つくば市松代の竹島由美子さん(74)は51年にわたり、速記者という仕事に一筋に向き合ってきた。現在は都内の速記事務所から委託を受け、自宅に届く講演会やインタビューの録音をパソコンで文字に起こす仕事を続けている。現場に出向く仕事はほとんどなくなり、速記の符号に出番はないが、培った技術を生かし仕事に磨きをかけている。
速記は、簡単な線や点でできた符号などを使って、人が話す言葉をその場ですぐさま書きとり、それを解読して文章に書き直すまでの作業を指す。
竹島さんは「符号の出番がなくなってきたことは寂しいが、技術の進歩に助けられて仕事を続けてこられた」と話す。コロナ禍で仕事がキャンセルになったことがあったが、仕事が物心両面で支えになっているという。時代とともに新たな言葉が生まれたり、流行したりする。これからも毎日2紙の全国紙に目を通して話題や言葉にアンテナを張り、レベルアップを図っていきたいという。
アナログ録音機で独学
東京生まれ。中学生の頃から作文や感想文を書くのが好きで、子ども向けの雑誌に載っていた「速記文字を使えば人の話が書ける」という速記専門学校の宣伝文句にひかれたのが始まり。当時は速記学校の募集広告が多く見られ、「就職したら速記を勉強しよう」と決めたという。
高校卒業後、比較的休みの多い学校の事務職員なら速記を勉強するのに都合が良いと考え、明治大学の採用試験を受けて職員に採用された。
大学から帰宅すると速記に独学で取り組んだ。アイウエオの五十音の符号を覚えてつなげるだけでは話すスピードに追いつけず、さまざまな略字が用いられる。それらの符号を覚え、自分でアナログの音声録音機(オープンリールデッキ)に吹き込んだ朗読を再生し、速記符号で書く作業を繰り返した。「言葉を聞いて自然に手が動くまで、根気よく練習した」と振り返る。
もっと速記の腕を上げようと週末に速記学校に通い、大学職員になって3年目に日本速記協会が実施する技能検定試験を受けて3級に合格した。
合格から2年後に大学を退職し、速記事務所に就職して速記者の道を歩むことにした。「速記の仕事は私に合っていました。会議やインタビューで未知の人や有名人に会えて、録音した話はためになった上にお金がもらえる」
この頃、大学の教職員組合の文化祭で知り合った男性と交際していたが、新たな船出の時期、彼は会社の仕事で海外にいた。帰国を待って報告すると、安定した職場を辞めたことを叱責され恋は終わった。
速記者として充実した毎日を送りながら、猛勉強して技能検定2級に合格した。2級検定は分速280字のスピードと文章の正確性が求められ、合格率はおおよそ20%と狭き門だ。
フリーの速記者を経て32歳で東京速記士会(東京・品川)に入会し、先輩の速記士、竹島茂さん(1925-2012)に会った。東京大学文学部卒の竹島さんは速記の仲間たちから一目置かれる存在だった。
5年後の1985年、竹島さんがつくばに創業した地域出版社「STEP」の社員となり、活動の場を東京からつくばに移した。「つくばの個性を生かしたまちづくりに向けた出版活動」という考えに共感したことが大きかった。
社長の竹島さんの片腕となり、月刊オピニオン誌『筑波の友』の発刊や、筑波山や霞ケ浦に関する書籍、研究者の研究成果などの出版に奔走した。53歳で竹島さんと結婚。10年前に夫竹島さんを見送り、会社は廃業(2016年)したが今も現役の速記者としてパソコンに向き合っている。
速記を取らないデジタル環境
50年経って速記者の環境は大きく変わった。仕事を始めた頃は重いアナログ録音機とコード、マイクを提げて現場に行き、全ての発言を録音することに集中した。その後録音した音声を聞きながら速記し、万年筆で原稿用紙に書き直した。
今は手書きの速記を取らず、小型のICレコーダーなどで録音した音声をパソコンに移し、音声を聞きながら直接パソコンに入力する方式が一般的になった。議会の議事録などありのままを記録することが求められるケースもあるが、「講演会やインタビューなどは誰もが読みやすい文章にするのが速記者の仕事」という竹島さん。
「意味が分かりづらい話し言葉や重複している表現を整文するなど、文章を磨きあげるのは速記者の腕にかかっている」と現役の速記者としての意気込みを語る。(橋立多美)