【コラム・オダギ秀】若者たちは、何を思い励んだのか、若かったボクは、若いなりに様々な思いを胸にした。訪れたその日、うっそうとした木立に囲まれたその敷地は、夏草が腰までも生い茂っていた。それをかき分け樹木をまたぎ、建物に近づくと、あたりの藪(やぶ)から気配に驚いた野鳥が、いきなり飛び立った。
水戸市郊外成沢町。幕末の私塾「日新塾」の跡である。現在は史跡として整備されているが、その時は、まぎれもない廃墟だった。
日新塾は、水戸藩の時代、加倉井砂山(カクライサザン、1805〜1855)がこの地に開いた私塾であった。門人数といい設備といい多彩な教育科目といい、水戸藩だけでなく関東一円を見渡してもこれに比肩すべきものは見出せないほどの、有数屈指の私塾であった。
砂山は、少年時代から遊学の志を強く抱いていた。しかし、豪農加倉井家の家督相続をせねばならず、その志は断念せざるを得なかった。そこで砂山は自分の夢を後進の教育に託し、ここ自宅に、日新塾を開いたのだった。教育者砂山の名声は高く、地元のみならず下野、奥州白川、会津、さらに越後など、はるばる訪ねて学ぶ門人も少なくなかった。
砂山の教育の方針は、門人各自の特性を伸ばすこと、とくに時代に即応した教育をすることであった。塾名を日新と言った所以(ゆえん)もそこにあったという。
若者たちは何を思い語りあったか
しかし、砂山の教育が時代を見据えたものであったればこそ、幕末という時代の疾風怒濤は、門人たちの生涯を、波乱のなかにもてあそんだようだ。門人たちは、日新塾に起居し学習を共にした縁で、身分の枠を越えた同志として固い絆に結ばれた者もあった。逆に、敵味方に別れて戦わねばならなくなった者もいたのである。彼らは命をかけてその時代に生き、その時代の中で生涯を終えた。
▽興野道甫 在塾20年、塾長を務める。幕軍により斬首。
▽光岡敬斎 日新塾塾長。維新後、大参事に任命される。
▽鯉渕要人 桜田門外の変に参加、八重洲河原で切腹。
▽香川敬三 維新後伯爵。枢密顧問官となる。
▽川崎守安 北海道開拓に従事。川崎財閥の基礎を固める。
▽飯田軍蔵 笠間の獄中で死去。
▽藤田小四郎 筑波山で挙兵。敦賀で処刑。などなど。
集いあったこれらの若者たちは、この木立のなかで、何を思い、何を語りあったのだろうか。
今は整備された小公園のような跡地となっているが、取材当時は、管理する者のない塾舎はすっかり朽ち果て、何本もの竹の子が、床から天井まで突き抜けている無残な廃屋だった。それを夢の跡と呼ぶには、あまりに切なかった。(写真家、日本写真家協会会員、土浦写真家協会会長)