月曜日, 6月 5, 2023
ホーム コラム オダギ秀

オダギ秀

眼がいいということ 《写真だいすき》15

【コラム・オダギ秀】写真を見ていて、よく、いい眼(め)をしているなどと評することがあります。眼がいいということは、視力のことを言っているのではありません。被写体、つまりカメラを向ける事物を、どれだけ深く見ているか、ということなのです。 たとえば、枯れた木が生えているなら、木をそのまま見るなら、眼をこすったりメガネをかけたりすればいいのです。でも、写真を撮るには、枯れた木に何を見るか、が大切なのです。季節の移ろいを感じたり、移ろうことの楽しさやはかなさを感じたり、なぜその木が植えられているのかなど見抜けば、写真はさらに面白く、深みあるものになります。 葉が枯れる季節なのに生き生きとしているから大切にされている木なのだろうとか、それなのに今はなぜ邪魔にされているのかとか、どんな思い出がある枝なのだろうとか、木を巡る様々なことが見えてきます。それが、いい眼で見るということなのです。問題はそれから。そのように見たことを、いかに写真で表現するか。そこが、写真の苦しいところであり、楽しいところなのです。だから写真の世界は、奥が深く、素晴らしい世界なのです。 被写体つまり世の中の事物には、眼に見えるものも多いのですが、それだけではありません。匂いや音や温度や、周りの空気や季節、時の流れ、その事物に向かっているあるいは向かっていた人の思い、気持ち、美意識、愛情、うれしさ、悲しさ、悔しさ、憎しみ、寂しさや後悔など、さまざまな眼に見えない背景や周辺も、一緒に存在し、漂っているのです。 それらは、たんに、「きれい」とか「いい」と、ひとくくりにはとても出来ません。面白い写真とか、いい写真とか、中身がある写真というのは、写真にそのようなふくらみがあるかどうかを云々していることが多いのです。もちろん、写真の善し悪しや価値は、それだけではないのですが、そのような価値観や尺度で写真を見ることもあるということなのです。 そこに、写真を撮る難しさや、むしろ楽しさ面白さがあると思います。写真でそれらを表現するということは、写真撮影の感性であったり技術であったり、それこそ眼であったり、なのです。美しいとかかわいとか、それだけでもいいのですが、それをどう表現したら、写真として魅力的になるかは、言葉では単純に言い表せません。

一瞬のために:おしっことおむつの話 《写真だいすき》14

【コラム・オダギ秀】おしっこやおむつの話をすると言うと、また変なことを言い出すのではないかと嫌われそうだが、そうではない。ちゃんとした、大人のカメラマンのおしっこやおむつの話だ。 たとえば、マラソンや野球などのスポーツの写真や、政治や事件などの写真が、一瞬のチャンスを逃さず見事に撮れていても、一般の人は当たり前のような顔で眺めている。 だが、その一瞬のチャンスを逃すまいとしているカメラマンたちは、とてもつらい思いをしていることがある。 競技の場合は野外のことも多いので、近くにトイレがないことがままある。あっても、一瞬、気を抜いて持ち場を離れ、ベストショットを撮り逃がすわけにはいかないのだ。何時間も、トイレを我慢しなければならない。 テレビのクルーに聞いたことがある。どうしてるんだい?と。すると、テレビ局などは大手だから、彼らには交代要員がいるし、尿漏れ紙パットや紙おむつを、局が用意してくれると言っていた。 パレードするときの人々や、お立ちになる皇室の方々もそうなのかなあ、と笑ったことがあるが、規模の小さい新聞社やフリーランスはそうはいかない。カメラマン自身の責任で、何とかしなければならないのだ。

経験が生むいろいろな「工夫」 《写真だいすき》13

【コラム・オダギ秀】足取りもおぼつかない先輩老写真家の撮影を見ていて、学んだことがある。彼は年を経て、経験はたっぷり身に付けているが、今の機材には疎(うと)過ぎる写真家だと思っていたから、彼から学ぶことなんてないと思っていた。彼は、生涯、野草や野の昆虫などを撮ることを専門にしていた。 そんな彼に学べたことがうれしい。 彼が野に撮影に出掛ける姿を見た。野の花を撮りに、ヨタヨタと。そんな彼が、手にしていたのはピッケルだ。どこかに登るわけでもない野原でする撮影に、なぜ、ピッケルが要るのだろうか。ボクは、不思議でならなかったが、すぐ、その理由がわかった。 彼は、撮影現場に着くと、いきなりピッケルを地面に突き立てた。雑草が繁茂して足場の悪い地面でも、ピッケルはしっかりと刺さり、立った。体を低くした彼は、そのピッケルを左手で握ると支えにし、その左手の腕に、右手に持ったカメラの重いレンズを載せて支え、撮影にかかったのだ。 これでブレないで撮影できる。こんなやり方は、どんな教科書にも出ていない。長い経験があったから生み出した知恵、工夫なのだ。なるほど、と思って学ばせてもらったが、写真の世界には、経験が教えてくれる工夫がよくある。 中腰にはスタンディングチェア

茅葺き屋根の古い民家 《写真だいすき》12

【コラム・オダギ秀】敬愛する友人の写真家・味村敏(あじむら・びん)のことを話したい。ボクが彼から学んだことは少なくない。彼の奥さんは、200円しか持ってなくても、持たない人がいたら、その200円をあげてしまうような人だ。 味村が専門に撮っていたのは、最近はほとんど見られなくなった茅葺(かやぶ)き屋根の古い民家だ。全国を回り、茅葺き屋根の古民家を見つけると、その撮影に情熱を傾けていた。だが、茅葺き屋根の古民家の写真などでは、豊かな報酬を得られることはない。歴史資料としての価値や、古い情景を懐かしむ価値などしか認められないことが多い。だから、ある住宅メーカーが、毎年写真集を作ってくれたりするのが、報酬を得られる主な仕事であった。 それで彼は、ポンコツと呼ぶに相応(ふさわ)しいガタピシャ車に毛布など積み、車で寝泊まりしながら撮影を続けていた。ホテルや宿屋などに泊まるなど、とんでもない贅沢(ぜいたく)だった。 彼は、撮影に適した茅葺き古民家を見つけると、まずその家に、撮影許可を得る。その家では、訪ねられると、ホームレスのような人間を見て、何者が何をしに来たのかと訝(いぶか)る。彼は自分の素性やら実績を示し、何よりその熱意で撮影許可をもらう。それで「まあ、写真撮るくらいなら、いがっぺ」となる訳だ。 すると、撮影許可をもらった彼が、次にすることは、撮影ではない。まず彼が始めるのは、その家の周りの掃除だ。丁寧に庭を掃き、植木が傾いたり枯れていると手入れをする。黙々と作業をし、そして写真は撮らず、帰る。 「しゃあんめえ。気ぃつけてな」

「マナー」を無視する世の中になった 《写真だいすき》11

【コラム・オダギ秀】写真の世界にも、人を傷つけないためのマナーがある。年寄りのたわ言と思わずに、聞いてくれ。だって、写真の世界だけでなく、マナーを無視する世の中になったからなあ。 昔は、ということになるのだろうか。写真家やカメラマンが撮影のためにカメラを用意していると、絶対にその前には立たなかった。プロだけの世界なのかも知れないが、何かを狙う時、ベストの位置を撮るために、写真家やカメラマンは、何時間も前にその位置を確保することがある。すると、次に来た者は、必ずその後ろに位置を取った。前に来た者の前に出ようものなら、三脚でぶん殴られた。三脚は、そんな時の、立ち回りの道具でもあった。先に来た者の熱意が最優先されたのだ。 もちろん怪我(けが)もしたが、殴る方もちゃんと心得ていて、それなりの殴りになった。そんな時代だったのだ。殴られた者は、殴られた重大性を知り、ああこれは厳しいマナーなのだなと納得し、次からは絶対守らねばならないマナーとして身に着けた。それがなんだ、なんだなんだ。今はスマホ片手に平気で先に来たカメラの前に伸び上がる。周りを見ろ、前に出るな、コンチキショウ、と思うのはボクだけなのだろうか。 写真展をしていると、来場していながら芳名帳に署名しない奴(やつ)もいる。写真でも絵でもどのような作品展でも、作者は心を見せ、心の中を晒(さら)している。その会場に入るということは、いわば家の中に踏み込み、心の中を覗(のぞ)くのと同じなのだ。 だから、何処の何々と申します、拝見します、と名乗るために、芳名帳に記名するのは、当然のマナーだと思う。ボクは、ボールペンで署名するのも失礼だと思って、そのような時の記名のためだけの万年筆を用意しているが、古い人間なのだろうか。もっとも、ゴム印を持って来て、ペタンと名前住所と宣伝文句を押したのがいた。こんなのに二度と来てほしくないと、しみじみ思った。 「えぬえちけえけえ?」

「気韻生動」という写真集 《写真だいすき》10

【コラム・オダギ秀】またまた昔の話で恐縮してしまうが、古い写真集の話をする。ボクにとっては貴重な写真集で、見ていると、つい涙してしまうのだ。 「気韻生動(きいんせいどう)」という写真集がある。(この意味は、気品がいきいきと感じられること=広辞苑) 旧土浦中学(現茨城県立土浦第一高校)の、まさに気韻生動なゴシック本館を、昭和30年前後に卒業した奥村好太郎氏と大久保滋氏が6年にわたって撮影し、設計をした駒杵勤治(こまぎね・きんじ)と建築を請けた石井権蔵(いしい・ごんぞう)とにささげた写真集である。小さな自費出版写真集なのでほとんど知られていない。だが、この写真集からあふれる熱い思いには、ボクはいつ見ても、涙するような気持ちになるのだ。 「気韻生動」と名付けられたこの写真集は、昭和63年以来撮影され、平成6年に刊行された。 旧土浦中学校本館は、明治37年、駒杵勤治氏によって設計され、石井権蔵氏によって建築された美しいゴシック様木造建築で、90年にわたり勉学の場となっていて、昭和51年、国の重要文化財に指定された。質実剛健の時代に、この建築の斬新さ、美しさはひときわ魅力的であったろう。 今なおきちんと保存されており、この地には、この校舎で学んだという者が少なくない。だから、奥村、大久保の両氏が、雪の日の1枚、夜の1枚、花の1枚、枯れ葉散る1枚に、光に影に、どれほどの熱意を込めて撮影されたのかと思う。この校舎で学び暮らした筆者(卒業生)も、ここにこそ自分の青春があったという思いに駆られ、つい涙してしまうのだ。

安売りカメラ店 《写真だいすき》9

【コラム・オダギ秀】また昔の話で、ゴメン。でも、店への愛を込めて書きたいのだ。とても若いころ、写真家仲間が頼りにしていた安売りカメラ店のことだ。 新宿の裏通りのその店は、間口が2、3間ほどだったろうか、住宅のような、お店とは思えないようなところだった。ガラスの引き戸を開けて入るとカウンターがあり、商品は並んでいない、カメラや写真の材料を売る店だった。近所にかつて浄水場があったので、その名前が付けてあった。 カウンターで「トライ、長巻き、2缶」のように言うと、無口な細っこいアンチャンが奥の棚から品物を持って来てくれた。貧しいカメラマンたちには、ありがたい安売り店だった。品物は並んでいないから、何というどんな商品か、価格はいくらならいいのか、わかる者だけが出入りする店だった。プロ機材ならまず手に入ったし、価格に不満なこともなかった。安かったのだ。 1年ぐらいしてからか、天井に穴を開け、2階の倉庫から品物をひもで吊り下げるようになって、品ぞろえとスピードが少し増し、店員も2人から5人くらいに増えたと思う。 昔、写真は、フィルムという感光シートか、それを細く巻いたロールで撮影していた。フィルムはパトローネという小さな金属ケースに巻き込まれていて、パトローネには36枚撮影分のフィルム入り、というのが普通だった。 プロやそのタマゴたちはパトローネ入りではなく、ずっと長くてコスパのいい100フィート入りの缶を買い、適当な長さにフィルムを切って、使用済みのパトローネに詰め、フィルム代を安くあげるようにしていた。

写真が好きになる写真 《写真だいすき》8

【コラム・オダギ秀】もう半世紀ほども昔の話だ。1枚の写真に衝撃を受けた。小さな本の表紙の写真だ。野の花に、小さな石仏がほほ笑みかけていた。何てすてきな写真なんだと、ボクはその写真の虜(とりこ)になり、以来半世紀、写真を職業にしながら、野の石仏を撮ることになった。 そのころは、まだ石仏などあまり注目されておらず、その撮影者は作家だったが、野の石仏の魅力を普及させた先駆者だった。 後に、同じ石仏を何度もその作家が撮ったのを見たが、それらの写真には魅力を感じなかった。同じ石仏なのに、他の写真にはほほ笑みがないのだ。そのことから、写真を撮るときの心情と写真技術がいかに大切かをボクは学んだ。 写真屋さんが撮った記念の集合写真に、感銘を受けたこともある。ボク自身は、何の関係もない写真だ。 同窓会だそうだ。10人ほどの年配の男女が、庭に椅子を並べて掛けている。なかに2脚、誰も座っていない椅子が置いてある。参加したくて、でもどうしても来られなかった2人の席だそうだ。素晴らしい写真屋さんの配慮に感銘を受けた。 欠席された方は、自分がいない椅子だけ写った記念写真を、いつまでも大切にするだろう。関係のない者でも、空席の写った写真を見たら、心に残るだろう。その場に存在しない人も撮れるのだと学んだ。

2×3は5でもいい 《写真だいすき》7

【コラム・オダギ秀】ボクの人生は、ずっと、2掛ける3は6、を正解としてきた。ところが、そんなことにこだわってはならないのか、と思わせられることが起こった。これまでの人生を否定されたような、衝撃が走った。 ある日、写真の先生のボクは写真教室で、得々と生徒の作品の講評をしていた。「ここは入れないで、カットした方がいがっぺえ」と、いうようにだ。で、最後に「でも、カメラが傾いているから、カメラが曲がらず、真っすぐだったら、もっとよかったねえ」と付け加えたのだ。 すると、あるベテラン生徒が手を挙げて言った。「でも先生、許容量ってあるんじゃないですか」 はあっ! ボクは狼狽(うろた)えた。そうかあ、許容量の範囲なら、2×3は、5でも7でもいいのかあ。正しい答えにだいたい近ければ、当たりにしたほうがいいのかあ、と思った。 そんなに厳しく正解を求めなくとも、だいたい合っていればよし、とする優しさが、必要なのかも知れない。ボクは、何十年もスバリ正解を求めてきた。何をやってきたんだろう。 そういえば、数年前には円周率は計算がしやすい3にしようと、文科省も優しさを見せていた。ボクは、円周率3.14も、正解ではなくて、3.1415926535897932384626433832795……だって、まだダメなんだと思ってきた。ファジーな価値観を持つ人もいるんだ、と人生がひっくり返る思いで知った。

30年が、たった40分! 《写真だいすき》6

【コラム・オダギ秀】大学を出てからずっと、写真を撮ることを仕事にしてきた。どのくらいの時間、写真を撮ってきたかと、フィルムを使っていた昔、計算してみたことがある。仕事として写真を撮って30年ぐらい過ぎたころだ。そしたらなんと、40分ほどにしかならない。 と言うのは。 フィルムの時代だから、36枚撮りフィルムを月に100本撮ったとして3,600枚。1年にすると43,200枚。それを30年続けて1,296,000枚。撮る枚数が少ない大判カメラで撮ることも多いから、実際にはその半分としても、約60万枚以上の写真を撮ってきたことになる。 その写真のシャッター速度を、1枚当たり平均250分の1秒で撮ったとすると、1/250秒×60万枚。するとそれは、合計40分ほどになる。たった! つまり、ボクが、一生懸命、30年間、写真を撮り続けてきたと言っても、シャッターを切っていた時間は、ほんの1時間にも充たない、約40分でしかないということなのだ。 こんな話をすると、大方の人は「ふふうん」と、感心したような顔をする。それが狙いでこんな話をしているのだが、しかし、この話にはウソがある。実は、一度のシャッターに、何十分もかかることもあるのだ。

「お迎え写真」の撮り方・撮られ方 《写真だいすき》5

【コラム・オダギ秀】写真講座の講師を長くしていると、たいていは、マンネリと言うか、ダレてくると言うか、飽きがくる状態になる。ところが、そんな時に講義すると、がぜん盛り上がるテーマがある。受講生皆がこれ以上夢中になるテーマはない。必ず、大変な盛り上がりを見せる。それが「お迎え写真の撮り方・撮られ方」だ。 なぜ皆がこんなに喜々として、お迎え写真の撮り方・撮られ方を学びたいのだろうか。 もちろん、お迎え時の写真というのは、その人のお葬式や仏壇に飾る顔写真、つまりポートレイトのことだ。自分が居なくなった後に、最良の顔で見られていたいという願望があるのだろうが、そんな写真を大抵の者は持っていないことに、最大の理由があるのだろう。 撮って、撮って、撮りまくる そこで今回は、私の講座でやっている、お迎え時に使う写真の撮り方・撮られ方の話をしたい。撮られ方が分かれば、撮り方は自然に分かる。撮られるようにやってもらって、撮ればいいだけだ。 カメラは、コンパクトデジタルだろうが、スマホだろうが、一眼レフだろうが、何でもいい。アクションカメラは、広角過ぎるので、ちょっと撮りづらい。で、なるべくアップに撮ること。ウェストから上だ。

「しゅぅ〜ぅ〜シャッ」 《写真だいすき》4

【コラム・オダギ秀】「今日はチャチャ」かな。「しゅぅ〜ぅシャ」かな。仕事に行く前には、こんな会話がされていた。これ、なに? 昔、カメラは暗箱なんて言い方をしていたが、そんな時代のこと。 昔、カメラのレンズの前には、ソルントンシャッターというようなシャッターを取り付けた。外付けだ。 ネジが付いていて、巻くとシャッター幕という黒い布がレンズに入る光を遮った。それにはゴムの管と球が付いていて、ゴム球を握ると黒い布は光を通し、ゴム球の握りを離すと、また黒い布が、レンズに入る光を遮る仕掛けになっていた。 つまり、カメラのレンズから入る光を入れたり閉じたりした。それがシャッターだったのだ。 年配の方なら覚えがあるだろう。学校で記念写真を撮るときなど、写真屋さんは「はあい、撮りますよう」とか言って、手に何かを持って握っていたことを。あの持っていたのが、シャッターを開け閉めするゴム球だ。 今のカメラは、そのシャッターを、電子機構などによって、カメラに光を入れる時間を数百分の一秒とか数千分の一秒とかにコントロールしている。カメラやフィルムの感度も、比較にならぬほど高くなった。

Most Read

博物館の歴史論争拒否、土浦市法務が助言 《吾妻カガミ》159

【コラム・坂本栄】今回は158「土浦市立博物館が郷土史論争を拒絶!」(5月29日掲載)の続きになります。市立博物館と本堂清氏の郷土史論争。博物館の論争拒否に対し、本堂氏は「(博物館がそう出るなら同施設を管轄する)市教育長に検討申請書を提出する」と反発しており、エスカレートしそうな雲行きです。 また取材の過程で、本堂氏を門前払いするようアドバイスしたのが市の法務部署であったと聞き、土浦市の博物館マネジメントにも唖然(あぜん)としました。論争を挑む本堂氏をクレーマー(苦情を言う人)並みに扱うよう指導したわけですから。 郷土史をめぐる主な論争は3点 私は中世史に疎いこともあり、市立博物館(糸賀茂男館長)の学芸員にこの論争の要点を整理してもらいました。 いつから山の荘と呼ばれたか ▼本堂氏:『新編常陸国史』(国学者中山信名=1787~1836=が著した常陸国の総合史誌)の記述からも明らかなように、「山の荘」(土浦市北部の筑波山系地域)の名称は古代からあったのに、博物館は同歴史書の記述を無視して同名称を古代史から抹消した。

阿見町の予科練平和記念館 《日本一の湖のほとりにある街の話》12

【コラム・若田部哲】終戦直前の1945年6月10日。この日は、阿見・土浦にとって決して忘れてはならない一日となりました。当時、阿見は霞ヶ浦海軍航空隊を有する軍事上の一大重要拠点でした。そのため、B29による大規模爆撃を受けることとなったのです。当時の様子は、阿見町は予科練平和記念館の展示「窮迫(きゅうはく)」にて、関係者の方々の証言と、再現映像で見ることができます。今回はこの「阿見大空襲」について、同館学芸員の山下さんにお話を伺いました。 折悪くその日は日曜日であったため面会人も多く、賑わいを見せていたそうです。そして午前8時頃。グアム及びテニアン島から、推計約360トンに及ぶ250キロ爆弾を搭載した、空が暗くなるほどのB29の大編隊が飛来し、広大な基地は赤く燃え上がったと言います。付近の防空壕(ごう)に退避した予科練生も、爆発により壕ごと生き埋めとなりました。 負傷者・死亡者は、家の戸板を担架代わりに、土浦市の土浦海軍航空隊適性部(現在の土浦第三高等学校の場所)へと運ばれました。4人組で1人の負傷者を運んだそうですが、ともに修練に明け暮れた仲間を戸板で運ぶ少年たちの胸中はいかばかりだったかと思うと、言葉もありません。負傷者のあまりの多さに、近隣の家々の戸板はほとんど無くなってしまったほどだそうです。 展示での証言は酸鼻を極めます。当時予科練生だった男性は「友人が吹き飛ばされ、ヘルメットが脱げているように見えたが、それは飛び出てしまった脳だった。こぼれてしまった脳を戻してあげたら、何とかなるんじゃないか。そう思って唯々その脳を手で拾い上げ頭蓋に戻した」と語ります。また土浦海軍航空隊で看護婦をしていた女性は「尻が無くなった人。足がもげた人。頭だけの遺体。頭の無くなった遺体。そんな惨状が広がっていた」と話します。 累々たる屍と無数の慟哭 この空襲により、予科練生等281人と民間人を合わせて300名以上の方々が命を落とされました。遺体は適性部と、その隣の法泉寺で荼毘(だび)に付されましたが、その数の多さから弔い終わるまで数日間を要したそうです。

牛久沼近くで谷田川越水 つくば市森の里北

台風2号と前線の活発化に伴う2日からの降雨で、つくば市を流れる谷田川は3日昼前、左岸の同市森の里の北側で越水し、隣接の住宅団地、森の里団地内の道路2カ所が冠水した。住宅への床上浸水の被害はないが、床下浸水については調査中という。 つくば市消防本部南消防署によると、3日午前11時42分に消防に通報があり、南消防署と茎崎分署の消防署員約25人と消防団員約35人の計約60人が、堤防脇の浸水した水田の道路脇に約100メートルにわたって土のうを積み、水をせき止めた。一方、越水した水が、隣接の森の里団地に流れ込み、道路2カ所が冠水して通行できなくなった。同日午後5時時点で消防署員による排水作業が続いている。 越水した谷田川の水が流れ込み、冠水した道路から水を排水する消防署員=3日午後4時45分ごろ、つくば市森の里 市は3日午後0時30分、茎崎中とふれあいプラザの2カ所に避難所を開設。計22人が一時避難したが、午後4時以降は全員が帰宅したという。 2日から3日午前10時までに、牛久沼に流入する谷田川の茎崎橋付近で累計251ミリの雨量があり、午前11時に水位が2.50メートルに上昇、午後2時に2.54メートルまで上昇し、その後、水位の上昇は止まっている。 南消防署と茎崎分署は3日午後5時以降も、水位に対する警戒と冠水した道路の排水作業を続けている。

論文もパネルで「CONNECT展」 筑波大芸術系学生らの受賞作集める

筑波大学(つくば市天王台)で芸術を学んだ学生らの作品を展示する「CONNECT(コネクト)展Ⅶ(セブン)」が3日、つくば市二の宮のスタジオ’Sで始まった。2022年度の卒業・修了研究の中から特に優れた作品と論文を展示するもので、今年で7回目の開催。18日まで、筑波大賞と茗渓会賞を受賞した6人の6作品と2人の論文のほか、19人の研究をタペストリー展示で紹介する。 展示の6作品は、芸術賞を受賞した寺田開さんの版画「Viewpoints(ビューポインツ)」、粘辰遠さんの工芸「イージーチェア」、茗渓会賞授賞の夏陸嘉さんの漫画「日曜日食日」など。いずれも筑波大のアートコレクションに新しく収蔵される。芸術賞を受賞した今泉優子さんの修了研究「樹木葬墓地の多角的評価に基づく埋葬空間の可能性に関する研究」は製本された論文とパネル、茗渓会賞を受賞した永井春雅くららさんの卒業研究「生命の種」はパネルのみで展示されている。 スタジオ’S担当コーディネーターの浅野恵さんは「今年は論文のパネル展示が2作品あり見ごたえ、読みごたえがある。版画作品2作品の受賞、漫画の受賞も珍しい。楽しんでいただけるのでは」と来場を呼び掛ける。 筑波大学芸術賞は芸術専門学群の卒業研究と大学院博士前期課程芸術専攻と芸術学学位プログラムの修了研究の中から、特に優れた作品と論文に授与される。また同窓会「茗渓会」が茗渓会賞を授与している。 展覧会は関彰商事と筑波大学芸術系が主催。両者は2016年から連携し「CONNECT- 関(かかわる)・ 繋(つながる)・ 波(はきゅうする)」というコンセプトを掲げ、芸術活動を支援する協働プロジェクトを企画運営している。 (田中めぐみ)