【鈴木宏子】土浦市の元中学校教員、栗栖恵子さん(86)は、80歳を過ぎてから母校の土浦二高に年1回赴き、後輩たちに戦争体験を伝えている。
栗栖さんは東京大空襲が激しさを増した1945(昭和20)年3月10日過ぎ、自宅があった東京から、父の実家がある土浦に逃れてきた。女子聖学院1年生で13歳だった。
家族は父母ときょうだい4人。小学6年の弟と3年の妹は群馬県伊香保に集団疎開した。土浦には5歳の妹が一足先早く来ていた。両親は東京に残り、家族は3カ所に分かれて戦時下を生きた。
土浦高等女学校(現在の土浦二高)に転校した。運動場はすべて畑になっていて勉強した記憶は一切ない。食糧増産のため毎日、虫掛などの農家に手伝いに行った。
しばらくして右籾の第1海軍航空廠(軍需工場)に勤労動員された。飛行機のどの部品を作っているのか分からなかったが、日の丸の鉢巻きを締め、工員の号令に合わせてひたすらハンマーでアルミ板を成型する作業をした。一の号令で腕を振り上げ、二でひじを曲げ、三でアルミ板をたたいた。
女学生や土浦中学(現在の土浦一高)の生徒が、街中から航空廠まで砂利道を歩いて通った。遠いので通うのが大変だろうと、土浦中学に機械を移し学校工場とすることになった。初出勤の8月15日、門をくぐると「正午に重大な発表がありますので帰宅してラジオを聞いて下さい」という貼り紙があり、帰宅し玉音放送を聞いた。
敗戦により、カメラマンとして宮内省(現在の宮内庁)に勤務していた父は職を失い、伊香保に学童疎開していた弟と妹も帰ってきた。ばらばらだった家族6人は戦後、土浦でやっと一緒になった。
伊香保から戻った弟と妹はシラミがひどくて、床屋に連れていかれ丸坊主になった。母は2人の衣服を釜でゆでシラミを殺した。疎開先では栗やドングリを食べていたという。2人が持ち帰ったノートには食べ物の絵ばかりが描かれていた。
女学校を卒業後、アルバイトをしながら茨城大学で学び、教壇に立った。父が職を失ったことから、当時もらった奨学金はすべて家に入れた。
現役を退き80歳になったころ、女学校の同窓会で戦争体験が話題に上るようになった。勤労動員された航空廠で空襲警報が鳴り、防空壕に逃げる途中、転んで米軍機に機銃掃射されそうになった話や、目の前で爆弾が爆発した話などだ。航空廠ではたびたび空襲警報が鳴った。栗栖さんは、自分は足が遅くて逃げられないと、いつも工場の中に隠れていた。同級生たちの辛かった体験を80歳になって初めて聞いた。
母校に赴き、戦争体験を後輩たちに話すようになったのはそれからだ。「勉強して、部活動をして、家に帰ると食べ物がある生活が当たり前でない時代があった。それが出来なかったのが戦争」と話す。