【コラム・栗原亮】安政5年(1858)6月、日米修好通商条約が締結され、横浜では貿易が盛んになり、外国の物が輸入されるようになった。だが、欧米諸国と日本の金銀交換比率が日本側に不利であったため、物価が高騰するという問題も生じた。日本と欧米との交換比率は1対16。これに対し欧米諸国間は1対4。このため多くの金が日本から流失した。そこで幕府は金含有量を減らした万延小判を発行。この措置によって金の流失はなくなった。

経済から政治に目を転じると、長州藩では幕府の開国政策に合わせ、執政の永井雅楽(ながい うた)が航海遠略策を唱えるようになった。貿易を増やして国力を充実、欧米と対抗しようという考えだが、同藩の尊攘派は永井の政策は幕府の政策を追認するだけと反対。永井は藩内抗争に敗れ切腹に追い込まれる。そして長州藩は開国路線から攘夷路線に転換した。

藩内抗争を制した長州藩の尊攘派は、京都では朝廷工作を活発化させ自派の勢力拡大を図った。並行して、大老井伊直弼大寄りの幕府関係者らにテロを実行。この動きに対し幕府は新撰組などを使ってテロ弾圧を強化。京都市中の治安は乱れた。

尊皇攘夷派の没落

朝廷を牛耳っていた長州藩尊攘派は、朝廷を通じて14代将軍徳川家茂を京都に呼び出し、将軍後見職一橋慶喜に攘夷を迫った。この工作が成功、朝廷は文久3年(1863)5月10日を攘夷期限とする詔勅を出し、全国の諸大名に実行を命じる。だが命令に応じたのは長州藩だけだった。同藩は欧米の商船軍艦に砲撃を加えたが、軍事力に劣る同藩は敗北し攘夷運動は頓挫した。

この流れに乗って会津藩・薩摩藩連合は同年夏、京都から長州藩を追い出した(8月18日の政変)。京追放に遭った長州藩の中では、京都への進発を唱える急進派と、藩の実力を貯えて討幕を目指す高杉晋作らが対立するが、元治元年(1864)5月、新撰組によって多くの長州藩士が殺されるに至り(池田屋事件)、京都進発派が実権を握った。

元治元年(1864)7月19日、長州藩は挙兵、京都御所に向けて発砲。長州藩は会津・薩摩の連合藩兵と激戦、蛤御門(はまぐりごもん)に迫ったものの、多くの死者を出し敗走した(蛤御門の変)。この衝突では薩摩藩の西郷隆盛が連合藩兵を指揮した。(郷土史家)