【コラム・栗原亮】元治元年(1865)7月、長州藩尊攘派の京都御所攻撃は失敗し、長州藩は朝敵として京都から追放された。この少し前の3月、長州藩尊攘派と共同行動を約束した水戸天狗党が、尊王攘夷を掲げ筑波山に蜂起している。
藤田小四郎ら天狗党過激派は筑波山に立てこもった後、那珂湊に転戦し敗北するも、大子で戦線を立て直し、京都を目指す。しかし敦賀で敗北、斬首に処せられる。これら一連の過程を「天狗党の乱」と呼ぶ。
尊皇攘夷はもともと、封建社会の危機を打開しようとする会沢正志斎や藤田幽谷・東湖父子らの強烈な意図から生まれた。実践的な「後期水戸学」であり、徳川光圀の尊皇敬幕を基調とする「前期水戸学」から直接生まれたわけではない。
後期水戸学は、天皇制を世界に冠たるものとする国体観念を樹立し、全国の下級武士や豪農豪商に影響を与える。結果的に、ナショナリズムを喚起し、封建割拠を大きく変え、歴史上一定の役割を果たしたといえる。
思想・行動に矛盾と混乱
筑波山で蜂起してから、天狗党の一派は日光東照宮に参拝するなど、実に奇妙な行動を取っている。こうした動きを見ると、徳川幕藩体制を確立した3代将軍家光の時代に帰れという、尊皇攘夷とは矛盾する思想も一部にあった。
また天狗党別動隊として活動した田中愿蔵は、5月に土浦藩の中貫・真鍋両宿を焼くなど、民衆を敵に回す行動を取って反感を買った。
筑波山に本隊を置いた天狗党は7月、市川三左衛門ら水戸藩保守門閥の「諸生派」が水戸城に立て籠もったことを聞くと、水戸城を奪還すべく諸生派に戦いを挑むが失敗。この時点で脱藩浪士は本隊から離脱。各地に転戦し討ち死にする。
こうした情勢下、宍戸藩(水戸藩の支藩、現在の笠間市)藩主松平頼徳は水戸藩主徳川慶篤から、諸生派と天狗党の仲裁をするよう依頼される。これを受け頼徳と筑波山挙兵に参加しなかった尊攘「鎮派」は江戸を発ち水戸に向うが、逆に頼徳は天狗党に加担したと諸生派に訴えられ、幕府に処刑される。
9月、水戸城攻撃を一時止めた天狗党本隊と鎮派は那珂湊に移り、ここを拠点に水戸城奪還を図る。こういった戦況の中、投降すれば罪を免ずるという約束に乗った榊原新左衛門一派1000名余(鎮派)が幕府に降参。しかし、彼らは処刑されるか諸藩に預けられるといった処分を受ける。(郷土史家)