【コラム・先﨑千尋】今、一般に農業生産に携わっている人のことは「農業者」と呼ばれている。農に関連している人たちは農家のことを「農家さん」と、さん付けで呼ぶことが多い。では、農業生産者は果たして「業者」なのか。農家にどうして「さん」を付けるのか。私はこの呼称にずっと違和感を抱いてきた。
水戸市内原町にある鯉渕学園で有機農業を教え、定年前にそこを辞め、2011年に有機農家を育てる研修農場「あしたを拓く有機農業塾」を立ち上げた涌井義郎さんは、近著『未来の食と環境を守れ-有機農家からの提案』(新日本出版社)でこの2つの表現に異議を唱えており、「そうだ、そうだ」と思いながら読んだ。
涌井さんによれば、もともと農は生業(なりわい)。農家のくらしは、業すなわち一般的な理解で言う経済活動だけで成立しているわけではない。生産された農産物の一部は自家消費に使われ、隣人や親戚にも配られる。生産活動で用いられる資材も堆肥や敷き藁(わら)などのように自給することもある。ちょっとした道具も手づくりできる。
このような家族農業が生業。日本の農家の95%を占めている。そうした農家を一括(くく)りに「農業者」と呼んでいいのか。そう、涌井さんは訴えている。
「農家さん」も同じだ。職業に「家」を付けるのは、作曲家、画家、作家など1つの領域を専門とする人のことだ。鍛冶屋、豆腐屋、下駄屋、床屋など「屋」を付ける職業もある。今はそれらの職業はだいぶ廃れているが、農村では、多くは農業との兼業だった記憶がある。
相手を呼称で言う場合、豆腐屋さん、床屋さんとは言うが、画家さん、作曲家さんなどと言うだろうか。「農家さん」だけは別格なのか。
農民や漁民の「民」の語に蔑(さげす)みが含まれてはいないだろうか、「さん」を付け、農家の評価を底上げしようとしている善意が現れているのではないか、それが涌井さんの見立てだ。私も「農家さん」と言われると、こそばゆい感じがしてならない。「農家」だけでいい。断じて、農業者ではないのだ。
「百姓」という言葉
百姓という言葉もある。永く差別用語として使われてきた。私は学生時代、旧友と口論していて「どん百姓」とののしられたことを、今でも鮮明に覚えている。私の知人で名刺に「百姓」と入れている人を何人も知っている。姓は「かばね」と読み、特定の技術職あるいはその技術・技能を代々伝える家系のことを言った。農民でありながら、同時に様々な仕事を兼ねる人々が百姓だった。むしろ誇るべき言葉だった。それがいつの間にか逆転してしまった。
涌井さんは自分自身の経験をもとに、本書で「有機農業に舵(かじ)を切った現在の農政に対して、担い手となる有機農家を育てるために技術指導者を増やせ。そのために1兆円以上の農家育成予算を」などと提言している。有機農業の将来に対してどのような絵を描いても、誰がそれを担うのかが基本。それが抜けていれば絵にかいた餅になりかねない、というのが涌井さんの主張だ。
その他、本書では有機農業の技術など学ぶことが多い。涌井さんは2019年に、地域生産の有機農産物と国産無添加食品のオーガニック直売所を笠間市に開店している。(元瓜連町長)