2月下旬、ベトナム。土浦市の添野江実子さん(64)は、旧バンロン村の存在を教えてくれた男性とともに、ハノイから車で旧バンロン村を目指していた。
舗装されていない道を車でひた走る。窓越しに映るのは、田んぼと緑濃い野山ばかり。日本だったら田舎道でも1軒ぐらいありそうなコンビニや雑貨店が1軒もない。「どうやって暮らしているんだろう」。ずいぶん遠いところに来たことを実感する。
3時間後、村に到着。男性の通訳を介してベトナム独立戦争の頃の様子を知る人はいないか現地の役人に尋ねると、古老のドゥウンさんを紹介された。ドゥウンさんは80代後半。突然、役人とともにやってきた異国の客人の訪問に驚いた様子だったが、14歳の時に出会った日本兵「ザンさん」の記憶を語ってくれた。
土間のようなたたずまいの広い部屋。男性が地元の風土や歴史の話題を交えながら、古老に昔話を尋ねると、約70年前に出くわした日本兵の記憶を方言交じりのベトナム語でとつとつと紡いでくれた。
自宅の隣にベトミンの食堂があり、ベトミンの食事づくりを手伝っていた。近くの沢でタニシも捕っていた。ベトミンにもフランス軍にも捕まったと話していた―。
そしてこう語った。「このあたりに昔、金山があったんだ」。
男性が通訳した言葉に添野さんは反応した。
日本への送還が決まった後、採掘した金を元手に買った自転車で、何日間もかけて集合地点へ向かった―。父親の忠三郎さんから、そう聞かされていた。
帰国直後、新聞記者に「バロン村で日本人は自分1人だった」と明かした忠三郎さん。ドゥウンさんの口から「ザンさん」以外の日本兵の話は出てこなかった。
「ザンさんはお父さんじゃないだろうか」。ドゥウンさんの証言と新聞記事、自分が聞いたおぼろげな記憶の断片。それらをつなぎ合わせ、8年間かけて確からしい足取りをつかむことができた。
忠三郎さんからベトナムでの体験を聞いたのは、たった1回、30年ぐらい前のおじの通夜の席。2人きりではなく、親戚を交えて酒を酌み交わすうちに、もらした思い出話を小耳に挟んだ。驚きはあったが、信じられない気持ちが半分だった。2015年、娘と2人で行ったベトナム訪問を機に、調査への情熱に火が付いた。
あのとき、しつこく質問していればもっと詳細な足取りを確かめられたかもしれない―。心の中でくすぶっていた後悔の重荷が、思いがけない前進で、少し軽くなった。
映画制作を手掛けてくれたスタッフ、大学の研究者、残留兵の家族、通訳を務めた異国の友人。父の過去を探る過程で、多くの人々に出会い、還暦を過ぎて、自分の世界が一気に広がった。貴重な手がかりを得られたことに、仲間たちからは「奇跡だね」「まるで探偵みたいだ」と驚きの声が上がった。
添野さんは忠三郎さんの養子だった。そのことを娘に打ち明けぬまま、世を去った。そんな自身の生い立ちも、添野さんが熱心にベトナムでの調査を続ける支えになっていた。
4度目となる約10日間のベトナム調査の最終日。ホテルで添野さんは激しい腰痛に襲われ、歩けなくなった。ワラにすがる思いで前日、初対面で食事をした日本語教師の女性に電話で助けを求めた。もらった薬で症状が落ち着き、何とか帰国できた。
「父は、ベトナムで親切にしてくれる人がいたからこそ、命を永らえて帰国し、私を育てることができた。私も人に出会い、支えられて奇跡をつかんだ。その大切さをかみしめて生きていきたい」。
数奇な半生を娘に語り継がずに逝った父。でも、語らなかったことで、期せずして大きな足跡を娘の人生に刻んでいた。(鹿野幹男)
終わり