【コラム・オダギ秀】写真という言葉がいけないよ。写真は、真実を写すものだと思ってしまう。でも、今ほど写真がウソをつけるようになったのは、いいことか悪いことか。
それほど昔ではないが、霞ケ浦の水が汚れていると騒いだ時代。自然保護活動をしていた叔母から、アオコにまみれた霞ケ浦の写真を撮ってほしい、と頼まれた。でも、グリーンを強調した写真もグリーンがない写真も簡単だよ、と説明して、そんなことやれるかよと断ったが、一般の人々は、写真は真実を写すものだと思っているのだな、と写真についての非常識を少し納得した。世間の人々は、写真は真実を写していると思っているのだ。
少し言うと、特定の色彩を強調したり弱めたりすることは、現在のデジタル画像万能の時代でない初期の時代であっても、それほど苦労せずに出来た。秋の雰囲気の木立が欲しければ、木立の葉を秋の色にする程度のことは、しばしばやっていた。仕事の範囲で、当然のように、こなしていた。
もっと以前のフィルム写真の時代には、苦労はした。それでも何とかこなすこともあった。だが、写真を変えるということは、なかなか難しいことだった。写真は真実を変えられないというのが、一般的な常識だった。
水ようかんを撮っていて、現像が済んだフィルムを見たら、皿の手前に、毛髪が1本落ちている。今なら、すぐに消せるのだが、そのころは、手作業で毛髪を消し、消した後は、畳だったが、消したのが分からないように埋めなければならなかった。大変な職人芸だし、時間もかかったのだ。
そんなことするより、撮り直しをした方が、よほど楽だった。撮り直しするにも2日ほどかかったが、そのほうが楽なのだった。髪の毛一本にも、大変な苦労があったのだ。今なら、毛髪がバサッと落ちていても消せるし、バサッと置くことも簡単にやれる。
過去の写真遺産を残そう
そんな髪の毛一本にも苦労しなければならなかった時代の写真は、歴史的に大切な意味があるものでも、残せるか残せないかの瀬戸際にあるのが、現在の状況だ。フィルムでシコシコと撮影していた人々は、多くは亡くなり、それらの人々が撮っていた写真作品は、じいちゃんのゴミとして捨てられたり、燃されてしまっている。フィルムで撮られた写真は滅びようとしているのだ。
その写真が重要か重要でないかの問題ではない。重要か否かは、後の世が決める。ウソを撮ったのかホントを撮ったのか、その時代の写真を確認できるのは今が最後なのだ。フィルムでは検証できても、デジタルの時代になった今では、写真の真偽を確かめるのは、極めて難しい時代に入った。
そこで、それらの過去の写真遺産を残そうと、ボクの所属している土浦写真家協会は、アーカイブ事業を始めた。フィルム写真は、ほとんど真実だ。その真実を写している写真を、今なら、まだ辛うじて残せる。それらを無くならないうちにきちんと残し、歴史遺産として、大切に保存しようとしている。
もう少し時代が進んだら、真実を撮ったものかフェイクなのか、見極めることが極めて難しくなる。真実を写した写真を残すのは、今、しかないのだ。
例えば、〇〇年ごろは、✕✕はこんなに賑(にぎ)わっていた、寂(さび)れていた―という写真は、フィルム写真では、どちらにも撮れたけれど、それは何故(なぜ)で真実は何か、ということをフィルム時代には検証できた。つまり、フェイクかリアルかをかなり確実に検証できた。そのように写真をホントかウソかと検証して残せるチャンスは、今しかない。
だからこそ、写真を真実か否か、として整理しアーカイブすることが、今、とても大切だと思っている。(写真家、日本写真家協会会員、土浦写真家協会会長)