土浦市中央、亀城公園の隣にある「公園ビル」で、建設初期から中心的な立場で活躍した1人が、同ビルで印刷業を営む「高山俊夫商会」創業者の故・高山俊夫さんだ。1993年に74歳で亡くなるまで、土浦全国花火競技大会の賞状を手書きするなど地域に欠かせない存在として地元を支えてきた。同店は現在、長女の高山節子さん(74)が跡を継いでいる。
店に入ると目に入る大きな印刷機を指しながら節子さんが、「機械のガッタンガッタンって音が聞こえると、ここ(公園ビル)の子どもたちが安心したんです。逆にその音がないと寝られないって話があったくらい」と、俊夫さんの思い出を語る。
「いつも仕事をしてました。面倒見が良くて、几帳面だった」という俊夫さんは、印刷業とともに名刺や賞状の文面を手書きする仕事も請け負っていた。土浦の花火大会をはじめ、各地の小中高校の卒業証書などを数多く手掛けてきた。繁忙期には徹夜で筆を握り続ける姿を家族は見てきた。「土浦で起きてるのは警察署と消防署とうちくらいって言われてましたよ」と節子さんが話す。
シベリア抑留から帰国
俊夫さんは字がうまかったから、軍隊でも苦労はしなかったという。「あまりの字の上手さから、戦争に行っても事務方で戦場に行かなくていいと言われたくらい」だったという逸話が公園ビルに残る。
1919年、市内で生まれた俊夫さんは、陸軍兵士として渡った満州で終戦を迎えた。直後、侵攻してきたソ連軍の捕虜となりシベリア抑留を経験。帰国したのは4年後だった。
郷里の土浦に戻ると、市内で印章店を営む実家の支援を受け、完成間もない公園マーケットに店を構えた。当初は本家と同じ印章店を「本家から少しのハンコと幾らかの商売道具を分けてもらい、米びつにお米を一斗入れてもらって始めた」と節子さんが言う。
窓を開けてお堀に釣り糸をたらした
「お堀から流れる川が、今もこの下を流れてる」という現在の公園ビルの地下を暗渠(あんきょ)となった川が霞ケ浦へと流れている。「ビルは3階建だけど、下に暗渠があるから4階建なんですよね」と話す節子さんは、バラック時代をここで過ごした当時を知る貴重な存在だ。
「昔はお菓子屋さんやアイスキャンディー屋さんがあった。魚屋さん、お花屋さん、電気屋さんに靴屋さん、八百屋さんに牛乳屋さんもあった。なんでもそろったんですよ」と懐かしむ。マーケットの子ども同士で遊んだのは、隣接する裁判所だった。敷地の中に湧き出る井戸水でスイカ冷やしたり、うっそうと茂るビワの木陰で鬼ごっこをしたりした。「遊んでると、裁判所の小使いさん(用務員)に怒られたりしてね」。
「ここはお堀の上にバラックを建てた掘っ立て小屋みたいなものだった。狭くなれば2階を付け足した。家の後ろの窓を開けてお堀の川に糸を垂らして魚やザリガニを釣った。棒でばちゃばちゃやって魚を追い込んだりもした。昔は水がきれいだった」と子どもの頃を思い出す。
1951年に始まった「土浦七夕まつり」は特に印象に残っている。「にぎやかでしたね。桜町の芸者さんが踊って華やかだった。アーケードを飾り付けて、金魚すくいや水風船なんかもやりました」
父が残した字のお陰
公園ビルのモデルになったのは、戦後の先進的な建築物である「防火建築帯」として建てられた宇都宮の商業施設「バンバビル」。1951年、できて間もない同所を公園マーケットの住民が総出で見学に出掛けている。
「今あるこの建物は、いろんなところに視察に行って、あちこちにお願いして銀行からお金を借りて建てたと聞いた。お金もないのに建てたから、鉄筋じゃなくて借金コンクリートだって聞いたことがありますよ」と節子さん。
1993年、74歳で亡くなった俊夫さんが生前に語っていたのは「店は俺一代でいい」ということ。「でも急に亡くなってしまって、見よう見まねでどうにか仕事を継いできた。なんとかその後も30年続けられたのは、父の残してくれた字のお陰」と言って、節子さんは俊夫さんの手書きの賞状や名刺に目をやる。父が残した版を元に今も印刷物を作成している。節子さんは「いまだに父の字を使って仕事をしている。天国に行っても稼がせてもらっている。父には感謝しています」と話す。
イベント開催し新風
組合の代表理事を務める亀屋食堂の時崎郁哉さんによると、現在の組合員は17軒。その中で営業を続けているのは6店舗。その一軒に、以前に菓子店が入居していた場所をリノベーションして2018年にオープンしたギャラリー「がばんクリエイティブルーム」がある。音楽ライブや落語会、写真や絵画の展示会など様々なイベントを開催し、公園ビルに新しい風を吹き込んでいる。
時崎さんは「建物は60年以上経ち古くなっている。単純な居住目的じゃなく、商売を兼ねているのがここの特徴。『がばんさん』のように使うこともできたらと思うんです。食べ物に関わらず、最近はどこにいっても街が似たようなものになってきてるのは寂しい。少しでもおじいさんたちが残してくれた『宝』を生かしていきたい」と語る。(柴田大輔)