日曜日, 3月 26, 2023
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山口絹記

素人になり切れない世界の片隅で 《ことばのおはなし》50

【コラム・山口絹記】ファインダー視野率、ダイナミックレンジ、開放描写、色収差。これらの単語、何の用語かわかるだろうか。 カメラとそのレンズに関するマニアックな専門用語である。あえてマニアックと書いたのは、こんな用語知らなくても写真は撮れるからだ。あえて言い切ってしまおうか。こんな用語知らなくていい。知らなくていい、のだけど、知らないでいる、ただそれだけのことが、私たちの生きるこの世界では、もはや難しくなってしまった。 例えばカメラが欲しいと思った時、まず何をするだろう。身近に写真をやっている知り合いがいなければ、きっとおすすめのカメラを見つけるためにネットで検索をするだろう。 おびただしい数のおすすめカメラが提示され、使用するレンズの大切さを一から教示してくれるはずだ。ついでにプロレベルの撮影技術から、あらゆる専門用語にまみれたレビュー情報を摂取できる。これらの知識を雑誌や専門書で手に入れようとしたら、なかなかの金額がかかるはずだ。しかし、ネットで閲覧している限り、全部無料である。ああ素晴らしい新世界。 とはいえ、ある程度の前提知識があればありがたい情報も、これから何かを始めようとしている者には過度な情報の激流に違いない。無料でいくらでも情報が手に入るこの世界線で手に入らないモノ。それは情報に対する適切なフィルターなのだ。 「いちいちうるせぇな」「これでいいのだ」

あまり話さない息子と私の散歩道《ことばのおはなし》49

【コラム・山口絹記】前々回の記事(7月1日付)で、我が家の1歳児の息子があまりことばを話さないというおはなしをした。私としては特に心配はしていなかったのだが、案の定ぼちぼちと話すようになってきた。 私が帰宅すると「パパ!パパ!」と駆け寄ってくるし、私のお気に入りのペンポーチ(長沢芦雪の「白象黒牛図屏風」に描かれた白い犬がモチーフ)を奪って逃げるときは、「わんわん!わんわん!」と絶叫しながら走り去っていく。「鼻」という単語を覚えてからは、「はなぁ!」と言いながら、どこまでも追いかけてきて、すさまじい勢いで家族の鼻の穴に指を突っ込んでくる。指が細いので思いの外奥まで到達して、正直かなり怖い。 また、こちらのことばの意味はかなり理解しているようで、「お姉ちゃんにコレ渡してきて」とか「冷蔵庫にしまってきて」みたいなお願いも言った通りにやってくれる。しかし、私とふたりきりの時は相変わらずあまり話さない。 話す相手を選ぶ 省エネモード 先日も息子が新しい靴を購入したので、「せっかくだからお散歩いこうか」と2人で散歩に出たのだが、2人とも基本的に無言である。放っておくとどこかに走っていってしまうので、「手、つなご」と声をかけると、無言で私の顔をじっと見つめてから右手を差し出してきた。また静かになる。 行きつけのコーヒー屋さんに着くと、まず店員のお姉さんに手を振ってご挨拶。コーヒー豆を買って、お姉さんに「牛乳あるけど飲む?」と聞かれると「ぎゅっぎゅ(ぎゅうにゅう)!」と笑顔で返答。なんだおまえ、お姉さん相手なら話すのか?...

痛みのおはなし《ことばのおはなし》48

【コラム・山口絹記】この1年と半年ほど、しつこい肩こりに悩まされている。「痛い」のかと問われると、痛いというよりは、重いとかだるい、という方が近い。「耐えられないほどなのか」と問われると、まぁそれほどではない。思い返せば、母はひどい肩こり持ちで、肩こりからくる頭痛で寝込んでいることもあった。そんなものに比べれば、私の肩こりなどきっと軽いものなのだろう。 とはいえ、つらいものはつらい。痛みや苦しみなどというものは、どこまでも主観的なものなので、他人の痛みと比べて自分の痛みが軽いから楽になれる、なんてことは当然ないし、自分がどれだけ苦しんでいても、それを見た他者の苦しみが軽くなることもない。だから、むやみに苦しみを訴えないようにしている。 一方で、もともと、肩こりとは無縁の人生だったこともあり、肩こりに悩む人に出会っても、「ああ、大変だなぁ」程度にしか感じてこなかった私も、すっかり共感できるようになった。なってしまった。一緒になって「つらいよね」と言い合っても、肩こりがやわらぐことはないのだけど、ふとした拍子に寄り添えるというのは、これはこれで悪いことではないように思う。まったく難しいなあ、と思う。 苦痛を正確に伝えられない 2カ月ほど前から、ついに鍼灸(しんきゅう)院に通うようになった。自分的には最後の手段、という感じである。つらさは一進一退だが、それでも毎回親身になってくれる鍼灸師さんと、痛みの原因について話し合いながら、日々の生活を改善するようになった。 それにしても、痛みをことばで伝えるというのはなんと難しいことだろう。今までも、海外生活のなかで、自分の痛みや病気などの症状を第2言語で伝えることの難しさは味わったことはある。しかし、もっともっと繊細な意味で、そもそも「重い」とか、「だるい」というのはどういうことなのかと改めて考えてみると、「重いもんは重い」「だるいと言ったらだるい」以上の説明ができなかったりするのだ。

あまり話さない息子と、あまり話さない私《ことばのおはなし》47

【コラム・山口絹記】あなたは、生まれてはじめて自分が発したことばを覚えているだろうか。 まぁ、覚えていないだろう。でも、親であれば自分のこどもが初めて発した意味のある(と思われる)ことばは覚えているのではないだろうか。我が家の上の娘も、最初は「まんまんま」とか「わんわん」とか、おそらく統計的にもよくあることばから話し始めていた。 しかし、下の1歳になる息子があまり話さない。 今年から保育園に通い始めたのだが、ついに保育園の先生に「あまり話さない」ということで心配されてしまっていた。普通はそろそろ「ママ」とか「わんわん」とかいうんですけど、ということらしい。かわいそうに、2人目のこどもということで、だいぶ適当に育てられている彼。母子手帳に書かれているような発育具合のチェックも適当になっていて気が付かなかった。 とはいえ、特に心配していなかったのには一応理由があった。保育園の先生にはなんとなく言えなかったのだが、すでにいろいろボキャブラリーがあったのだ。 一つは「でてって?(出ていけの意)」。何か気に食わないことが起きたり、私の帰宅時に飛び出すひとこと。これは姉のマネである。

こどもと一緒に本を読むということ③ 《ことばのおはなし》46

【コラム・山口絹記】娘とふたりで山を登っていた時のことだ。娘に昔のことを聞かれ、「うーん、なんだっけ。思い出せないな」と答えると、「パパは何か望みをかなえちゃったのかもしれないね」と言われてハッとしたことがある。 この、「何か望むものを得た代わりに、大切な記憶を失くす」という設定は、ミヒャエル・エンデの『はてしない物語』で主人公のバスチアンが体験するものなのだ。 娘と私の会話には、一緒に読んだ物語の登場人物がたびたび現れる。彼らは私たちにとって、よく知る共通の知り合いや友人のようなものなのだ。 そして彼らが会話に登場するたびに、私と娘の間で彼ら自身やその背景にある物語に対する印象が大きく異なっていることに驚かされる。 ひとつの物語でも、それを受け取った人によって抱く感情や印象が異なるのは、なぜなのだろう。質量のないことばが、私たち一人ひとりに届いたとき、それぞれに違った影響を与えるというのは、当然のことのようで、とても不思議な現象ではないだろうか。 私にもたれかかりながら、私の読む物語に耳を傾ける娘の身体からは、自然と感情が伝わってくる。緊張してこわばったり、笑ったり、身体が熱くなったり。私が気にもとめなかった場面に喜んだり、悲しんだり。私はそんな娘の変化にいちいち驚きながら本を読む。

こどもと一緒に本を読むということ② 《ことばのおはなし》45

【コラム・山口絹記】一緒に本を読む、というのは不思議な行為で、即興演奏のようなところがある。基本は私が朗読しているわけだが、娘も慣れたもので文章の途中でも平気で飛び込んでくるのだ。 7年も一緒に本を読んでいれば、なんとなくお互いの呼吸がわかるものだ。「つまりこういうことだよね」と、娘の解釈&要約が始まれば、「パパはこう思うんだけども」と議論になる。話が終われば、何事もなかったかのように朗読に戻るのだが、先ほどの会話も踏まえた適切な位置から文章を継ぎはぎして、なおかつ議論の要約や確認を織り交ぜながら再開する。 「さぁ、読み始めようか」といった掛け声はいらない。2人の会話と物語は地続きで、現実の世界に物語があるとも言えるし、物語の中に2人がいるとも言える。シームレスにつながっているのだ。 もちろん、読んでいて「あー、コレは理解できてないだろうな」という瞬間もたびたび訪れる。しかし、娘も一時的にわからないことには慣れているので、そうそう待ったはかけない。娘の中でも、話の途中でいちいち止めていたらきりがない、という一線があるようなのだ。とはいえ、何度も同じ単語が出てくれば諦めて聞いてくる。 例えば、「猫又(ねこまた)って何?」と聞かれれば、私も「あぁ、猫って長生きすると妖(あやかし)になるんだよ。実家で一緒に暮らしてた猫も20年くらい生きていなくなっちゃったから、たぶん妖になってどこかで暮らしてるんだろぁなぁ。パパが通っていた大学の近くで、昔、猫又が集まって踊ってたって場所もあったよ」といった感じで説明をする。 「忠臣蔵って何?」と聞かれれば、その日のお風呂は忠臣蔵談義になり、孫悟空がわからなければ「じゃあ『西遊記』読んでみようか」というおはなしになるのだ。

こどもと一緒に本を読むということ 《ことばのおはなし》44

【コラム・山口絹記】娘と一緒に本を読むようになって、かれこれ7年近くになる。ゼロ歳の頃から読み聞かせを始めて、一体何冊読んだだろうか。我が家には娘の本が200~300冊あるのだが、図書館からも2週間ごとに20冊借りている。本によっては同じものを何百回と読み返すから、単純に何冊という話でもなさそうだ。 こう書くと、育児や教育に熱心という印象を抱かれそうだが、私はお世辞にも良い父親ではない。娘に「公園に行こうよ」と言われても、「えー、ヤダ!」なんて言う親だ。私は出不精だけど本ならいくらでも読んでくれる、ということを、2歳の頃には娘なりに認識し、本の束を抱えて私のところに持ってくるようになった、というだけのおはなしだ。 7年間。ずいぶんと、いろいろなことがあった。 母親がいないと常に泣いていた娘が、いつしか『くつしたくん』や『バスなのね』を読めば泣き止むようになった。上野公園で買ってもらった『よるくま』のぬいぐるみとはいつも一緒だったし、『あいうえお でんしゃ じてん』は一緒に暗記するまで読み込んだ。 『くまたくんシリーズ』や『リサとガスパールシリーズ』は私が好きで一人で読んでしまい、娘に見つかってよく怒られた。私が脳内出血で失語になったときは、娘が『だいすき ぎゅっ ぎゅっ』を代わりに読み聞かせてくれた。

事故物件でもかまわない 《ことばのおはなし》43

【コラム・山口 絹記】よく、「事故物件」という単語を耳にする。 前居住者が亡くなった物件には安く住めるらしいが、私は実際にそういった賃貸情報を目にしたことがない。この事故物件という用語は定義が少し曖昧らしく、科学的根拠がなくとも場合によっては該当してしまうらしいのだ。興味深い単語である。 個人的には、そこで過去に凄惨(せいさん)な事件が起こって今も地元で有名であるとか、テレビ画面から時折人が出てくるため視聴に著しい問題があるとか、夜ごと枕もとで落ち武者が金打(かねうち)していてうるさく眠れないとかでなければ、私は気にしない。 私は特に信心深いわけでもなく、どちらかと言うと「信心浅い」のだが、自宅に霊や妖(あやかし)が出るとて、今はもう気にすることはないと思っている。 夜中にトイレに行くのを怖がる娘にも、「賃貸だし、本質的に私の所有物ではないから、邪魔でなければ許してあげなさい」と言い聞かせている。夏は暑く冬は寒いし、なにぶん狭い家だが、それでもよろしければ、といったところ。 おはなしがだいぶ脇道にそれてしまった。

真夜中の高速を走る 《ことばのおはなし》42

【コラム・山口絹記】これは、昨年、真夜中の東北自動車道での出来事。 この日、私は、大学時代の同期2人と、自分の娘を車にのせ、4人で岩手山のふもとを目指していた。岩手山を登ろうというわけではない。世の中も少し落ち着いてきたということで、そこに住む旧友を訪ねようという、かねてからの計画を実行に移したのだ。 同行したのは、大学の経済学部非常勤講師とプログラマー兼フリージャズドラマー。向かう先に待っているのは、元パン屋さんで現役大工さんという、共通項といえば、今でも変わらず好きなことをやって生きているくらいの面々だ。 興奮のせいか、なかなか寝付かない娘もようやく寝静まった深夜3時ごろ。後部座席からも豪快ないびきが聞こえるので、ミラーに目をやると、講師の彼のほうは静かに景色を眺めている。 「あら、起きてたの?」 「いや、山口くんひとりじゃ寂しいかと思って」

外国語を学ぶコツ⑦ 《ことばのおはなし》41

【コラム・山口 絹記】外国語学習について、約半年間。やや長い連載になった。ここで書いた内容が少しでも誰かの役に立てていたら幸いである。 最後に、せっかくこういった場で語学学習について書く機会を得たのだから、純粋な営利目的ではなかなか書けないことについて書いて終わりにしようと思う。 最後の最後にこのようなことを書くのも気が引けるが、英語を習得する『利益』があるのか、ということについてだ。これに関してはいくつかの仮定を想定しなくてはならないだろう。 まずあなたが、義務教育や高等教育課程の途中ならば、悪いことは言わないから励んでおいた方がよい。ここでサボったツケは大きく、後で取り返すのは至難だ。もっと言えば、自分にとって必要になる瞬間というのは、学んでいた者にしかわからないことだってあるのだ。 問題は、学校教育を終えてから、自発的に英語を学ぶ場合である。例えば「英語ができると仕事に役に立つかも」というような漠然とした目的で学ぶ場合だ。 正直、厳しいと思う。無理やりやらされている者が、好きでやっている者にかなうことはまれだ。もしも他に身に着けたいと思っていることがあるのならば、素直にそちらに力を注いだ方が、毎日が豊かになるのではないだろうか。

外国語を学ぶコツ⑥ 《ことばのおはなし》40

【コラム・山口絹記】「ところで、前回予告した通り、今回は発話における言語的な正しさ、なんてものについて話すていくンですが。まずはぢめに、あんた、この記事読んでンじゃん、今。それ、日本語を使用すること、可能ってことっしょ。ま、ネイティブなンだから全然すごいもなーんともないですネ」 コラム記事としては不適切な文章を書いてみたのだが、いかがだろう。国語学や日本語学の知識を動員するまでもない。おかしな日本語だ。文法的におかしい、語彙(ごい)の使い方が誤っている。TPOを考慮すればありえない言葉遣いだ。しかし、大まかな意味と意図は伝わってしまっているのではないだろうか。 さて、前置きが長くなったが本題に入る。 私を含めた多くの言語学習者にとって、正しい文法、正しい発音、というあいまいな概念は、発話する勇気をそぐ大きな要因になっている。しかし、上にも書いた通り、かなりおかしな言葉遣いでも相手に大まかな意味と意図を伝えるのには十分であることが多い。 今回の連載における目標はあくまで英語の上達だ。だからあえて言い切ろう。言語における「正しさ」という基準がもしも存在するとしたら、それは唯一「意図が伝わるかどうか」だけだ。 念のため断っておくが、「意味」が伝われば何でもよい、ということではない。先に書いた「意図」には、表面上の「意味」だけでなく、仲良くなりたい、理解しあいたい、などの意思も含まれるととらえていただきたい。

外国語を学ぶコツ⑤ 《ことばのおはなし》39

【コラム・山口 絹記】前回までの4回にわたる記事で、外国語を学ぶコツについて書いてきたわけだが、実のところ、誰にでも共通してやるべきことはもう他にはないと思っている。つまり、語彙(ごい)やまとまった文章、表現を徹底的に覚えること、そしてそれを実際に会話の中や文章を書くときに使っていくこと。方法論としてはいろいろな手法があるのだろうが、本質的には「覚えて使う」「使って身につける」。これ以上でも以下でもない。 そう。こんなことは、この記事を今読んでいるあなたもわかっていると思う。わかっているし、学習しているのに話せない。だから困っている。違うだろうか? ここから先は、メンタリティー、マインド、気の持ちよう、気合い、何でもよいのだが、心の問題になるだろう。つまり精神論だ。私は抽象的な精神論があまり好きではないので、できる限り具体的、実際的におはなしを進めよう。 よく映画で、拳銃を目の前に置かれた主人公が「撃ってみろ」と言われても引き金を引けない、というシーンがある。話せない、声が出ない、というのは、実際のところアレとほとんど同じだ。自分が引き金を引けば、銃弾が飛び出し、相手を殺してしまうかもしれない。拳銃を手に取った時点で襲われるかもしれない。そう考えると、普通は怖くて撃てない。 何を大げさな、と言われるかもしれないが、質量のないことばだって急所に当たれば人は死ぬ。必死に放った自分のことばが相手に届かなければ、首を傾げられたり、笑われたりすれば、自分の心が傷つく。それを想像しただけで怖くなる。だから、ノドがグッと締まって声が出ないのだ。

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C・フェルバーの「公共善エコノミー」 《文京町便り》14

【コラム・原田博夫】オーストリア・ウィーン在住のクリスティアン・フェルバーによる独語の「Gemeinwohl-Ökonomie, Deuticke im Paul Zsolnay Verlarg, 2010」の邦訳「公共善エコノミー」が、ドイツ在住の池田憲昭氏によって、2022年12月に鉱脈社(宮崎県)から出版された。この著作は2010年の初版以来、8カ国語に翻訳され、14カ国で出版されている。英語版も「Change Everything: Creating an Economy for Common Good, Zed Book, November 2019」(「すべてを変えよう~公共善エコノミーを創出することで~」)として出版されている。 私自身、国際「生活の質」研究学会(ISQOLS)第15回大会(2017年9月、オーストリア・インスブルク大学)で著者フェルバーの基調講演を聴き、その主張と講演スタイルに独自なものを感じた。主張は後述するが、講演スタイルは壇上を縦横無尽に動き回るのもので、その後、彼が作家であると同時にダンスパフォーマーとしても活動していることを知り、さもありなんと得心した次第である。

7月着工、来年3月ごろ開業へ つくば市旧茎崎庁舎跡地ドラッグストア

ドラッグストアの開業を提案した大和ハウス工業茨城支社(つくば市)を優先交渉権者に決定した、つくば市の旧茎崎庁舎跡地(同市小茎)の利活用について(22年9月26日付)、同市は24日、同茨城支社と23日、30年間の定期借地契約を締結したと発表した。 市公有地利活用推進課によると、今年7月に本格着工し、来年3月ごろまでにオープン予定という。当初、年内オープンを見込んでいたが、コロナ禍で契約締結協議などに時間を要し、開業が約3カ月遅れる見通しだという。 定期借地契約は今年7月1月から2053年6月末までの30年間で、土地賃借料は年約90万円。固定資産税評価額の改定があった時は見直す。 店舗予定地の敷地面積は約2700平方メートル、店舗面積は約1100平方メートル。 周辺住民から要望があった、青果や精肉などの生鮮食品を取り扱うほか、店内に約30平方メートル程度のフリースペースを設け、テーブルといすを置き、来店客が自由に利用できるようにする。さらに敷地内の店外に緑のあるオープンスペースを設け、テーブルといすを置き、来店客がバスを待ったりできるようにする。 茎崎庁舎は2010年4月に閉庁、16年1月に解体され、跡地は更地のままになっていた。(鈴木宏子)

お米を買ってもらい、谷津田を保全 《宍塚の里山》99

【コラム・福井正人】宍塚の里山を構成する重要な環境の一つに谷津田があります。冬にも水が張られた谷津田では、早春、ニホンアカガエルが多数産卵します。カエルが増えると、それを食べるヘビが増え、ヘビが増えるとそれを食べる猛禽(もうきん)類が増えるといった「生き物のつながり」が生まれます。このように、谷津田は生き物の生息域として重要な場所になっています。この環境を守ろうと始めたのが「宍塚米オーナー制」で、今年で25年目を迎えます。 人類が稲作を始めたころ水田が作られたのは、水が手に入りやすい谷津田のような環境だっただろうと言われています。しかし、現代のようなかんがい設備の整った水田耕作では、水が引きにくく、田んぼの形も不揃いで小さく、また周りの木々にさえぎられて日当たりも悪いといった問題があります。さらに、湧き水が入るために水温も低い谷津田の環境は、稲の生育にも作業する人間にとっても不利な状況になっています。 このように、生き物の生育環境としては重要でも、耕作条件としては不利な谷津田での耕作を続けていくためには、いろいろな工夫が必要です。例えば、里山のもつ公益的機能の恩恵を受けている非農家である都市部の市民にもお金や労力を提供していただくことです。私たちの会では、支援としての「宍塚米オーナー制」と労力としての「田んぼ塾」(現在の「自然農田んぼ塾」と「田んぼの学校」)を立ち上げ、谷津田での耕作を維持してきました。 「田んぼの学校」では、たくさんの子どもたちが自然と触れ合い、我々の主食である「お米」がどのように作られるのかを学ぶ場所になっています。 宍塚米のオーナーを募っています 宍塚米オーナー制では、毎年4~9月、谷津田の支援に賛同してくれるオーナーを募り、10月末に谷津田を耕作してくれている宍塚の農家からお米を買い取り、オーナーに発送しています。品種はコシヒカリで、宍塚の里山の猛禽類の象徴サシバにちなんで「宍塚サシバ米」と呼んでいます。

マスクを脱いで巣立ちも 筑波大で4260人の卒業式

筑波大学(つくば市天王台、永田恭介学長)の卒業式・学位授与式が24日、大学会館で行われ、スーツや袴に身を包んだ生徒らが新たな門出の日を迎えた。22年度の卒業・修了者は4260人。マスクの着用については自由で、一部の生徒らはマスクを外して式に臨んだ。 式典は学群が2回と大学院が1回の3回に分けて実施され、永田学長から各学群の代表者に学位記や卒業証書が手渡された。卒業生と修了生のみが参加し、家族や在校生らは会場の様子をライブ配信で視聴する形となった。式典後の祝賀会は開催せず、謝恩会については大学側が自粛を求めた。 永田学長は式辞で、筑波大が東京高等師範学校の創設から数えて150年を迎えたことや、昨年から文部科学省より指定国立大学法人に指定されていることを述べ、「みなさんがそれぞれに新しい挑戦をすることこそが、本学の価値を世界に発信することであり、みなさんに続く後輩たちの活動の幅を広げていく」と激励した。 卒業式で式辞を述べる永田学長 人文・文化学群日本語日本文化学類の鎌田真凜さん(22)は「コロナ禍での生活は、これまでの当たり前を覆すことばかりだった。オンラインが中心となり、友人や先生方と顔を合わせることすら難しくなった時期もあるが、同じ思いや悩みを抱えた仲間がいることが何よりも救いになり、変わり続ける状況の中でも学びを止めることなく進み続けてこられた」と述べ、教職員や地域の人々に支えてくれたことへの感謝の意を伝えた。 式典の前後には、卒業生が在校生や家族らと大学会館脇に咲く桜を背景にして写真を撮影し、喜びを分かち合った。人文・文化学群で西洋史を専攻し、卒業後は就職するという河野太一さんは「時の流れが速く感じ、うまく言葉にできない。対面授業からオンライン授業、オンライン授業から対面授業への切り替えに慣れるのが大変だったので感慨深い。卒業後は仕事と趣味を充実させたい」と話した。人間学群心理学類に所属する女性は「大学院に進学するので実感があまりない。臨床心理士の資格を取り、将来は心理の関係で働くことができれば」と将来の希望を話した。(田中めぐみ)