土浦市 相原輝雄さん
土浦市に住む相原輝雄さん(97)は18歳になった1944年、予科練(海軍飛行予科練習生)甲第14期生として海軍に入隊した。父親は東京・品川でクリーニング店を営んでいた。「当時、若い人は軍隊に行くのが華だったし、戦争に行ってアメリカをやっつけるのは当たり前という雰囲気だった」。
最初は奈良県丹波市町(現在の天理市)にあった三重海軍航空隊奈良分遣隊(ぶんけんたい)で基礎訓練を受けた。天理教の信者詰所を接収して発足させた分遣隊で、同期の甲14期生は1000人くらいいたと記憶している。海軍の寝床は吊り床(ハンモック)だと聞いていたが、天理教の詰所だったことから寝具はわら布団だった。
入隊直後は古参の兵長が相原さんら40~50人の指導に当たった。下着から文具まですべて用意してくれ、親切に世話をしてくれたので、最初は優しい人なんだと思っていた。ある朝、布団をもってうろうろする予科練生がいた。兵長に見つかり、こぶしであごを殴られ、ひっくり返った。見ていた全員に一気に緊張が走り、「軍隊とはどういうところか、初めて分かった」瞬間だったと振り返る。
予科練生の1日は、朝5時45分にマイクで「総員起こし15分前」放送が流れ、6時に起床ラッパが鳴る。整列して皇居がある東に向かってお辞儀をし、天皇が詠んだ和歌、御製(ぎょせい)を歌って、海軍体操をする。続いて「甲板掃除」と「駆け足」の2グループに分かれ、甲板掃除班は兵舎の掃除をし、駆け足班は隊列を組んで街中を駆け足で行進してから朝食をとる。
課業(授業)は午前9時から午後4時までほぼ1時間刻みで行われた。無線の授業が特に重視された。操縦する戦闘機の位置を母艦に知らせるために重要だからだ。精神講話もあり、日本は神の国であり天皇陛下のために命を捧げることはいいことだと教えられた。成績が悪い者にはあごをこぶしで殴る「あご」、太い棒で尻を叩く「バッター」などの制裁があり、風呂に入ると皆の尻にバッターの跡があるのが分かった。
年が変わって間もなく、班の教員が代わり、ミッドウェー海戦の生き残りだという一等機関兵曹が着任した。富田といい、体重が80キロほどもあった。
富田教員がやってきて間もなく、相原さんの班の通信の成績が最下位になった。富田教員は烈火のごとく怒り、班の14~15人を廊下に整列させ、拳であごを殴り、全員がその場でひっくり返った。
相原さんが殴られる番が来た。足を踏ん張り、口を閉じた。殴られ、目の前に火の玉が浮かんだような気がしてよろけたが、倒れなかった。
数日後、富田教員から教員室に呼ばれ「甲板練習生をやれ」と命じられた。甲板練習生とは、分隊の軍紀や風紀を取り締まる係で、同期生であっても制裁を加える権限があった。特別扱いされ、一目置かれる存在だ。殴られてもただ1人倒れなかった相原さんを富田教員が気に入り推薦した。
「それからは楽だった」と相原さん。訓練の際も号令を掛ける立場になったため、教員から制裁を受けることもなくなった。「軍隊は悪いことばかりではなかったということ」、一方で「ただ1人、ひっくり返らなかったというだけで、そういうことが通用するのが軍隊だった」。
1945年5月初め、阿見町の土浦海軍航空隊に異動命令が出て、奈良分遣隊の甲14期生全員が特別列車で移動した。
寝具はハンモックだった。ハンモックをたたんだり、下ろしたりする訓練は大変だったが、甲板練習生になった相原さんは号令をかける立場だった。
しばらくして第14期生全員が練兵場に招集され、特攻隊の指名が行われた。名前を呼ばれた者は特攻隊員として魚雷艇に搭乗する。魚雷艇はモーターボートの船首部分に爆弾を詰めて、隊員が操縦して敵艦に体当たりする特攻兵器だ。戦闘機による特攻よりも死ぬ確率が高いことを誰もが分かっていた。
その日、相原さんの名前は呼ばれなかったが、夜になると、あちこちですすり泣く声が聞こえた。後で分かったことだが、名前を呼ばれたのは次男、三男、四男ばかり。相原さんは長男だった。
6月10日、土浦海軍航空隊と周辺地域が米軍のB29に爆撃される阿見大空襲があった。この日は日曜日で、土浦に来て初めて外出できる日だった。面会に来た家族もあり、民間人も含めて教員、予科練生ら374人が犠牲になった。甲板練習生だった相原さんは兵舎を駆け足で点呼し、兵舎を守るためその場に残った。
翌日は特攻基地建設のため千葉県に連れて行かれ、土木工事に従事した。7月下旬にも岩間(現在は笠間市)に行き、特攻基地建設に当たった。
8月15日は上官の分隊士から「本日、昼休み時間に重要な放送がある」という話があった。当時宿泊していた農家の庭に集まってラジオで玉音放送を聞いたが聞き取りにくく、分隊士から「日本は無条件降伏した」と聞かされた。皆、次第に興奮し「筑波山に立てこもって最後まで戦おう」と話し合った。
しかし翌日、帰隊命令が出され、分隊士の説得もあって、皆で隊に戻った。復員が決まり、コメや缶詰などの食料と、服や靴、毛布などの身の回り品を、自分で背負える分だけ持ち帰ってよいことになった。背負える分だけでなく持てるだけ持ち帰ろうと、それぞれ4~5人のグループで農家から牛車を借りて土浦駅まで運んだ。隊を出ようとしたところ、門のところで「退職金が出るので持ち帰ってください」と衛兵に呼び止められ、1000円を超える退職金をもらった。当時、二等兵の月給は45円。2年分の給料に相当する額だった。
東京は空襲で焼け野原になっていたが、自宅がある一角は焼けずに残っていた。コメを3斗(45キロ)持ち帰り、家族に大変喜ばれた。戦後は、通産省工業技術院(現在は産業技術総合研究所)地質調査所に勤務し、全国各地を歩いて石炭や鉄などの地下資源の調査をした。
「戦争とは何かなど、当時は考える暇もなかったし、考えもしなかった。とにかく敵をやっつけるために特攻があって、それに乗せられた。我々自身が考えるということは一切なく、上から命令され、その通りに実行するのが役目だった。今は何でも言えるけれど、当時は一切言えず、上から言われる通りにやらないといけなかった」と話す。(鈴木宏子)
続く