【コラム・三橋俊雄】今回は、京都の「しまつ」という「もったいない」のお話をさせていただきます。その前に「しまつ」と表裏の関係にある「京の着倒れ」からご紹介します。
聞いて極楽 見て地獄
井原西鶴『好色一代男(1684)』(巻四・目に三月)には、「げにげに花の都、四条五条の人通り、…遠国とは違ふて是は是はそれはと見るに、下には水鹿子の白むく、上にはむらさきしぼりに青海波(せいがいは)、紋所は銀にてほの字切りぬかせ五所(いつところ)のひかり、帯はむらさきのつれ左巻、…」と、京の女性たちの装いも目を見はるばかりであるといった情景が描かれ、「京のはなやぎ」が感じられます(上図・左)。
また、十返舎一九の『東海道中膝栗毛(1802〜1814)』(七編・京都めぐり)では、「商人のよき衣きたるは他国と異にして、京の着だをれの名は、益々西陣の織元より出、染色の花やぎたるは、堀川の水に…」とあり、京都人は、衣装に大金をはたいて惜しまない「着倒れ」の気風があることを揶揄(やゆ)しています。
一方で、京都には「 三条室町 聞いて極楽 見て地獄 おかゆ隠しの長暖簾(ながのれん)」という家風歌(かふうか)があります。
それは、<あこがれて奉公に上がった老舗ではあるが、実は営々と続く家訓を厳守し、決して華美な生活など送っていない。季節ごとに着るものまできちんと決められ、食事も質素倹約を旨とする。祭りなどの「付き合い」で義理を欠くことは決してないが、日常生活は極めて慎ましいのが当たり前。店の主人から奉公人まで一緒になって「おかゆ」をすする>というものです。
そうした「質素な暮らし」を、京都では「しまつ(始末)」と言います。しかし「しまつ」はただの「ケチ」とは違います。モノを無駄に捨てないで「一工夫」加えて、「使い捨て」ではなく「使い切る」ことが「京のしまつ」です。
縫い糸のしまつ
私は、2000年ごろ、京都の伝統的な生活の中に「もったいない」に相当する文化がどのように継承されているかを知るために、「記憶の中の京の暮らし」という調査を行いました。そして「しまつ」という京都人の「精神」に出合うことができました。
そこで一番印象的だったのが、「糸のしまつ」でした。京都では、女性たちが、毎日の針仕事で使い残したくず糸を捨てずに、重ねた古布に玉むすびをしないまま針を通し、何針か縫ったあと、そのまま針を抜く。そうした作業を何日も繰り返すことで、1枚の雑巾が縫い上がるというものです(上図・右)。
調査では、京都府内在住の「生活学校」に通う111名の方に「京のしまつ」についてうかがい、「残ったくず糸で雑巾を縫う」と答えた方が25名もおられました。
こうした「京のしまつ」も時代の流れの中で急に姿を消しつつあるようですが、次回も「京のしまつ」について、もう少しご紹介していこうと思います。(ソーシャルデザイナー)