【コラム・相沢冬樹】十五夜から数えて8日目の10月2日は旧暦23日、土浦市内では城北町の月読神社と小松の三夜様の2カ所で、二十三夜講の縁日が催される。共に午前中、講のメンバーが社殿に集って歓談のときを過ごす。十七夜、十九夜、二十三夜、二十六夜などの「月待」は江戸時代全国に広まった風習だが、平成に至って行事はもとより、講の存続じたいが危うくなってきた。それだけに、縁日を毎月続ける土浦のケースが興味深いのだ。
かつての講は集落の戸主や主婦の仲間うちで小集団をつくり、厄病よけ、災難よけ、安産などを願い、斎戒(さいかい)して念仏を唱えた。月待の夜に集うのが習わしとなり、たとえば女たち、特に妊娠適期の主婦たちは女人限定の十九夜講に集った。同様の講には、60日に一度巡ってくる庚申(かのえさる)の晩に旦那衆が集まるお庚申(こうしん)様があり、徹夜になるから「日待」と呼び慣わした。
なかでも熱心に信仰されたのが二十三夜講だった。例外はあるものの、男たちの庚申講、女たちの十九夜講と単純化していくと、二十三夜講は若者のものとなる。小松の三夜様に置かれた小さな石仏群のなかにも二十三夜供養塔があって、小松村の若者講が文化四年(1807)に建てたと刻まれている。
これらの石仏に二十三夜講の隆盛がたどれる。二十三夜塔は、庚申塔(塚)や十九夜塔と同等の数が辻つじに残るのである。土浦市教育委員会「土浦の石仏」(1985年)によれば、市内(旧新治村除く)には36基の二十三夜塔を数えたほか、月読尊の本地仏である勢至菩薩の石仏が13基あった。庚申塔は46基、十九夜塔は10基(如意輪観音像を彫った十九夜講による石仏は25基)である。
居心地のいいたまり場
月待は飲んだり騒いだりする場ではなかったと聞くと、若者たちは深夜に及ぶ月の出をどのように待ったのか気になった。再現の企画をして各地をたずね回ったが、往時の様子を記憶するものは出てこない。土浦2カ所の二十三夜尊も、ともに昭和の半ばまで大いににぎわったとする記録があるが、すべて縁日夜店や花見の人出であって、深夜の月待のことではない。
今日では、さすがに夜更かしは敬遠され、念仏もあげなくなったけれど、お庚申様と十九夜講は形を変えて旧村部には多数が残っている。男どもの飲みニケーションの機会だったり、おしゃべり好きの主婦の娯楽だったりするわけだ。しかし、二十三夜講の影は薄い。つくば市だと、近郷近在から多くの参拝者を集めた月読神社(樋の沢)の衰退が久しく、三夜風呂を設けてにぎわったという勢至堂を持つ解脱寺(小田)も無住となって講は解消された。
二十三夜の月待は明治期以降、急速に存在感を失うのである。度重なる戦争に集団就職、核家族化で、若者の存在が希薄になる地域社会のありようと無関係ではないはずだ。平成の土浦で2つの二十三夜講に集うのは高齢者ばかりになってしまったが、なかなかに居心地のいいたまり場になっている。(ブロガー)