【相澤冬樹】今年も3.11は被災地に赴いた。「3月11日と8月15日は現場に入ると決めている。それが僕なりの慰霊の仕方」というのは、つくば市在住の写真家、齋藤さだむさん(70)。足を運ぶ先の1つが北茨城市磯原で、夜、沖にライトアップされた岩礁が浮かびあがる。茨城百景の1つに数えられる二ツ島、今はひとつの島影しか見えない。19日から水戸市の画廊で始まる写真展に備えて、今年も夜の海にカメラを向けた。
島が1つになったのは、地震と津波で崩落し、消失したため。齋藤さんは震災の半年後に訪れ、あまりの変わりようにショックを受けた。二ツ島はまだフィルムカメラの時代だった1998年にも撮っていた。岩に張り付くように緑の木々が写っている。それらが岩の一部もろとも津波に持っていかれて、鉱物標本のような姿になってしまった。
1980年代を筑波大学の技官として過ごした齋藤さんは、建設段階にあった筑波研究学園都市の風景や建築物を撮り続け、内外で評判になった。自らのテーマを「場所の変容」と定めて90年に退職、写真家として独立した。
震災直後、同大学の芸術学系で交流のあった装丁家の守先正さんに誘われて、福島県南相馬市に入った。同市の詩人、若松丈太郎さんの詩集『ひとのあかし』(アーサー・ビナート英訳、清流出版刊)に載せる写真撮影のためだった。チェルノブイリの現実を福島の未来に重ね合わせるように書いた1994年の作「神隠しされた街」などで、危険性をいち早く唱えていたと話題になった詩集だ。
齋藤さんは「背中を押されるように」、東北に足繁く通っては、青森から茨城までの海岸線沿いの被災地に立ち入ることになる。津波に襲われた土地には、住宅や工場の基礎だけが残っていた。
「草が少し生えただけ」
まさに「変容」の場所、生業である建築写真を撮るスタイルのままカメラを向けることができた。それらを集め、2012年4月には、いわき市で写真展「不在の光景」を開いている。しかし、福島第1原発の被災地だけは「まったく違う現れ方だった」という。線量計を携行して双葉町、浪江町などの帰還困難、居住制限区域にも入った。「被災者にお願いして、同行者として入れてもらった。何も戻ってきていないのを痛感する」ばかりだった。
齋藤さんは、この後も各地で何回かの写真展を開いているが、被災地を撮った写真はすべて額装せずに展示した。カメラアングルの外側にも被害が広がり、変容があることを伝えたかったのだ。そんななか、1998年に撮った二ツ島の写真は額縁に収めていたため、2011年の写真も額装し組写真にして発表した。残酷な時間の変容が伝わってくる。
そしてことし3月、齋藤さんは三たび夜の二ツ島を訪ねた。19日から水戸市のギャラリーしえるで始まる写真展「その後」に向けての撮影行だった。「ほとんど変わっていない。草が少し生えただけだった」という二ツ島を撮ってきた。それらを含め、今回約30点を6日間展示する。
会期が短かめなのは、できるだけ会場に詰めて、来場者と「その後」を語り合いたいためという。それぞれの目にはどんな「変容」が映るだろうか。
▼齋藤さだむ写真展「その後」 3月19日から24日、ギャラリーしえる(水戸市見川2434-1)。会場の電話:029-241-5696