水曜日, 11月 26, 2025
ホームつくば精度を高めて「フェイズ3」入り KEK、BelleⅡ実験を再始動

精度を高めて「フェイズ3」入り KEK、BelleⅡ実験を再始動

【相澤冬樹】高エネルギー加速器研究機構(つくば市大穂、山内正則機構長)は11日、小林誠、益川敏英両博士のノーベル物理学賞受賞に結びつく成果を残した加速器、KEKB(ケックビー)の後継機であるSuper(スーパー)KEKBを再始動、Belle(ベル)Ⅱ実験は新たなステップ「フェイズ3」に突入した。

同実験は26の国と地域から900人を超す研究者が参加する国際共同実験。地下11メートルに周長約3キロの衝突型加速器が設置されており、電荷の異なる電子・陽電子をそれぞれ7GeV(ギガ電子ボルト、1GeVは10億電子ボルト)、4Gevのエネルギーで加速し、正面衝突させる。このときB中間子・反B中間子が対で生成され、短時間で崩壊するが、その模様は衝突地点に設けられた検出装置BelleⅡで追跡される。

シールド遮へいされビーム入射を待つBelle II 測定器(中央青い枠が見える)

この衝突エネルギーは、欧州原子核研究機構(CERN)の LHC加速器に比べると小さいものの、大量の衝突反応データ生成によってカバーする。ルミノシティ(衝突頻度)重視の設計という。陽子・反陽子衝突のLHCに比べ、電子・陽電子衝突はバックグラウンドで騒がしい存在となる余計な素粒子を生成しないため、B中間子崩壊の追跡を容易にする。

2010年から大改造に着手されたSuperKEKBは、16年の試運転の「フェイズ1」、18年に初衝突を記録した「フェイズ2」と準備・調整を進めてきた。昨年7月以来の再起動となるフェイズ3では、KEKBが持つルミノシティの世界最高記録を40倍にまで高める計画。11日午後1時すぎ、制御室で始動のキーが入った。調整運転の後、ビームは衝突型の円形加速器に入射される。この先、断続的に運転を続け、早ければ1年後にはルミノシティの目標数値をたたき出したい構えでいる。

B中間子崩壊から新物理探求

ビームを待つBelleⅡ側ではフェイズ2後に、バーテックス検出器(VXD、崩壊点検出器)が取り付けられた。B中間子が崩壊した場所を測定するための検出器で、時間経過を追って観測できるのが特色。今後数年かけてBelle実験の約50倍のデータ量を蓄積し、精度を高める。「小林・益川理論」の新たな証明ばかりか、標準理論の発展型に至る道筋が見つかるかもしれない。

KEK素粒子原子核研究所、中尾幹彦教授は、BelleⅡ実験では宇宙初期に隠された新しい物理法則の発見が期待されるという。「たとえば宇宙のダークマター(暗黒物質)探しでは、これまでアクシオンのような極めて小さい質量の領域か、極めて質量の重い超対称性粒子(SUSY粒子)が候補になってきたが、案外中間領域は調べられていなかった。BelleⅡで測定可能な質量かもしれない」と狙いの一端を語った。

➡NEWSつくばが取材活動を継続するためには皆様のご支援が必要です。NEWSつくばの賛助会員になって活動を支援してください。詳しくはこちら

スポンサー
一誠商事
tlc
sekisho




spot_img

最近のコメント

最新記事

神様の日常は人間の非日常《マンガサプリ》1

【コラム・瀬尾梨絵】私はマンガの大ファン。いろいろな作品を主に冊子で読んでいるが、このコラムでは私が面白いと思ったものを紹介していきたい。初回は、筑波山をモデルにして神様も登場する「ひとひとがみ日々」(古山フウ著 全5巻 小学館)。神様が出てくるというと、枕詞に「いにしえの〜」とか、「昔々…」なんて言葉がついてくるイメージが強いと思うが、背景の時代は限りなく現代に近い。 舞台は、町から少し離れた「ミツカド山」の麓。隣には「フタツカド山」という二峰の山もあり、筑波山の周りの山々のような地形だ。そこの廃村に、人間の姿になった神々が暮らしている。石の祠(ほこら)の神のイシ、菊の神の菊など、個性的な能力を持った神々が登場する。 例えば、猯(まみ)と呼ばれる神はタヌキのように姿を自在に変えられる。たくさんの神が登場する中で、宝塚がお好きな方は、「ヤネ」という神に注目してほしい。しかし、その力は人間の姿になる前より衰えてはいるようだ。少し時間がたつと大けがが治り、神様と人間の狭間でチグハグな様子がかわいらしい。 「人間1年生感」の神々 彼らはなぜ自分たちが人間の姿になったのか、思い出せないまま時を過ごしている。元は人間が暮らしていた廃村に、人間の姿になった神様たちが工夫を凝らして生活する姿も「人間1年生感」があり、ほほ笑ましい。 体の作りは人間なので眠くもなるし、空腹にもなる。神の姿だった時ではすることの無かった食事をする。食材の調達は主に、物の怪たちが新月の際に開く市でそろえる。ここまで書くと本当に人間のようだが、市でのお代の支払いは、髪の毛数本だったり爪の先だったり、突然人間らしくない。 イタチやトカゲなどの姿をしている物の怪たちにとって、神様の体の一部というのは力のあるものらしく、お代をもらった物の怪が当たり前のように髪の毛を食べていて、こちらの喉に引っかかりそう。 筑波山がモデルの「フタツカド山」 食事をするシーンが何度もあるのだが、これら全ておいしそうなのも注目したい。山菜を使った煮物や、市で売っている冷やしアメ、ペンキの缶で沸かしたミソ汁まで様々な食べ物が出てくる。個人的にフキミソのおにぎりは確実においしいと思う。素朴で魅力的な料理の数々と、ほっこりする作画が相まってとてもお腹が空く。 筑波山をモデルにしたという山も「フタツカド山」として出てくる。立派な神社があり、登山客も多く、まさしく筑波山のようだ。神社があるのでこの山にも神様たちがおり、それぞれの山の神同士交流も描かれるのだが、これもまた人間(?)模様が渦巻いており、ほほ笑ましい。 冒頭でも記したが、ミツカド山の神々はなぜ人間の姿になったかは本人たちも覚えていない。人間に忌み嫌われ打ち捨てられてしまったのか、何か良からぬものが働いているのか。力があるとはいえ、人間の姿になる以前よりも弱くなっているということは、ゆっくりと消滅へ向かっているのかもしれない。優しい作画と少し暗さを感じるこのバランスが病みつきになる作品だ。(牛肉惣菜店経営) 【せお りえ】土浦市出身。飯村畜産(土浦市)の直営店iimura-ya(いいむらや、つくば市二の宮2丁目)店長。地域密着型の弁当・惣菜・精肉販売店に10年間従事。日々の店舗運営で、多様な年代、多様な価値観を持つお客様と接する中で培った人間観察眼を、マンガの選定に生かす。コラムでは、疲れた心にサプリとして、マンガで癒され明日への活力になる一冊を紹介していく。

掃いても、掃いても《短いおはなし》45

【ノベル・伊東葎花】 私は、イチョウの木でございます。神社の参道へと続く道に、たくさんの仲間と一緒に立っております。このあたりでは、少しばかり有名な並木道でございます。 青々と茂っていた葉は、秋が深まると黄金色に染まります。それはそれは素敵な散歩道になりますのよ。葉っぱたちは、風にはらはらと舞い落ちて、地面に黄色のじゅうたんを敷き詰めます。ため息が出るほど美しい晩秋の風景ですわ。 ところでこの春、神社の長男が嫁をもらいました。その嫁が、まあ、きれい好きと言いますか、風情がないと言いますか、せっかくの美しい葉っぱたちを箒(ほうき)で掃いてしまうんです。竹箒でザッ、ザッ、ザッ、と葉っぱを集め、ゴミ袋に入れるんです。何ともまあ、風情のない現代っ子でございます。 こちらとしても、負けるわけにはまいりません。 「おまえたち、あの女めがけて散りなさい」 私が命令すると、葉っぱたちは嫁をめがけて、まるで矢のように降りました。 「ああ、もうっ、掃いても、掃いてもきりがない」 嫁はとうとう掃くのをやめて、家に帰って行きました。勝ちました。 …と思ったのもつかの間、今度は、大きな熊手を持って現れたのでございます。あんなものでかき集められたら、たまったものではありません。私たちは、嫁がいなくなるまで待って、ふたたび葉っぱの雨を降らせました。負けるものですか。 そんなバトルが、数日続きました。嫁がどんなにきれいに掃いても、翌朝にはまた黄色のじゅうたんが敷かれます。それでも嫁は懲りもせず、毎日箒を持ってやってくるんです。こういうのを、イタチごっこというのかしら。 次の日は、朝から雨でした。よく降る雨でございます。並木道を、レインコートを着た小学生が走って来ました。通学路ではないけれど、おそらく学校までの近道なのでしょう。遅刻しそうなのか、赤い顔をして、一生懸命走っています。子供の長靴が葉っぱを踏んだ時、つるりと滑ってバランスを崩しました。 「まあ大変」 私は、とっさに枝を伸ばして、子供を抱き上げました。子供は、転ばずにすみましたが、よほど驚いたのでしょう。大きな声で泣きました。 それを聞きつけて、嫁が走ってまいりました。 「滑っちゃったのね。気をつけて。走っちゃダメよ」 優しく頭をなでて、女の子を見送りました。そして私の幹に手を当てて、誰にともなくつぶやいたのでございます。 「きれいなんだけど、滑るんだよね」 嫁は、黄色の葉っぱをひとつ拾いあげ、指で優しく汚れを落としたのでございます。 「雨が止んだら、また掃かなくちゃ」 あら、宣戦布告とは頼もしい。 でもね、ごらんなさい。もう葉っぱが、いくらも残っていませんの。もうすぐ12月ですもの。 「どうぞ、好きなだけお掃きなさい」 あら、私ったら…。どうやらこの嫁が、少しだけ好きになったようでございます。 (作家)

スズメの記憶二つ《鳥撮り三昧》7

【コラム・海老原信一】今回はスズメの話を二つしてみます。一つは、野鳥の観察・撮影を始める前のことです。小学生3人の子供たちを連れ、栃木県小山市にあった「小山遊園地」へ出かけた際の出来事です。当時、この遊園地は存在感がある施設でしたが、20年ほど前に閉園となり、今は大型ショッピングセンターになっています。 運転席の窓を全開にして、下館から結城を抜け、小山市内を走っていた時、全開した運転席に小さな塊が飛び込んできました。驚きましたが、すぐスズメであるのが確認できました。車内はこの出来事に興奮状態です。 スズメは自分のいる所が本来の場所ではないと思ったのでしょう、フロントガラスに向かい飛び出そうと羽をバタつかせています。私も、まさかスズメが同乗者になるとは想像もできませんでしたが、右手を伸ばし、ダッシュボード上で動けなくなっているスズメ保護できました。ケガはしてないようでしたので、窓から放鳥しました。 もう一つは、野鳥の観察・撮影を始めて10年ぐらい経った時のことです。「花と鳥」という定番の情景を求めて、何日か同じ場所に通っていました。今日で一区切りと思いながら、周りを眺めていると、視界の下方で何かが動き、自分の方に這い寄って来る気配。見ると、1羽のスズメが足元に来てうずくまりました。 人からは逃げるはずのスズメがなぜ? そう思ってよく見ると、足元にうずくまったまま動く気配がありません。目は半分閉じられ、ゆっくりとした呼吸が感じられるほどでした。見るからに弱っており、残された時間の長くないことがわかりました。 足元に寄って来たのは、冷えてきた自分の体を温めたいと人の体温を求めたからではないか? でも私はじっとしている以外になすすべがなく、かなりの時間そのままでいました。やがて動かなくなったスズメをそのまま置き去りにするのが忍びなく、近くのヤブに隠しました。生きている時間を少しでも遅らせることができればと。 二つの記憶。一つは楽しかった記憶。もう一つは切なかった記憶。これからも、野鳥との関わりの中で多くの記憶を残せたらと思っています。(写真家)

いくつかの符合 記憶の継承(1)《文京町便り》46

【コラム・原田博夫】体験・記憶の継承は、意識的に行われる場合もあるが、偶然の場合もある。戦争や東日本大震災などは前者で、しかも社会的な取り組みが求められる。家族・知人の体験の多くは後者で、その発現は一般化しにくい。今回は、私自身の体験を紹介したい。 私の母方の祖父(1888~1976年)は、県会議員(1907~15年)を父に持ち、自身も地元の小学校長・村長を務め、二男五女に恵まれた(私の母は三女)。加えて、進学先の土浦中学(現在の土浦一高)では友人(後に町長)にも恵まれ、その長女を自分の長男(後に町長)の嫁に迎えた。その祖父が、私が土浦一高に進学した際、自分自身の体験を基に、友人との出会いの重要性を語り、激励してくれた。 武井大助と小泉信三のこと その祖父(自身は第7回=1908年3月=卒)は「自分が入学した土浦中学には、立派な先輩たちがいた。とりわけ、武井大助氏(第3回=1904年3月=卒、1887~1972年、東京高商=現在の一橋大学=卒、海軍主計中将。歌人としても知られ、戦後、安田銀行・文化放送社長などを歴任)は、学業成績もさることながら人格も高潔だった」と話してくれた。残念ながら、武井氏の具体的なエピソードを聞きそびれたが、この先輩の名前は記憶していた。 その後、私は慶應義塾に進学し、塾生(在学生)・塾員(卒業生)の必読書『学問ノススメ』『福翁自伝』『海軍主計大尉 小泉信吉』(前2書は福沢諭吉著、3冊目は小泉信三著)などを手に取ってみた。塾長・小泉信三(1888~1966年)は、『…小泉信吉』(1946年、300部限定私家版)で、1942年10月に南太平洋で戦没した一人息子への哀切をつづった。 自身は東京大空襲(1945年5月)で瀕(ひん)死の大火傷(やけど)を負い、『…小泉信吉』の公刊を固辞していたが、没後の1966年、文藝春秋から刊行された(文春文庫、1975年)。 一読では気づかなかったが、再読・三読してみると、信吉主計中尉(戦死後大尉)の死後、武井主計中将・海軍省経理局長が小泉邸へ弔問。信三博士は、海軍省へお礼に伺候(しこう)するなど、信三博士と武井中将の交流エピソードが登場する。この武井氏は土浦中学のあの大先輩ではないか、と思い当たった。しかも武井氏は、信吉中尉が乗船し轟沈(ごうちん)した戦艦・八海山丸の艦長・中島喜代宣大佐(戦死後少将)と中学同級生だったそうだ。 同書では、学校名への具体的な言及はないが、これは明らかに土浦中学である。歴史上の(偶然の)奇縁をもって、この関係性を明記しておきたい。 武井氏は二度目の弔問の際、「一筋にいむかふ道を益良夫の ゆきてかへらむなにかなげかむ」と詠んだそうである。これは、わが子顕家の戦没を嘆く北畠親房の気持ちにつながるものだ、と信三博士は記している。親房が、南朝・後醍醐天皇の意を体して、筑波山麓の小田に籠(こも)ったことは知られている。さらに、『…小泉信吉』私家本を出す際、編集者の依頼で横山大観(水戸出身)に巻頭の絵(群青で日ノ出の富士)を描いてもらいながらも、戦災で原稿とともに焼失したことも、茨城県人としては縁の符合を感じざるを得ない。 アダム・スミス輪読会 武井氏がこれほどまでに信三博士とのつながりを大事にしていたのは、東京高商教授・福田徳三(1874~1930年)の千駄ヶ谷宅でのアダム・スミス輪読会(福田が慶應義塾大学教授だった1905~18年ころか?)に、2人が学生として同席して以来の関係性に由来するようである。 ちなみに、武井氏は1911年(当時は中主計)、英国王ジョージ5世戴冠祝賀で英国を訪れた際、スミスの生地・カーコーディに足を延ばしたが、スミスの痕跡はほとんど残っていなかった。しかしその後、案内した現地の人たちによってスミス顕彰の動きが始まったようである。このエピソードは、小泉信三著『読書雑記:アダム・スミス』(文藝春秋新社、1948年)に記されている。(専修大学名誉教授)