【あと一勝の壁】3 高校1年夏 鮮烈デビュー

2年夏

【伊達康】高校は県外の強豪校に行きたい気持ちもあったが、親の薦めもあって地元に残り父親の母校でもある私立霞ケ浦高校に進学した。中学までは常に叱られながら野球に取り組んできた上野だが高校では環境が一変した。監督は上野の全てを受け入れてくれたのだ。

「1年からすぐに試合で使っていただいたので気を遣ってもらっていたのかなという部分はありますね。好きにやらせてもらった。だからといって練習を手抜きした訳ではありません」。否定されることも叱られることもない分、自主性と自立心が要求された。

迎えた1年夏、2回戦の境戦で2番手として公式戦デビューを果たすと、3回戦の第7シード土浦湖北戦では先発を任され9回まで1失点。後を受けた片野凌斗(東京経済大―筑波銀行)が無失点でしのぎ延長15回の激闘を制した。3年生がベンチに4人しか入っていない2年生中心のチームはノーシードながら準々決勝まで勝ち進んだ。

インパクト残した1度目のチャンス 2強時代へ

甲子園への1度目のチャンスは1年秋に訪れた。霞ケ浦は県大会決勝で常総学院に0対7で敗れ茨城2位となり関東大会に進出。初戦は神奈川1位で大会優勝候補の東海大相模となった。誰もが東海大相模には勝てないだろうと予想していたカードであったが、なんと上野が完投して5対3で大金星を挙げた。あと一つ勝てば甲子園に手が届く。しかし続く準々決勝で宇都宮商に4対5と逆転負けを喫した。センバツ甲子園出場はかなわなかったが、東海大相模を倒したインパクトは大きく、1年サウスポー上野拓真の知名度は一気に上がった。

2年春には県決勝で常総学院に3対2で競り勝って念願だった夏の第1シードを獲得した。この頃から高校野球ファンの間で霞ケ浦と常総学院を称して「2強」と呼ばれるようになった。それだけ2校の力が抜きん出ていた。

=続く