【コラム・小野村哲】小学校国語の模擬授業に参加した。都会の人混みが苦手な私には、自宅に居ながらにして参加できるオンライン会議システムを使った研修機会は天の恵みだ。
授業者は教師歴5年目の若い教師、題材は宮沢賢治の「注文の多い料理店」だった。まずは本文を読んで疑問に思った点を、PCに直接タイプしていく。「なぜ、クリームをぬらせたのか?」「どうして風が、‘どう’と吹き始めたのか?」など、他の参加者と疑問点を共有したら、今度は、その中のいくつかを選んで自分なりの回答を書き込んでいく。
もしもこれを一人ひとりに発表させ、板書していたら、大変な時間を要しただろう。挙手となると、発表する子も限られてしまいがちだ。しかし一人に1台のPCを用意すると、これまで手を挙げなかった子まで含め、より多様な考えがより積極的に打ち込まれるようになり、その後の話し合いも活性化したという。
ただ漫然と、塾や家庭で予習をしてきた子が模範的な発表をするのを聞かされて過ごすのでも、教師の範読のあとに棒読みするのでもない。With / Afterコロナの時代にあっては、与えられた情報をうのみにするのではなく、批判的に読み取る力が求められる。時代に取り残されつつある老教師にとっては、コンビ漫才のように宮沢賢治の作品に突っ込みを入れようという発想そのものが興味深かった。
次代に託す
コミュニケーションツールとしての「人の言語」は、あいまいで不完全なものだ。距離や方角を正確に伝えるという点ではミツバチのダンスにも及ばない。木々の間を風が吹き抜ける様子を正確に伝えるすべもない。英語の授業では‘critical’を「批判的」と訳すが、英語話者が思う‘critical’に比べて、多くの日本語話者が「批判的」という語から受ける印象はよりネガティブだ。
文字に変換された言葉はなおのこと、教科書に整然と並んだそれはいわばフリーズドライされたものだと思っていい。「馬鹿」という文字は「ばか」としか読めないが、解凍の仕方によっては「愛している」という意味にもなり得る。しかしこれまでの国語の授業では、これを受動的、無批判に読ませることに終始しがちだった。授業の後で行われるテストには、あらかじめ「そのときの主人公の気持ちは、…である」と正解が用意されていた。
もちろん基礎基本をおろそかにしてはいけない。しかし、時に不可解でさえある常識を押し付けるような授業では、言葉は生気を失う。当然、‘critical’で‘assertive’なコミュニケーション能力など養われようもない。
コロナ禍を文部科学省は「非常事態」だといい、授業のオンライン化を推し進めろと言う。「学びを止めるな!」というのももっともだ。しかし私は「学びが止まる」ことよりも、今の学びが「そのまま続く」ことを恐れる。ICT化はいいが、学びのあり方を見直すべき今、授業はおざなりに継続され、一人に1台のPCをもたせることが、目的とされてしまうことを恐れる。
時代は移り変わっている。幕末の先人たちがそうしたように、次の世代にバトンを渡し、その新たな取り組みを支援したいと思う。(つくば市教育委員)