【コラム・先﨑千尋】10月22日に福島県飯舘村の牛飼いだった長谷川健一さんが68歳で亡くなった。残念な思いで訃報に接した。長谷川さんの人徳をしのんで、葬儀には通夜も合わせて約800人が参列したという。
私は、東京電力福島第1原発の事故から10年経ったこの3月、長谷川さんに「農業協同組合新聞」の取材でインタビューした。その時、長谷川さんを主題にした豊田直巳監督の映画「サマショール」のひたちなか市での上映に合わせて、彼に講演を頼んできてくれという友人の話を伝えた。「医者から甲状腺がんだと言われているので講演には行けない」と長谷川さんからかすれた声で言われ、びっくりしたのが昨日のことのようだ。
長谷川さんの死を悼み、「東京新聞」は10月27日の「ニュースの追跡」で、〝訴えた怒り 遺志は残る〞という見出しを付け、大きく取り上げている。ネット上でも彼を知る多くの人が追悼の文を寄せている。原発にふるさととなりわいを奪われた長谷川さん。無念の思いを抱いたままの早い旅立ちだった。
事故で生活は一変
長谷川さんは4世代家族。事故前は50頭の乳牛を飼っていた。2000年頃からはダイコン、キャベツ、加工用トマトなどの野菜も作っていた。同時に前田区の行政区長も務めていた。
事故後、長谷川さんの人生は一変した。村は計画的避難区域に指定された。長谷川さんは前田区の住民のつながりを保てるように、まとまって暮らせる避難先を探し、伊達市の仮設住宅への集団移転を実現させた。全世帯が村を離れるのを見届けて、最後に村を離れた。8月になった。村のパトロール隊組織「全村見守り隊」のメンバーにもなり、定期的に地区内の留守宅を回って歩いた。
それが甲状腺がんの一因になったのではないかと考えている。長谷川さんの友人は「原発さえなければ」と書き残し、自死した。長谷川さんも酪農は廃業せざるを得なかった。
長谷川さんは、事故が起きてすぐ、飯舘の状況を後世に残さなければと考え、カメラとビデオで日々の生活や村内の風景、人々の姿を克明に記録し、ドキュメンタリー映画「飯舘村 わたしの記録」を制作した。メディアの取材や講演の依頼にも積極的に応じ、自らの体験を語ってきた。チェルノブイリ原発事故の被災地にも足を運んだ。本も出した(『写真集飯舘村』『までいな村、飯舘』(七ツ森書館など)。
村民の約半数の3000人が東京電力を相手にした裁判外紛争解決手続き(ADR)で賠償の増額などを求めた申立団では、団長に就いた。また、2015年に設立された被災者団体の全国組織「原発事故被害者団体連絡会(ひだんれん)」では、福島原発告訴団の武藤類子さん(三春町)と共同代表を務めていた。
2017年、村の大半で避難指示が解除されると長谷川さんは帰村し、地区内の耕作放棄地でソバづくりを始めた。昼夜の温度差があるので香りの強いソバができ、放射能も基準値以下だが、風評被害で売れなかった。「収益が上がらなくとも、あとの人たちが営農が続けられるよう荒れ地にせず、一番簡単なソバを作っているんだ」と話してくれた。
仲間だった前村長の菅野典雄さんとは、事故後に避難や村づくりをめぐって意見が合わず、袂(たもと)を分かった。(元瓜連町長)