月曜日, 3月 23, 2026
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ふたたびの徳一大師 土浦の古代仏教研究家が30年ぶり続編

【相澤冬樹】神の山、筑波山にお寺を開いた奈良・平安時代の僧侶、徳一(とくいつ)をご存じだろうか。土浦市在住の古代仏教研究家、内山純子さん(85)が「法相宗(ほっそうしゅう)徳一の教化を中心に」をサブタイトルとする著作『古代東国の仏教』(青史出版)をまとめた。内山さんは1990年にやはり徳一を取り上げた『東国における仏教諸宗派の展開』(そしえて)を上梓しており、ほぼ30年ぶりの続編となった。

筑波山を足場に東国教化

著作によれば、徳一は天平勝宝元年(749)生まれ、承和三年(836)- 九年(842)の間に没している。ほぼ最澄、空海と同時代の宗教家だが、平安密教の担い手としで華々しく活動した両大師に対し、徳一は奈良仏教の再生を願い東国に下向、筑波山に拠って論陣を張った。特に最澄と繰り広げた「三一権実論争」は、わが国における大乗・小乗仏教の宗教論争として知られ、徳一関連で今日に残された数少ない文献となっている。

その足跡は筑波山のほか、福島の会津、いわきに残されている。内山さんはそれらの地域を訪ね歩き、記録を再構成して、今回の著作にまとめあげた。

同書では、徳一を藤原仲麻呂(恵美押勝)の末子と特定した。仲麻呂の乱(764)は徳一16歳のときで、配流を経験したのが東国での布教のきっかけになったという見方を示した。当時の常陸は蝦夷(えぞ)征伐など度重なる出兵に疲弊し、さらには地震や水害に苦しめられていた。大同元年(806)には会津磐梯山が大噴火を起こしている。

徳一はぼろをまとい、粗食をいとわずこれらの地域に入り、救済のため仏法を説き、寺院を建立して回った。その足場としたのが筑波山。当時から神の山として知られていたが、藤原氏の氏神である鹿島神宮の許諾をとる形で筑波山に入ったと見られる。

「古代東国の仏教」表紙写真は徳一座像(月山寺所蔵)

筑波山寺(知足院中禅寺)を開基したのをはじめ、東西南北にそれぞれ菖蒲沢東光寺(石岡市)、椎尾山薬王院(桜川市)、東城寺(土浦市)、小幡薬王院(石岡市)を配した「筑波四面薬師」を教化の主な舞台とした。同書巻末には、徳一伝承寺社が一覧表にまとめられており、茨城県内には42寺社を数える。

さらに会津では恵日寺(磐梯町)、勝常寺(湯川村)、円蔵寺(柳津町)などが徳一の建立と伝わる。これらの寺院は徳一没後、早々に真言宗、天台宗に転じて存続を果たすことになるが、内山さんは「訪ねると、稲敷市の逢善寺など多くのお寺の過去帳に徳一の名が残っている。宗派に関係なく大事にされてきたことが分かる」という。

これらの寺の多くは明治の廃仏毀釈(きしゃく)による被害を免れず、特に徳川幕府の篤い庇護(ひご)を受けた筑波山の中禅寺は徹底的に破壊された。所在地だった筑波山神社周辺を訪ねても、寺跡すら見つけにくく徳一についての手掛かりは皆無に近い。

「そのせいか、筑波の徳一研究はあまり進まなかった」と内山さん。30年の間に、西谷隆義さん(故人)や保立道久さん(東大名誉教授)が論考を著すなどしているが、単発的で会津に比べると体系化されてこなかった。「自動車免許を返納し、歩き回るのが難しくなった機会に今一度資料をまとめ直したかった」という。

知足院中禅寺の流れを汲み、本堂・客殿の新築工事を行ってきた筑波山大御堂(おおみどう)が2020年春には完成の見通しになっている。これを機に徳一評価の機運がふたたび高まることを期待している。

◆内山純子『古代東国の仏教 – 法相宗徳一の教化を中心に』(青史出版刊、四六判、131ページ、本体価格3800円)

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序章 土浦一高哲学部「放課後の哲学」

はじめに 【コラム・哲学部顧問 飯島一也】現在、世界的に哲学ブームが起きているそうです。1960年代生まれの筆者にとっては、80年代に起こったニューアカデミズムという哲学ブームが懐かしく思い出されます。今回の哲学ブームはAIの進化と関連があるようで、AIと倫理に関連するスキルを合わせ持つ人材が、過去5年で6倍に増えているとのこと、2025年12月8日付 日経新聞電子版の記事「超知能 仕事再定義⑴ AI時代の雇用『求む!哲学専攻』」には、以下のように述べられています。 「なぜ今、哲学なのか。米エール大学心理学部のローリー・アン・ポール教授は『AIがもたらす予測不能な未来に、既存の価値観では対処できなくなりつつあるためだ』と説明する」 「AIはいずれ与えられた最終的な目標に向けて自ら計画を立て、必要なタスクを自律的に実行するようになると見込まれている。そのとき、AIの根本的な判断を左右するのは開発者の思想にほかならない」 この記事では「開発者の思想」である哲学は、「予測不能な」AIに対抗するためのものとされています。現代のAIは人間の脳をモデルとして作られていることから、筆者からすると、AIを開発することが人間の知能や人間らしさそのものについて思索する可能性を開いている、という側面も重要であると思っています。 改めまして、土浦一高哲学部顧問の飯島と申します。この度、NEWSつくばのライター柴田大輔さんから、生徒のエッセイを連載するという企画について、お声を掛けていただき、生徒にとって、自分の思索を文章にする絶好の機会だと受け止めました。連載を始めるにあたって、本稿では、顧問の立場から、部活動や本コラムの紹介をさせていただきます。 哲学部の由来 高校生が哲学について考え、自身の問題として語り合う。そういった放課後の光景が、土浦一高には、部活動として存在しています。土浦一高哲学部では、この記事の執筆時点(2月21日)で、1、2年生合わせて23人の部員が、それぞれの関心に応じて哲学を探究しています。 「哲学部」が正式に部活動として承認されたのは、2025年3月の生徒総会で、まだ最近のことになりますが、前進となる組織は、文芸・弁論部内の「哲学班」として、約4年間の活動を積み重ねてきました。 その始まりは、2021年の4月頃、入学して間もない一人の女子生徒が、国語科室を訪れたという出来事にさかのぼります。その生徒は、中学時代、筑波大学で開催されていた哲学カフェに参加したことがあり、土浦一高でも開催してほしいと言うのです。その要望に応える形で、まずは1年生を対象に第1回の哲学カフェを開催し、そこに参加した5人の生徒が文芸・弁論部に入部したことで「哲学班」の発足に至ったのでした。つまり、哲学部の始まりは、あくまで生徒の要望だったのです。  哲学部の活動 そのような経緯から、哲学部の活動の中心は、哲学カフェにあります。参加者が輪座して対面し、当たり前に見える事柄を疑い、その場にいる皆が納得できる答えを求めて、専門的な知識を用いず、誰にでも通じる言葉で、前提にさかのぼって対話する。ですから、哲学カフェにおける「哲学」とは、参加者全員が共同して制作するものです。つまり、「哲学」を生み出すのは「対話」なのです。この原則は、哲学カフェを離れた、読書や文章作成などの場面でも変わらないと考えます。そこで、読書会なら「テクストカフェ」、文章作成なら「編集カフェ」というように、あらゆる活動について、対話を通して行うように意識しています。 また哲学カフェを含めて、個々の活動は「チーム制」で行っています。生徒自身が発案し、生徒自身の交渉によって実現したチーム活動としては、地元のレンタルスペースを運営する「がばんクリエイティブルーム」さんのご協力による市民哲学カフェが挙げられます。生徒が東京大学の研究室を訪問したときに、土浦一高で哲学カフェを開催していただけるよう、名誉教授を口説き落としたこともあります。他にも、哲学カフェの研究・企画・運営を行う哲学対話モデル研究会や、哲学史勉強会、各種の読書会、哲学散歩、広報活動などに、チームで取り組んでいます。最近の動きとしては、哲学という言葉に敷居を感じる人にも対話の文化を届けるために、心理班を発足させ、精神療法の一つであるオープンダイアローグ(開かれた対話)を活用した実践も始めています。 このように、土浦一高哲学部では、「対話」と「チーム制」に基づいて、フラットで対等な関係性が築かれています。 哲学部の挑戦 哲学部がまだ哲学班だった頃、2代目の班長を務めた女子生徒の言葉が印象に残っています。卒業を前にして残してくれた言葉です。 「哲学カフェで戦争を止めたい」 20世紀後半の哲学では、様々な哲学者や学派が異口同音に、言語や対話の重要性を主張していたように思います。それらの動きに先駆けて、アメリカの哲学者でプラグマティズム(実用主義)の創始者チャールズ・サンダース・パースは、次のように述べています。 「私たちは純粋な概念を語ることから始めてはならない。それはまるで誰も住んでいない公道をさまよい歩くようなあてのない考えだ。そうではなく、人々とその会話とともに始めなければならない」(CP8.112) 相対主義と分断の時代にあって、対話を通した哲学、哲学を共創する対話が生み出す関係性は、共同体の新たな形の一つを示唆しているように思います(*脚注)。学校内外での哲学カフェの実践は、そのような新たな共同体の芽を育てていく挑戦でもあると、土浦一高哲学部は考えています。 コラム連載にあたって これからご覧いただくコラムは、哲学部員の中から手を挙げた生徒たちによるものです。「対話を通した共同執筆」という理念の下にチームを立ち上げ、先ず、生徒が選んだテーマについて、それぞれ30分くらいの哲学カフェ、次に、生徒が書いた第1稿について、やはりそれぞれ30分くらいの編集カフェを行いました。その後は、生徒が自身の内的な声と対話しながら完成させました。 生徒の文章を読むと、世界の根源などといった形而上学的なテーマは見受けられず、日常生活に密着した問いが中心となっています。その分、想定した以上に、生徒それぞれにとって切実なテーマが取り上げられているように思います。また、哲学カフェや編集カフェで交わされた対話や出された意見を誠実に受け止めて、文章に反映させようとしていました。それ故に、産みの苦しみを味わった生徒も多かったようですが、その過程で、自分の問いに進展があった、答えが見えた、という言葉を生徒から聞けたときは、このコラムのお誘いを引き受けてよかったと思えました。 哲学史の知識や文献研究の点では物足りなさを感じる方もいらっしゃると思いますが、「タイパ」(タイムパフォーマンス=時間対効果)重視という表面的な若者像、「Z世代」というステレオタイプとは異なった、リアルな若者の姿を発見できるでしょう。現代の高校生たちが、いかに誠実に世界と向き合い、いかに真剣に思索しているか。放課後の教室で、夕日を浴びる街中で、哲学を語り合う高校生たちのエッセイ集を、ぜひお楽しみください。『放課後の哲学』、スタートします。 *脚注筆者は、顧問として、生徒との哲学カフェの体験を積み重ねる中で、生徒がこれほどまでに哲学カフェに熱中するのはなぜなのか、問い続けてきました。その結果として実感したのは、次の2点です。一つは、哲学について:哲学とは、たとえ高度に専門的なものであっても、内的/外的な対話によって制作されるものであるということ。よって、哲学カフェは初歩的なお遊びどころか、哲学本来の姿を具現しているということ。そして、哲学カフェという場所では、対面することによって、参加者に共有できる現実が生み出され、その現実との対話から出された結論は、アドホック(その場限りの)でありながらも普遍性を確保しうるということ。もう一つは、対話について:哲学が共同の制作物であると前提することで、哲学カフェに必要なルールが決まってくるということ。そのような哲学カフェのルールとは、対話を成立させるためのものに他ならないということ。そして、対話の中で、参加者それぞれの経験や気づき、アイディアが、哲学の共同制作に寄与していると実感できることで、他者や自己の価値に気づき、お互いを尊重し合うような関係性が発展するということ。筆者の実感と近いものとして、精神障害等をかかえた当事者の地域活動拠点「べてるの家」に対する野口裕二氏の考察が挙げられるでしょう。「 〔べてるの家では〕上下関係が生まれる心配はないのか。結論からいえば、その心配はない。その理由のひとつは、当事者研究が共同研究という形をとっているからである。誰かひとりのアイディアではなく、みんなで作り上げたアイディアとなるので上下関係と結び付きにくい。もう一つの理由は、そこで出てきたアイディアが有効かどうかは実際の行動によって検証されるからである。」(野口裕二「継承すべき系譜②―自助グループ」(臨床心理学増刊第10号 当事者研究と専門知)2018:松本卓也『斜め論』2025よりまた引き)当事者研究と哲学カフェは、共同の表現の制作が対等な関係性につながる点、当事者または参加者に共有される現実が検証や普遍性の根拠とされる点で、共通していると考えられます。同じように対話を重視しても、声の複数性(ポリフォニー)の確保そのものが水平性につながる点を強調するオープンダイアローグとは対照的です。

阿見町、2027年の市制移行ならず《文京町便り》50

【コラム・原田博夫】2027年11月に市制移行を予定していた阿見町は、3月11日、市への移行を見送ると発表した。昨年10月の第22回国勢調査(簡易)の結果、総人口が4万9689人(速報値)となり、市制移行要件の5万人を下回ったためである。 阿見町は、2023年11月の常住人口(直近=この場合は20年=の国勢調査人口を基準に、毎月の住民基本台帳の増減により集計)が5万人を超えたことで、25年10月の第22回国勢調査で5万人達成は可能と見て、市制施行への準備を進めてきた。25年10月1日現在の常住人口も5万637人だった。 しかし、2026年2月27日、第22回国勢調査の結果(速報値)が通知され、要件を下回ったことが判明した。阿見町としては、市制移行を前提に、26年度当初予算に関連費約1590万円を計上していたが、これを減額修正することになった。国勢調査の結果によるとはいえ、関係者の落胆ぶりがうかがえる。 国勢調査の歴史と特徴 そもそも国勢調査(センサス)は、公的統計の中でも基幹統計と位置付けられ、統計法第61条で、回答拒否や虚偽報告に対しては罰金50万円以下の罰則が規定されている。 歴史的には、1902(明治35)年に制定された「国勢調査ニ関スル法律」にさかのぼるも、当初予定された調査(1905=明治38=年)は日露戦争で、さらに第1次世界大戦(1914~18年)などで実施が延期され、第1回調査は1920(大正9)年まで実施がずれ込んだ。 現状では、①住民を対象に調査が実際に行われ、住民基本台帳など他資料を集計した業務統計は含めない②ある地域に住む人全員を対象にする③調査票を用いて対象の住民が自ら回答する④調査時点(10月1日)を定め、規則的に(西暦が0年では大規模調査、5年では簡易調査)に実施される―などの特徴がある。 社会構造が変化⇒調査手法を刷新? 国勢調査の回収率は、国民性のためか、かつては非常に高かった。しかし、近年は低下していて、特に大都市部では顕著である。 期間内に調査票の回収が困難な場合は、近隣住民からの情報を基に自治体が住民票のデータで補う「聞き取り調査」を行うが、この調査の世帯割合は、2000年調査では全国4.4%(うち東京都5.9%)、05年4.4%、15年13.1%、20年16.3%に急増している。その背景には、大都市部を中心にした高層・大型マンションのオートロックシステムや不在世帯の増加、地方圏では空き家の増加など、社会構造の変化が関連している。 かつては有効だった全数調査も、DX化や社会関係の希薄化が顕著な現代では、その限界が顕在化している。新たな調査手法が求められているのかもしれない。(専修大学名誉教授)

「霞ケ浦導水事業」を歩く《日本一の湖のほとりにある街の話》36

【コラム・若田部哲】1月末、霞ケ浦導水事業の見学会に参加しました。霞ケ浦を利根川-那珂川と結び、広域で水を融通する構想として昭和50(1975)年代に始まったこの事業の背景には、水需要の増大や水質への懸念、渇水時への備えといった、当時の社会的課題がありました。その後、長い年月の中で、事業を取り巻く状況や環境への向き合い方は変化を重ねていきました。 今回見学したのは、そのうちの一部、小美玉市の玉里立坑と、そこから地中に伸びる石岡トンネル。午前10時の集合時間には、親子連れや年配の方など、多くの参加者が集まっていました。 ヘルメットを着用し、全員で集合写真を撮影したのち、いざ、直径18メートル、深さ約45メートルの玉里立坑の縁へ。地上からのぞき込むと、円筒状の巨大な空間が足もとに垂直に落ち込んでいます。 5メートルごとに数字が記されたその光景は、想像を超えるスケール! ワイヤーメッシュの籠状の工事用エレベーターに乗り込み、ドアが締まると、歯車がきしむ音を響かせながらゆっくりと地下へと降下し、自然と緊張感が高まります。 底部に降り立つと、両側に大きく口を開ける「石岡トンネル」は、よく見ると直径が異なっており、片方は4.5メートル、もう片方は3.5メートルとのこと。計画や技術の変遷が、断面の違いに現れているのを感じます。 湖と人、技術と暮らしをつなぐ トンネルは、巨大な円筒形の「シールドマシン」によって掘り進められると同時に、工場製作のコンクリートの壁である「セグメント」を組み立てていく工法だそうです。全長31.5キロという数字に、その積み重ねの大きさを感じ、めまいを覚えます。 圧倒的なスケールの余韻を抱いたまま地上に戻り、見学会が終わろうとしたその時、これまでの工事を記録した映像が上映されました。 掘削、セグメントの組み立て、測量、機械の点検─さまざまな工種の作業員の方々が、真剣な表情で現場に向き合うその姿。巨大な土木構造物も、突き詰めれば一人ひとりの手仕事の積み重ねという、その確かな事実に改めて心を打たれました。 霞ケ浦導水事業をどのように受け止めるかは、人それぞれでしょう。ただ少なくとも、現場には確かに、人の手と時間が積み上げてきた現実があります。湖と人、技術と暮らしをつなぐ、長い対話の一端に触れることにより、この事業を「遠大な構想」ではなく、「目の前の風景」として思い描けるようになった取材でした。(土浦市職員)

琉球の希少植物と暮らしを紹介 筑波実験植物園で企画展

絶滅危惧種など150種 琉球列島由来の希少な植物を知ることができる企画展「琉球の植物−南国を育む植物たち」が20日から、国立科学博物館 筑波実験植物園(つくば市天久保、遊川知久園長)で始まった。展示されているのは、同植物園が保有する琉球列島の植物約400種類の中から、自然界では日本に1株しか残っていなかったり、自生地ではすでに絶滅してしまった希少種など、絶滅危惧種に指定されている約110種を含む150種あまり。 琉球の植物の展示は2019年以来7年ぶりとなり、豊かな自然が育んだ「琉球文化」の紹介にも力を入れる。展示を担当した同植物園研究員の國府方吾郎さん(57)は「琉球列島の豊かな自然とともに、たくさんの植物を有効活用してきた地元の人たちの暮らしを知る機会になれば」と来場を呼び掛ける。会期は29日まで。 展示会場は、多目的温室と研修展示場の2カ所。温室では、海岸、海岸林、山地林、低地林、渓流沿いなど琉球列島にある五つの自然環境の自生種を展示する。葉の裏側に赤い小さな花をつけるハナコミカンボクは沖縄本島の1カ所にしか自生していない。ナガミカズラは西表島で1株の自生が確認されている。小指の先ほどの白い花をつけるオリヅルスミレは自然界では絶滅してしまった。新種のアマミマツバボタンは國府方さんが2013年に発見した。 國府方さんは、「(奄美諸島、沖縄諸島などからなる)琉球列島は種の多様性が高く、単位面積あたりの植物種の数は日本本土より45倍多い」とし、背景には三つの理由があるとする。一つ目は、本土に当てはめると青森から高知までに相当する広い緯度差と多様な自然環境だ。「北琉球」とされる屋久島、種子島は本土と同じ温帯で、それ以南は亜熱帯に属する。その中にも乾燥地、湿地、標高の高低などの違いがある。 二つ目は、島ごとの交流が限られることで生まれた独自の進化だ。かつて大陸と地続きだった時代から、島々が分離した時期によっても種の違いが生まれた。大東島に限っては一度も他の土地との接続がない。 三つ目は、沖縄の言葉で、混ざり合うことを意味する「チャンプルー」だという。遺伝的にオーストラリアにある植物と近い種は、北へ向かう渡り鳥が種を運び分布するようになったと考えられている。その他、動物や人の移動、海流などにより、日本本土や東南アジア、台湾、ユーラシア大陸など世界各地とのつながりが確認されている。國府方さんは「その様子は、アメリカや日本、中国と関わり合ってきた沖縄文化のよう」だと話す。 文化を自然科学的に研究する必要ある 自身も沖縄出身だという國府方さんが今回力を入れたのが、研修展示場で紹介する琉球列島の植物と共に営まれてきた「人々の暮らし」だ。 地域に自生するキク科の野草 ホソバワダンは白和えなどにして食べられている。商品として流通するのは葉の大きい栽培品種だ。自生種との遺伝的な違いを國府方さんが調べると、意外なことが分かった。流通する品種と遺伝的に近い種が、海を超えた奄美や屋久島、平戸、対馬にあったのだ。 「近い種が沖縄の自生種ではなかった。元になるのは一つの株だということも分かった。昔、おいしいホソバワダンと出合った誰かが株をひとつ持ち帰った。近所の人にも食べさせたいと思い、株を分け合った。そんな様子目に浮かぶ」と笑顔を浮かべる。 このほか、「どこの学校にもあった」という大きく枝を広げるガジュマルの木と、そこに宿るとされる精霊のキジムナーの物語、葉を編んで草履にしたアダン、扇や笠にしたビロウ、赤い実が飢饉を救い、味噌にも用いられてきたソテツなど、琉球列島の人々の暮らしを支え、文化をもたらしてきた身近な植物も丁寧に紹介している。 「文化というのは自然から生まれたもの。私たち研究者も、文化を自然科学的に研究する必要があると思っている」とし、文化を自然科学的に研究しようというプロジェクトも進行中だと話す。「琉球の植物に関するクイズもあり、特製のポストカードのプレゼントもある。お子さんにも楽しんでもらえたら」と話す。(柴田大輔) ◆企画展「琉球の植物ー南国を育む植物たち」は20日(金・祝)~29日(日)の10日間、つくば市天久保4-1-1 国立科学博物館 筑波実験植物園で開催。開園時間は午前9時~午後4時30分(入園は4時まで)。入園料は一般320円、高校生以下と65歳以上は無料。詳しくは同植物園のホームページ、問い合わせは電話029-851-5159(代表)へ。