【コラム・山口絹記】我が家で飼っていた金魚が死んでしまった。

夏祭りの金魚すくいで、妻と娘がとってきた金魚だった。魚と暮らすのは初めてだったが、すっかり愛着がわいてしまい、ご飯をあげるのが楽しみになっていた。

死んでしまった金魚をゴミ袋に入れる気にはどうしてもなれず、土に埋めることにした。まだ3歳の娘は、動かなくなった金魚を手のひらにのせ、不思議そうに見ていた。私は金魚が死んでしまったこと、土に埋めれば草木の栄養になることを説明し、「金魚さんに、さよならしよう。また来てね。バイバイって」と言った。

「また来てね」ということばを差し込んでしまったのは、死というものを説明すべきか、という迷いからきたものだった。もっと言えば、「死ぬって何?」という娘の質問を、未然に防ぐためのものだった。私はつまり、説明することから逃げたのだ。

娘は「金魚さん、また来てね。バイバイ」と言いながら、こんもりとした土の山に手を振った。瞬間、私は少し反省した。娘には、私の考えていること、知っている限りのことを話すようにしているからだ。

「台風はどうして日本に来るの?」と尋ねられれば、「偏西風っていう風に乗って来るんだよ」と答える。私の説明が不十分だったのか、娘の中では、台風は台風のお家から風にのって日本にやってきて、用事が済むとまた家に帰ることになっているらしい。娘の世界観では、あらゆるものに帰る家があるのだろう。

再会できない別れ

私は、再会できない別れがあると言い切ることをためらってしまった。少なくとも私の知る限り、死んだ金魚が帰ってくることはない。実際のところ、3歳の娘に永久の別れを説明する必要はないと思う。しかし、それでも、もっと誠実な説明の仕方があったのではないだろうか。「死とは何か」という深遠な問いに答えを出そうというのではない。たとえいくらでも解釈の余地がある問いだとしても、私はできる限り自分なりの考えをことばにしたいと思っているということだ。

死ぬということの一面は、過去のものになるということだ。夜になると、「朝はずっとずっと遠くにいるの?」と尋ねてくる娘には、遠くにいったと説明するほうがわかりやすいだろうか。そして、もう帰ってはこないと付け足さなくてはならない。

過去や遠くにあるもの、つまりここにはないものについては、ことばで語るしかない。私が死ねば、私自身はもうことばを発することはできない。語られる対象になる。私なりに言いかえれば、私自身がことばそのものになるということだ。

だから私は物語る。少なくとも私にとっては、それが生きるということだ。

最近、金魚のシールを見つけた娘が、「パパ、金魚さん見つけたよ」と嬉しそうにしていた。空っぽになった水槽に、もう一度水を入れようか。いや、その前に、金魚の飼育についてきちんと調べ直してみよう。(言語研究者)