【コラム・浅井和幸】文明の成り立ちだったり、科学の分野であったりで、「巨人の肩の上から見ている」というような表現をされることがあります。それは、先人の業績や研究などを巨人とたとえ、今いる自分がしていること、見えていることは、自分だけの手柄ではないのだという戒めになります。

最近のインターネットの発達で、いろいろなことが簡単に素早く調べることが出来るようになりました。そして、スマートフォンの発達で、さらに手軽に物事を調べることが出来るようになり、自分の知識か他人の知識かの境があいまいになり、それが加速度的に増えています。

情報網の開発が遅れている地域の人であったり、視覚・聴覚障害者などであったりの状況の中で情報を収集しにくいことを指して、情報格差がある、情報弱者であるという表現があります。しかし、昨今、巷(ちまた)で多く使われている、情報弱者、情報強者、ググレカスなどの言葉は、相手が自分より知識が少ないことを揶揄(やゆ)して使われます。

裏返せば、少々の情報を頭にとどめているかどうかで、相手より自分のほうが上であることを証明したという自尊心を持ちたいがための表現です。何かしらのコンプレックスを隠したいという、無意識の防御であり、防御するために相手を攻撃するという表現方法です。

これらのプライド、相手への攻撃は、自分にとっても危険なことです。自分よりも情報を持っていない人とばかり比較して、優越感に浸っている状況になります。

自分の力と錯覚 自分の力を過信

優越感に浸りたいだけだと自覚していればよいですが、ほとんどの場合、ちょっとした情報へのアクセスが、全て自分の力だと錯覚して、自分の力を過信してしまうのです。自分は有能、周りは無能と安心したい心理ですね。

何かの目的のために成長するのではなく、自分より情報を持たない人を見つけて攻撃をすることで、自分が素晴らしいと感じるという循環になっていきます。それは、自分より情報を持っている人、さらに情報処理をしている人には太刀打ちできなくなるのです。

私は、謙虚にいきましょうということではなく、事実、自分に出来ることとできないこと、そして相手の出来ることできないことを把握することが大切であると伝えたいのです。

自分よりも情報量が少なくても、別の部分で素晴らしい能力を持つのが、それぞれの人であると気付くことが、より豊かな人間関係をつくります。それは、自分の生き方も豊かになるということです。

自分が出来ていることは、今の周りの人や過去の人たち、ひいては環境、自然なども含めて自分があることのつながりを感じられることは、きっと次の豊かな生き方に繋がっていくことでしょう。(精神保健福祉士)