きました。勝ちました。 …と思ったのもつかの間、今度は、大きな熊手を持って現れたのでございます。あんなものでかき集められたら、たまったものではありません。私たちは、嫁がいなくなるまで待って、ふたたび葉っぱの雨を降らせました。負けるものですか。 そんなバトルが、数日続きました。嫁がどんなにきれいに掃いても、翌朝にはまた黄色のじゅうたんが敷かれます。それでも嫁は懲りもせず、毎日箒を持ってやってくるんです。こういうのを、イタチごっこというのかしら。 次の日は、朝から雨でした。よく降る雨でございます。並木道を、レインコートを着た小学生が走って来ました。通学路ではないけれど、おそらく学校までの近道なのでしょう。遅刻しそうなのか、赤い顔をして、一生懸命走っています。子供の長靴が葉っぱを踏んだ時、つるりと滑ってバランスを崩しました。 「まあ大変」 私は、とっさに枝を伸ばして、子供を抱き上げました。子供は、転ばずにすみましたが、よほど驚いたのでしょう。大きな声で泣きました。 それを聞きつけて、嫁が走ってまいりました。 「滑っちゃったのね。気をつけて。走っちゃダメよ」 優しく頭をなでて、女の子を見送りました。そして私の幹に手を当てて、誰にともなくつぶやいたのでございます。 「きれいなんだけど、滑るんだよね」 嫁は、黄色の葉っぱをひとつ拾いあげ、指で優しく汚れを落としたのでございます。 「雨が止んだら、また掃かなくちゃ」 あら、宣戦布告とは頼もしい。 でもね、ごらんなさい。もう葉っぱが、いくらも残っていませんの。もうすぐ12月ですもの。 「どうぞ、好きなだけお掃きなさい」 あら、私ったら…。どうやらこの嫁が、少しだけ好きになったようでございます。 (作家)

スズメの記憶二つ《鳥撮り三昧》7

【コラム・海老原信一】今回はスズメの話を二つしてみます。一つは、野鳥の観察・撮影を始める前のことです。小学生3人の子供たちを連れ、栃木県小山市にあった「小山遊園地」へ出かけた際の出来事です。当時、この遊園地は存在感がある施設でしたが、20年ほど前に閉園となり、今は大型ショッピングセンターになっています。 運転席の窓を全開にして、下館から結城を抜け、小山市内を走っていた時、全開した運転席に小さな塊が飛び込んできました。驚きましたが、すぐスズメであるのが確認できました。車内はこの出来事に興奮状態です。 スズメは自分のいる所が本来の場所ではないと思ったのでしょう、フロントガラスに向かい飛び出そうと羽をバタつかせています。私も、まさかスズメが同乗者になるとは想像もできませんでしたが、右手を伸ばし、ダッシュボード上で動けなくなっているスズメ保護できました。ケガはしてないようでしたので、窓から放鳥しました。 もう一つは、野鳥の観察・撮影を始めて10年ぐらい経った時のことです。「花と鳥」という定番の情景を求めて、何日か同じ場所に通っていました。今日で一区切りと思いながら、周りを眺めていると、視界の下方で何かが動き、自分の方に這い寄って来る気配。見ると、1羽のスズメが足元に来てうずくまりました。 人からは逃げるはずのスズメがなぜ? そう思ってよく見ると、足元にうずくまったまま動く気配がありません。目は半分閉じられ、ゆっくりとした呼吸が感じられるほどでした。見るからに弱っており、残された時間の長くないことがわかりました。 足元に寄って来たのは、冷えてきた自分の体を温めたいと人の体温を求めたからではないか? でも私はじっとしている以外になすすべがなく、かなりの時間そのままでいました。やがて動かなくなったスズメをそのまま置き去りにするのが忍びなく、近くのヤブに隠しました。生きている時間を少しでも遅らせることができればと。 二つの記憶。一つは楽しかった記憶。もう一つは切なかった記憶。これからも、野鳥との関わりの中で多くの記憶を残せたらと思っています。(写真家)

いくつかの符合 記憶の継承(1)《文京町便り》46

【コラム・原田博夫】体験・記憶の継承は、意識的に行われる場合もあるが、偶然の場合もある。戦争や東日本大震災などは前者で、しかも社会的な取り組みが求められる。家族・知人の体験の多くは後者で、その発現は一般化しにくい。今回は、私自身の体験を紹介したい。 私の母方の祖父(1888~1976年)は、県会議員(1907~15年)を父に持ち、自身も地元の小学校長・村長を務め、二男五女に恵まれた(私の母は三女)。加えて、進学先の土浦中学(現在の土浦一高)では友人(後に町長)にも恵まれ、その長女を自分の長男(後に町長)の嫁に迎えた。その祖父が、私が土浦一高に進学した際、自分自身の体験を基に、友人との出会いの重要性を語り、激励してくれた。 武井大助と小泉信三のこと その祖父(自身は第7回=1908年3月=卒)は「自分が入学した土浦中学には、立派な先輩たちがいた。とりわけ、武井大助氏(第3回=1904年3月=卒、1887~1972年、東京高商=現在の一橋大学=卒、海軍主計中将。歌人としても知られ、戦後、安田銀行・文化放送社長などを歴任)は、学業成績もさることながら人格も高潔だった」と話してくれた。残念ながら、武井氏の具体的なエピソードを聞きそびれたが、この先輩の名前は記憶していた。 その後、私は慶應義塾に進学し、塾生(在学生)・塾員(卒業生)の必読書『学問ノススメ』『福翁自伝』『海軍主計大尉 小泉信吉』(前2書は福沢諭吉著、3冊目は小泉信三著)などを手に取ってみた。塾長・小泉信三(1888~1966年)は、『…小泉信吉』(1946年、300部限定私家版)で、1942年10月に南太平洋で戦没した一人息子への哀切をつづった。 自身は東京大空襲(1945年5月)で瀕(ひん)死の大火傷(やけど)を負い、『…小泉信吉』の公刊を固辞していたが、没後の1966年、文藝春秋から刊行された(文春文庫、1975年)。 一読では気づかなかったが、再読・三読してみると、信吉主計中尉(戦死後大尉)の死後、武井主計中将・海軍省経理局長が小泉邸へ弔問。信三博士は、海軍省へお礼に伺候(しこう)するなど、信三博士と武井中将の交流エピソードが登場する。この武井氏は土浦中学のあの大先輩ではないか、と思い当たった。しかも武井氏は、信吉中尉が乗船し轟沈(ごうちん)した戦艦・八海山丸の艦長・中島喜代宣大佐(戦死後少将)と中学同級生だったそうだ。 同書では、学校名への具体的な言及はないが、これは明らかに土浦中学である。歴史上の(偶然の)奇縁をもって、この関係性を明記しておきたい。 武井氏は二度目の弔問の際、「一筋にいむかふ道を益良夫の ゆきてかへらむなにかなげかむ」と詠んだそうである。これは、わが子顕家の戦没を嘆く北畠親房の気持ちにつながるものだ、と信三博士は記している。親房が、南朝・後醍醐天皇の意を体して、筑波山麓の小田に籠(こも)ったことは知られている。さらに、『…小泉信吉』私家本を出す際、編集者の依頼で横山大観(水戸出身)に巻頭の絵(群青で日ノ出の富士)を描いてもらいながらも、戦災で原稿とともに焼失したことも、茨城県人としては縁の符合を感じざるを得ない。 アダム・スミス輪読会 武井氏がこれほどまでに信三博士とのつながりを大事にしていたのは、東京高商教授・福田徳三(1874~1930年)の千駄ヶ谷宅でのアダム・スミス輪読会(福田が慶應義塾大学教授だった1905~18年ころか?)に、2人が学生として同席して以来の関係性に由来するようである。 ちなみに、武井氏は1911年(当時は中主計)、英国王ジョージ5世戴冠祝賀で英国を訪れた際、スミスの生地・カーコーディに足を延ばしたが、スミスの痕跡はほとんど残っていなかった。しかしその後、案内した現地の人たちによってスミス顕彰の動きが始まったようである。このエピソードは、小泉信三著『読書雑記:アダム・スミス』(文藝春秋新社、1948年)に記されている。(専修大学名誉教授)

自動運転バス「レベル4」27年度実現へ つくば市で3回目の実証実験開始

つくば市で21日、公道を使った自動運転バスの走行テストを行う実証実験が始まった。ルートは、つくば駅から筑波大学構内を循環する約10キロの既存のバス路線で、所要時間は約40分。一般の乗客を乗せて1日4便の運行を来年1月23日まで続ける予定だ。同市は2027年度に、運転手不在の状態で、特定の条件下で完全な自動運転が可能となる「レベル4」の実現を目指している。 この実験は、昨年と今年1月に続いて3回目となる。今回はこれまでと同様、状況に応じて運転手が操作を行う「レベル2」での実施となる。 今回は、国の補助金を活用して関東鉄道が自動運転バス車両を新たに購入し、同社のバス路線「筑波大学循環」内のすべてのバス停に停車するなど、新たな取り組みも加わった。また、今年8月にはつくば市を代表として、筑波大学、関東鉄道、KDDIが「つくば自動運転社会実装推進事業コンソーシアム」を設立。民間5社の協力も得て実施されている。 今回使用されている車両は、名古屋市のベンチャー企業ティアフォーによる自動運転EVバス「ミニバス 2.0」。最高時速は70キロ、定員は28人だが、自動運転時は時速35キロ、定員16人で走行する。走行時には8台のカメラと13台のレーザーセンサーが周囲の状況を分析し、事前に設定した走行ルートに従って自動安全システムが交差点やカーブでの停止・発進、加減速などを行う。緊急時には乗車する運転士が手動運転で対応する。この日は通信トラブルが発生し、バス停での停車・発車時などで手動操作に切り替え運行した。 つくば市科学技術戦略課の中島央樹さんは、今回の実証実験について「国は、全国で自動運転サービスの実装を2025年度に50カ所、27年度に100カ所以上とする目標を掲げている。つくば市もこれに合わせ、27年10月に完全に運転手がいないレベル4の実装を目指している」とし、「昨年は6カ所のバス停のみ停車したが、今回は、路線バスと同じ動きをすることを目指し、29カ所すべてに停まるようにした。以前はつくばセンターのロータリー外側から発車していたものを、内側からの出発に変更した」と説明し、「つくば市に限らず、中心部と周辺地域の移動格差が課題となっている。つくばは車が主な移動手段で、交通渋滞や事故が問題になっているほか、交通事業者では運転手不足による減便などの課題もある。自動運転バスの運行を通じて公共交通を地域に根付かせ、こうした課題の解決につなげていきたい」と目標を語った。 同市は今年度当初予算で、国の国庫支出金を財源に、自動運転バスの購入費、自動運転地図作製費、レベル4通信費など約1億3400万円と、自動運転バス年間維持費約1370万円の計1億4770万円を計上した。今年度は実証実験とレベル4許認可申請、26年度は実証実験、27年は定常運行を目指している。(柴田大輔) https://youtu.be/FfSoeYhtxLI ◆乗車料金は無料。QRコードで希望の時間を事前予約する。事前予約がない場合は先着順となり、定員に達した場合は乗車できないことがある。詳しくはつくば市ホームページへ。