【ノベル・伊東葎花】
勉強に疲れて顔を上げると、少女がいた。
夕暮れの図書館は、静寂に包まれている。
少女は、ブラインドから差し込む西陽(び)を避けながら、ゆっくり近づいてきた。
空いている席などいくらでもあるのに、僕の前に座って静かに微笑んだ
つやのある黒い髪に透き通るような白い肌、瞳は深い海のような碧(あお)だ。
ハーフだろうか。
「クウォーターよ」
心を読んだように、少女が言った。
「陽が沈むわ」
窓の外が淡い藍色に染まると、閉館を告げるチャイムが鳴った。
それから少女は、決まって夕暮れに現れた。勉強をするでもなく、ただ座ってほほ笑む。
僕たちは、少しずつ話すようになった。
名前はエマ。僕と同じ17歳で学校へは行っていない。
多くを語らないが、いつもどこか寂しげだ。
僕は青い瞳に見つめられるたびに、エマに魅かれていった。
すっかり陽が落ちた帰り道、エマが言った。
「家まで送ってくれる?」
僕はもちろん「いいよ」と言った。
エマの家は、図書館から少し離れた森の中にあった。
太陽も届かないような深い森は、日が暮れるとまるで闇の世界だ。
黒い壁と蔦(つた)で覆われたエマの家は、ただひとつの灯(あか)りもついていなかった。
母親はいないのだろうか。
「いるわ」
また心を読まれた。エマは、僕を家の中に招き入れた。
家の中は暗く、エマは頼りないランプの明かりで進んでいく。
「電気はつけないの?」
「母が嫌うから」
奥の扉を開けると階段があった。しかも地下に続いている。
「地下室があるの?」
「ええ、母は光に当たるといけない病気なの」
「病気?」
肌寒い地下室には、黒い箱がひとつ。ちょうど人がひとり入れるくらいの箱。
映画で見た西洋の棺桶(おけ)のようだ。
エマがふたを開けると、そこにはミイラのように痩せ細った女が寝ていた。
「母よ」。エマが言った。
黒い服で全身を隠し、青白い顔をしている。しかも、棺桶のような箱で眠っている。
おまけに光を嫌うなんて、まるで…。
「そう、吸血鬼よ」
エマが、また心を読んだ。
「おじいさまが吸血鬼なの。母はハーフだから、半分は吸血鬼。定期的に生き血を飲まなければ死んでしまうわ。それなのに母は、それを拒んだ。あくまでも人間にこだわったのよ。それで、こんな姿になってしまったの」
ランプの光が妖しく揺れた。
いつの間にかエマが僕の背後にぴたりと寄り添っている。
声をあげる間も与えられないまま、エマが僕の首筋に歯をあてた。
血を吸われている。エマの喉がコクリと音を立てた。
痛みは感じない。むしろ不思議な心地よささえ感じた。
「母のようにはなりたくないの」。エマが唇を離した。
「心配しないで。私はクウォーターだから、多くの生き血は必要ないの。ときどきこうして血を吸わせてくれれば、きれいなまま生き延びることができるの」
エマはそう言って、唇についた血を細い指で拭った。
その仕草(しぐさ)はため息が出るほど美しい。エマのためなら血を吸われても構わない。
「ありがとう」
また心を読まれた。
赤い唇で、彼女が笑った。
(作家)